第14夜 狼少女と言えない秘密
どれだけ嘘が匂いでわかるとしても、心の全てがわかるわけじゃない。
りこが抱えてる想いも、悩みも、全部気づいてあげることはできない。
それでも今、君の手を取ることを躊躇いたくはなかった。
だってこれは嘘吐きな君が、溢した本当に微かな兆し。
私たちの猶予は、あと一回。きっと、今を取りこぼせば、君のその涙をぬぐう機会は、二度とない。
それに気づいてしまったからだろうか。
私は、無理矢理にでも君の手を取って、無理矢理にでもその顔をこっちに向けさせた。
君がそれを望んでくれるかは、わからないけど。
久しぶりに二人で跳んだ空は、鮮明過ぎるくらいに酷く蒼く澄んでいて。
立ち上る入道雲だけが私たちのことを、物言わぬままじっと見ていた。
嫌われちゃったら、どうしよう。
でも、それでも、君の心をこのまま閉ざしてしまうことは嫌だった。
どうしてか、そんなわがままな気持ちが私の背中を押し続けていた。
※
「はい、りこ」
そう言いながら、鞄から取り出した棒付きのコーラ味のアイスを君に渡した。
「…………いつ買ってきたんですか?」
そういう君は、まだうつむいたまま、どことなく濁った声で小さくぼやく。
「最初から。売店寄ってたんだ、一緒に食べようと思ってさ」
同じメーカーのソーダ味のアイスをカバンからもう一つ取り出しながら、私はビルの側面で足をぷらぷらさせる。適当な屋上の日陰を見つけてみたけど、正直まあ、暑いことに変わりはない。
袋を開けると、氷菓子の合成されたソーダの匂いが、すんっと香る。私は牙で思いっきり嚙み砕かないように気を付けながら、少しずつそれを咀嚼する。うん、冷たい、甘い。
「…………」
君は何も言わぬまま、じっとアイスを見ていたけれど、やがて渋々といったふうに封を切り始めた。
「アイス嫌い?」
「大っ嫌いです」
甘い嘘の匂いがする。意外とりこの舌はお子様風味だ。
そうして君は大っ嫌いなはずのアイスを、大口で思いっきり嚙み砕く。ざくざくと気持ちのいい音を立てながら。
そうしてしばらく沈黙が続く、となりの君は泣きべそをかいたまま。
どうして泣いてたの? 何か辛いことがあったの?
そう素直に聞いてもいいけれど、君のことだし適当言ってはぐらかす気がする。
だから。
「ねえ、りこ」
「…………なんですか」
君はぶっきらぼうに、そう返事をする。
「こっち向いて」
「…………?」
あえて説明せずに、君の顔をこっちに向けさせる。
君は疑問に眉を寄せながら、半眼で私の方を見ていた。その口に。
「はい、あーん」
私のアイスを、思いっきり突っ込んだ。
さすがに歯とかでひっかかるかなと思ったけど、意外とすんなり君の口にアイスが突き刺さる。あらら、半分くらい入っちゃった。
「も……あ……がっ?!」
君は眼を白黒させながら私の方を混乱した様子で見てくる。
それにしても、ふむ、女の子の無防備な口に棒を突っ込むのは、なんだかいけない背徳感がある。
そのまま「うりうり」とちょっと棒を上下させると、余計にそんな気分が加速する。何故か喰人衝動もちょっと湧いてくる、ほんのちょっとだけ。
うーん……、こういう状況じゃなかったら、もうちょっと楽しいかも。こういう状況じゃなかったらね。
しばらく遊んでから、口をカチカチさせて、「噛んで」と伝える。
君はしばらく困惑したままだったけど、やがてふんと思いっきりアイスを噛みちぎって、険しい瞳で私を睨んだ。
「もう…………んぐ、なんなんですか……もう……んぐ」
そう言われながら、私は半分くらいなくなったアイスを眺める。それから先端をちろっと舐める。うん、りこの味がする。嘘だけど。わかんない、でもちょっと涎の味がするのは確かかも。
君はそんな私を見て、少し顔を紅くしていたけれど、私があーんと口を開くともっと紅くなってしまった。
「な、なんなんですか?! つき先輩?!」
「なにって……食べさせっこ? 私もコーラ味食べたかったから」
そう言って眼を閉じて、口を開けて君のアイスがやってくるのを待つ。こうやってると、少しだけ君が『ご主人様』な時間を想い出すけど、まあ、今は気づかぬふり。
しばらく君の悩むような気配を感じたけれど、やがて恐る恐るという風に、私の口の中に冷たいアイスがゆっくりと入ってきた。うん、甘くて、冷たい。
指を噛んでいるときも思ったけど、この自分の粘膜の内側を、他人に明け渡すのって凄い感覚だと思う。普通じゃ絶対あり得ない、絶対許してはいけない、生物なら忌避をしてしかるべき、そんな感覚のはず。
なのに、相手が君というだけで、まあいいかという気にさせられる。その気になれば命すら奪えるその場所を、君相手なら平気で明け渡せてしまえる。
なんならそれが、少し心地いい。不思議な感覚。
しばらくそんな、得も言われぬ感傷を味わって、やがてそれを断ち切るように牙を振り下ろす。じゃくっていう音の跡、甘い氷の塊が、私の口内に転がり込んでくる。
「先輩は……間接キスとか気にしなさそうですね」
「まあ、今更だと思うよ? 普段もっと凄いことしてるし」
そう言う私を君は恨めしそうに見ていたけれど、やがてはあとため息を吐くと、諦めたように自分のアイスを食べだした。私は微笑みながらそんな君の横顔を眺める。
それから二人並んで、同じように入道雲を眺めながら、屋上で蒸し暑い風の中、足を遊ばせる。
何も言わず、ただ風の流れる音と、アイスをかじる音だけがしばらく流れた。
「ねえ、りこ」
「………………なんですか」
君の返事は相変わらず、そっけない。
「ちょっと気は紛れた?」
「……………………まあ、ほんの少し」
でも、その言葉に嘘はなかった。
それでいい。私はそれだけでいい。
こっそり、君に見えないように笑みを浮かべる。
「そう、―――よかった」
夏風がぶわりとビル風に乗って、私たちをあおってく。ごうごうと髪を風が弄んでいく。
「………………聞かないんですか」
「何を?」
「…………さっき、私が…………荒れてた理由」
君の視線はこっちを向かない。でもなんとなく、心は逆に顔を覗かせてくれた気がした。
「教えてくれるの?」
「…………………………」
きっと、それは今まで上手く伝えられなかった想い。
出会った頃から、明かさずに閉まっておいた、りこだけが知っている小さな秘密。
誰にも見せていけないノートの、奥底に描かれた、大切なもの。
無理に触れる意味はない。触れて傷つけるかもしれない。
でも、それでも。
「聞けたら、嬉しいかな」
今は、もう少しだけ君との距離を縮めたい。
一秒でも、一ミリでも、君との、この限られた時間の中で、その心に触れていたい。
……なんてね。
それから、不意に思い立って、君の首元に顔を寄せる。そのまま、ふわりとした甘い匂いに身を委ねる。
君は一瞬びくって身体を震わせてた。でも、しばらくすると、ふうって一つ息を吐いて、ゆっくりと身体の力を抜いた。
それから、少しずつ何かを、確かめるように言葉を紡いだ。
「先輩は―――どうやったら私のこと嫌いになりますか?」
そう言った君の声は穏やかに響いてるようだったけど。その奥底の、ほんの僅かな、かすかな震えが私の鼓膜を静かに揺らしてる。
そんな時間の中で、アイスはそっと、