第16夜 狼少女とキツメの彼女
授業が再び始まった二学期の初め。
鳴りやまない蝉の音と、お経のような数学教師の言葉が合唱する中。私は、肘をついてノートの上でシャーペンを転がしてから、一つため息を吐く。
『この前言ってたでしょ、私の恋人』
『りこ?! え、えと、あ、あのわ、私、あ、藍上 月希と申します。え、えとりこさんはとは夏から少しその、一緒に、えと…………』
脳裏に浮かぶのは昨日、りこのお母さんの前で晒した私の醜態。
我ながら、何言ってるかわからないし、動揺しすぎだし、情けなさ過ぎて死にたくなる。りこのお母さんずっとぽかんってしてたし、あの後、慌てて帰っちゃったけど、変な子って思われてたらどうしよう。
ていうか、お土産の一つも持って行ってないし、りこと抱き合ってるとこ見られたし、そもそもちゃんと挨拶すらできてないし。
思い出すだけで、この場から飛び出したいし、消しゴムで削ってなかったことにしたい。こんどはもっと落ち着いた大人の先輩として、ちゃんと紹介してもらって…………なんて。しばやく妄想してから、もう一度ため息をつき直す。
今更、何を考えてるんだか。起こったことは戻らない。次会うことがあるかすら、見込み薄だ。まあ、そんなことわかってるのに、頭の中の後悔はリピート再生が止まらないけど。
それにしても、恋人なんて、りこ、絶対、私が慌てるってわかってて嘘吐いてた。まんまと乗せられて、醜態をさらした私も私だけれど。ため息をつくたび、いたずらっ子のような表情で舌を出すりこの姿が浮かび上がる……。
そうやって、しばらく染まる頬を教科書で隠していると、隣の席の大人しそうな女子が少し不思議そうに首を傾げてた。ああ、だめだ。ちゃんとしよう。
いい加減、もやもやとした気持ちを脇に置いて、背筋を正す。
うん。もうやめ。りこのご両親ともう一度会う機会があるかどうかすら怪しいのだし。気にしたって仕方ない。
だから、まあ、うん。仕方ない。
仕方ない、とは想うのだけれど。
窓の外、一年生の教室を見る。そこで、ふわぁと欠伸をうかべるりこを、こっそりちょっと藪にらみ。
待ってなさいりこ、今日、帰るときはちょっと仕返ししちゃうんだから。
そんな私の思惑を知らない君は、私の視線に気付いたのか、欠伸をしたままこっちを見て手を小さくひらひら振っていた。
そんなりこを見ながら、私はため息をつきつつ、手を小さく振り返す。
隣の席のクラスメイトは相変わらず、不思議そうに首を傾げてた。
※
というわけで、今日もりこと一緒に帰ろうとしたわけだけど。
一年生の教室に寄ってみても、りこの姿はなかった。昇降口によって下駄箱を確認しても、帰った様子もない。
仕方ないので、しばらく校舎内をうろうろして、匂いを辿ってみることにした。
こういう時は、自分が人狼でよかったって想うよね。まあ、普通に連絡先の一つでも交換しておけばいいんだろうけど。
りこと私は、未だに携帯の連絡先を交換してない。だから、会う予定はいつも別れ際にする口約束で済ませてる。多少居場所がずれても、私が匂いでりこを探せるしね。
まあ、交換してない理由は、それとは別にあるけれど。
だって、いつか別れるのは決まってるんだから、残してしまえばそれが未練になってしまう。
だから、今のままでもいいとは思うのだけれど。
微かに香る、君の甘い匂いを辿りながら、少しざわついた廊下を歩いてく。
夜、君と電話して、お話したり。大したことないメッセージを送って、反応にワ―キャー言ってみたり。ただ君の名前が携帯に映るのを、意味もなく眺めてみたり。
そういうことがしたいなと想う気持ちが、なくもないのは、きっと言わぬが花なんだろう。
口に出してしまえば、きっとそれもまた、未練になるから。
しばらく歩いた末に、校舎の端っこの静かな部屋に辿り着く。
ここだ。ここから、りこの匂いがする。
遠くの方で響く部活の音を聞きながら、そっと部屋の中を覗いてみる。
いた、りこだ。
そこには電気すらついてない、少し暗い部屋の中、椅子に座ってキャンバスにじっと向き合うりこがいた。
美術室の真ん中で、窓から差す西日を受けながら、りこはキャンバスに向かって何かを描き続けてる。ちらっとドアの上に吊り下げられた教室札を見ると「美術室」の三文字が描かれてた。
……他に部員はいないのかな。部屋の中を覗いてみるけれど、人影はほとんど見当たらない。…………なんて思っていたら、端っこに一人いたようで、その人は私に気付くと立ち上がって、美術室のドアをガラッと開けた。
「どちら様? 見学の人?」
すらっとした少し視線がキツメの女子生徒。リボンの色的に、3年生かな。
その人は部屋を出て、そっと後ろ手にドアを閉めると、私を見ながら首を傾げる。
「あ、えっと、中にいる子の知り合いです。一緒に帰ろっかなって思ったけど、忙しそうですかね…………」
私がそう言うと、その上級生はちらっとりこの方を振り返って、ふぅんと軽く頷いた。それから私に視線を戻すとこくんと首を縦に振る。
「そうね。どういうわけか、今日は珍しくやる気みたい。放課後すぐに、美術室を開けてくれって私に頼みに来たの。……普段から、あれくらい集中力を見せてくれたらいいんだけれど」
そう言って彼女は手の中にある、部屋の鍵をかちゃりと握った。私はへぇと頷きながら、もう一度りこに視線を向ける。
りこは脇目も振らず、貪りつくようにキャンバスに向き合ってる。やる気が出ているっていうのは、どうにも本当らしい。
そのやる気が、私の嘘の約束のせいかもしれないと想うと、少し胸が痛くなるけれど。
「そうですか……じゃあ、邪魔したら悪いですね」
残念だけど、早々に退散しようか。りこが、りこのやりたいことのために頑張っている時間を邪魔したくはない。
ただ、そういう私にきつい眼の彼女はチラッと視線を向けて、考えるように軽く唸る。それから、何かを確かめるように口を開いた。
「そうね……でも、ごめんだけれど、少しだけ時間もらっていい?」
そう言った彼女の言葉に、私は少し首を傾げて、特に断る理由もないので頷いた。それにしても、私になんの用が? なんだろう、まあ、りこのことだとは思うけど。
彼女に連れられて、廊下をしばらく歩いて、自販機がある場所につく。
何か飲みたいものある? って聞かれたから、とりあえずカフェオレって答えたら、そのままカフェオレが私の手にそっと置かれた。キツメの彼女はストレートティーを買って、二人揃ってベンチに腰を下ろす。
「あなた、あれでしょ、2年の藍上さん」
「…………なんで知ってるんですか?」
思わず怪訝そうな声が出てしまうけれど、キツメの彼女はなんでもないように肩をすくめる。
「結構有名人よ、あなた。凄い髪色の、信じられないくらい美人が2年にいるって。態度がトゲトゲしくて、誰一人寄せ付けない。高嶺の花、深層の令嬢、あまりにも人間離れしてるから、実は吸血鬼って噂もあるけど」
口にしたカフェオレが、一瞬気道を逆流してむせこんだ。
「……けほ……どういう噂ですか、それ」
……しかもよりによって吸血鬼扱いか、脳裏で本物の吸血鬼が元気にピースをしていたけれど、私は首をぶんぶんふって追い出した。
「ま、もちろん。噂だけれど…………こうやって実物を目にすると、あながち嘘でもないかなって気もしてくるわね」
そんな彼女の何かを探るような視線に、思わずうっと眼を逸らす。記憶の中でりこが藪にらみ顔で『だから言ったじゃないですか』とため息をつく姿が微かにちらつく。
「…………それが話したい内容ですか?」
ただそんな私の言葉に、キツメの彼女は軽く首を横に振る。
「まさか、私、そこまで面食いじゃないの。単純に興味があったのよ、あの野良猫みたいな子が、やっと懐いた相手はどんなのだろうって」
「…………りこのこと……ですよね?」
私の言葉に、こくんと首が縦に振られる。
「今年の春に美術部に入ってきたはいいけれど、誰にも懐かず、友達の1人もいない、作品も出さない。まあね、そういう子もいるわよ? コミュニケーション苦手な子。でもあの子はなんというか、もっと面倒くさいの。ぱっと見、愛想はいい癖に、その実さっぱり心を開かない。おまけに嘘ばっかり吐くから、本心がどこにあるかもわからない」
「………………まあ、そうですね」
頭の中でりこがちろっと舌を出す。それを押し流すために、カフェオレをそっと口に含んだ。
「そんな子と初めて仲良くしてる人がいた。なんでも、昇降口で抱き合ってたらしいじゃない? もしかして、そういう関係?」
口につけたカフェオレが、もう一度気道に入ってがっつりむせた。
ブラウスに薄茶色が飛び散って、なんとも情けない汚れができる。
「…………ち、違います。別にそういう関係では……」
ない、はずだ。金銭が絡んで、夜な夜な部屋に連れ込んではいるけれど。………なんかもっとダメな気がしてきた。
というか、昨日といい、最近、そういう勘違いよくされるなあ……。
「そう? 偏見ないわよ、私。……ま、なんでもいいけど。私としては、あの子に、よやく火が付いた理由が少し知りたかっただけだから」
そう言ってキツメの彼女は、どこか遠くを見るように目を細める。
私はしばらく何も言えず、押し黙る。りこが再び絵を描き始めた理由は、多分、私のせいなのだけれど。
「……理由になってるといいんですけど」
正しく描く理由になっているのなら、それでいい。たとえそれが果たせない約束だとしても。
「……どういう意味?」
キツメの彼女は少し怪訝そうに眉を寄せると、軽く首を傾げた。
私は思わず少し言葉に詰まる。
この人に教える意味は多分ない。りことの大事な約束だから、無暗に人と話すべきでもない。…………でも、りこのことを気に掛けてくれている人に、少しだけ伝えておきたい気もする。
どうなんだろう、嘘を吐いているという罪悪感を、ただ吐き出したいだけだろうか。
少し迷って、でも、胸の奥でつっかえた何かに押されるように、結局、私は口を開いてしまった。
「……呪いになっているだけかもしれません」
「…………呪い?」
キツメの彼女は、じっと私のことを横目で見つめてた。
「りこに……りこの絵が描きあがったら、絶対に見にいくって約束したんです。……でも、私、もうあまりここにいれなくて。だから多分…………りこの絵を見ることが本当はできないんです」
口にして、改めて酷い奴だと想う。果たせない約束で期待だけさせて、待っているのは手酷い裏切りだなんて。
「……家庭の事情みたいな話?」
「まあ……、そんな感じです」
上手く伝わってはいないだろうけど、キツメの彼女はなるほどと軽くうなずいて少しだけ眼を閉じていた。
私がふうと吐いた息には重りが詰まっているようで、胸の奥からじくじくと黒い何かが湧いてくる。口にすれば気は楽になるというけれど、罪悪感は絶えず湧き続けて、軽くなる様子はさっぱりない。
目尻に涙が浮かびそうになるのを、ぎゅっとつむって押しとどめる。私の方がりこに傷をつける側なのだから、こんなものを流す資格はない。
それにしても、くだらない話をしてしまった。さあ、なんて言って話を終わろうかな、としばらく考えていた。
なのに。
「―――別にいいんじゃない?」
「………………」
キツメの彼女は、肩を落としてストレートティーを何でもないように啜ってた。
「あの子は、今、実際描いてる。高校入学してから、ほとんどまともに描いてなかった子がね。それだけで大した話だし、聞く限り別にしたくて裏切るわけじゃないんでしょ。……なら、まあ、仕方ないわよ」
「……りこを……傷つけるのに?」
口から漏れた言葉が、渇いて、掠れてまるで別人みたいだった。
「まあ、それはそうかも。でもまあ、今時スマホで見るなり、なんなり方法はあるでしょう。そりゃあ完璧に約束を守ることはできないかもだけど、妥協案くらいはあるんでしょ?」
「………………」
そんなものがあるのなら……と、口にすることはできなかった。
私達の関係を半端に維持できる方法なんて、絶対ない、それだけはわかってる。
そうやって黙っていたからか、キツメの彼女は、少し気まずそうに視線をそらすと、一つため息をついてからぽつぽつと口を開いた。
「あなた、あの子の絵、見たことある?」
不意に切り替わった話題に、少し気を取られて、言葉に詰まる。
「…………えっと、ないです」
りこが私に見せてくれたのは、真っ白キャンバスと途中まで描き上げた下書きだけ。完成した絵を見たことは、一度もない。
「そう。私はね中学の頃一回、コンクールの展示場でみたことあるの。蒼い―――真っ青な空をね、ただありのまま描いたような、そんな絵だった」
「…………」
何かを想い出すように、キツメの彼女は、眼を閉じながらゆっくりと言葉を紡ぐ。
「お世辞にもコンクール向けの絵じゃなかった、特別審査賞とかは、まあ、審査員と噛み合いよければ取れるけど。あんまりそういう、広く受け容れられる絵じゃないの。粗はあるし、細かい技法ガン無視だし、その時のトレンドなんて1ミリも意識されてない」
「………………はあ」
そこで言葉を切ってキツメの彼女は、遠く見るように目を細めた。
「でもね、多分、誰かの人生を変えるのはああいう絵なの」
「――――――」
言葉が咄嗟に出なかった。
「100人とか1,000人に凄いって認められる絵じゃないの。どこかの誰か1人の心だけを致命的に動かすような。まるで、この世界のどこかたった1人に向けて描いたみたいな―――そんな絵を描くの」
「………………」
「私は初めてあの絵を見た時、言葉にならなかった。まるでそこに立って本当に空を一緒に眺めているみたいだった。きっとそのたった1人が私ではないけれど、それでも動かされる何かがあった。あの子にしか描けない何かが、そこにある。そういう絵を描くのよ、あの子は」
「…………そうですか」
……しばらく、声が上手く出せなかった。
なんでだろう、わからない。でもとても、りこらしいとも想ってしまう。
この世界にいる、たった1人の誰かのために、大切な何かを描く。
私のためだけに何度も何度も震えながら、嘘を吐いてた君の姿が脳裏によぎる。
「だから―――なんていうのかしらね。そんなあの子が、また絵を描く気になれたなら、あなたがした約束にもきっと意味があったのよ。
部長のさやかがどれだけ励ましても、私がどれだけ叱っても、一つだって描こうとしなかったあの子が、今、ちゃんと描いてるんだから。…………その約束が、もし結果的に守れないものであったとしてもね」
手にしたカフェオレが微かに震えてる。喉の奥も弱く静かに震えてる。
この嘘に本当に意味があったのだろうか。
いつか、りこをどうしようもなく裏切るとしても。
わからない、私にはまだ、何もわからない。
少し身体の奥の震えを感じた後、軽く視線を横に向ける。そこにあったのは少し気恥ずかしそうにする、キツメの彼女のすがた。
……そういえば、3年生だったよね。それとりこを叱ったって言ったっけ?
その人物像に当てはまる人は、りこの話の中ではたった1人。
「……もしかして、副部長さんですか?」
そう言うと、キツメの彼女は少しうげっと顔をしかめた。
「……そうだけど、何? あの子からなんか聞いてるの? ……まあ、どうせ私のことなんて、ろくでもない話でしょうけど」
案の定だったらしい、私はなるほどと納得しながら、軽く首肯する。
「はい、凄く叱られたと。それで凄く落ち込んでました、『美術部辞めようかな』って口にするくらいには」
私がそう言うと、キツメの彼女……いや、副部長は、ぐぎっと明確に表情を歪ませた。どうやら罪悪感くらいは感じているらしい。
「まあ、別に間違ったことは言ってないつもりだけどね…………。はあ、嫌な先輩だっていうんでしょ、自分でもわかってるわよ」
そう言った彼女は気まずそうに、視線を逸らす。
私はそんな彼女の様子をふうんと観察して、ふと思い立ったことを聞いてみる。
「もしかして、期待の裏返しだったりします?」
特に脈絡のない直感的な質問。
「……どこが。あんなぐうたら嘘吐き、期待したってしょうがないでしょ」
そう言って彼女は、機嫌悪そうにふんと鼻を鳴らした。
甘く……はないけれど、あまり苦さはない、でも明確に酸っぱい嘘の香り。
まあ、さっきのりこの絵への評価を聞いてたら、答えは言わずもがなわかる気もするけれど。
「そうですか、嘘はよくないですよ、副部長さん」
私の言葉に、副部長さんは「はあ?」と呆れたような視線を向けてくるけれど、残念ながら少し耳が赤い。なるほど、意外と可愛げがある人かもしれない。でもりこが傷ついたのは本当だから、少しだけ仕返しておこう。
「そういうのは、想ってるだけじゃなくて口に出さないと、伝わりませんよ?」
あえて反論を無視して、さも当たり前のように笑いながら彼女を見た。彼女はしばらく困惑したように私を見ていたけれど、やがて仕方ないという風にため息を吐く。
「わかってるわよ…………」
そうやって答えてくれたから、私としては満足だった。
「じゃあ、私そろそろ、帰ります。りこのこと、お願いしますね」
そう言って、まだ少しし耳の赤い美術部の副部長に頭を下げて、そっとベンチから立ち上がる。
何か声を掛けられそうだったけど、私は振り返りもせず、足早にベンチを立ち去った。
ふと思い立って、最後に少しりこを見ていこうと思った。
美術室の前まで来て、扉からそっと部屋の中を覗く。
君は相変わらず、キャンバスの前にかじりついて、何かを一生懸命描いている。少しうすぼんやりと絵の輪郭がつかめそうな気もしたけれど、完成前に見るのも無粋かなっと想ってあえて眼を逸らす。
君はじっと、じっと、何かに打ち込むように、絵を描き続けてる。
私の嘘は、きっとどうやったって許されるものじゃない。
でも、君がそうやって前に進めるなら、きっと悪いことばかりでもない……よね?
きっと、君はこんな嘘を吐いたことを、決して許してはくれないけれど。
君の絵は、世界でたった1人の心を変えるものだと、副部長さんは言っていた。
多分、その1人は、私なんかじゃないけれど。
でもそんな素敵な君が、一歩前に踏み出せるなら。
きっと、それでいいのだと、そう想う。
それにしても、想っているだけじゃダメだなんて、どの口が言っているのやら。
私が一番、大事なこと言えてないのにね。
なんて考えながら、扉の隙間からそっと香る君の甘い匂いに、微笑んで。
微笑んで。
――――。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
視界が。
歪んだ。
あ。
同時に。
意識が飲まれた。
先は。
君の。
白くて。
柔らかそうで。
その。
首元。
それと。
窓の向こう。
赤い西日の中。
白くかすんだ。
半分まで―――満ちた月。
※
そこから先のことは、あまりよく覚えていない。
できるだけ感情と衝動を抑え込むようにして、歯を食いしばりながら、その場を後にして。
夕日に照らされる校舎から独りで走って、気付いたら自分の家で膝を抱えてた。
息が荒れる、身体が震える、胸の奥で心臓がばくばくと脈打っているのに、全身から血が抜け落ちたみたいに凍えてる。
ああ、苦しい。辛い。寂しい。
そんな風に数時間経って、ようやく息の荒れが収まった頃に、開けっぱなしの窓から見知った顔がやってきた。
「…………どうしたの? つきちゃん。今日、なんか酷いよ顔色、あと匂いも。街中に切羽詰まった残り香が溢れてたし……」
月明かりを背にしたちゆさんの言葉に、歯をがたがたと震わせて、私はただ膝を抱える。
「…………も」
「…………え?」
「………………もう、あと」
あと、どれくらい、りこのそばに居られるんだろう。
最近、りこを噛むほどに、衝動が強くなり続けてる。
少しずつ、でも確実に。私の身体を蝕むように。理性がぐちゃぐちゃに溶けていってる。
今回はたまたま抑えられた。でも、次、抑えられるとは限らない。
もし、そうなったら―――。
そんな、私の言葉に、ちゆさんは何かを悼むような顔をして、ゆっくりと私のそばにしゃがみ込む。
「あんまり時間が残ってないってこと…………?」
そんな彼女の言葉に、私はただ頷くことしか出来なかった。
「…………そっか」
そうしてちゆさんはしばらく考え込むように、口元に手を当てて。
「ねえ、つきちゃん。つきちゃんに会いたいって人がいるの。今度……ううん、明日にでも会ってみない?」
何も言えない。わからない、今更誰かに会って、何か変わるのだろうか。
誰にどう会ったとしても、この衝動が抑えられるわけじゃないのに。
なのに。
でも、ちゆさんも、そんなことは解ってて。
だから、少し心苦しそうな表情で、でもじっと私のことを見つめたまま。
「その人はね、つきちゃんと同じ、ともすれば人を傷つけてしまう性質を持っていて―――」
そうしてちゆさんは、何かを決意したように、私の手をそっと握った。
「―――それでも人と添い遂げることを、決めた人なの」
まるで、何かを諦めないようにしているみたいだった。
わからない、どうしたらいいんだろう。
震える手を握られながら、私は思考を上滑りする彼女の言葉を、ただ茫然と聞きながら。
視界の向こうで、欠けた月がゆっくりと満ち始めているのを。
ただ見ていることしか出来なかった。
満月まであと、何日?
ねえ、りこ。
私、どうしたらいいのかな。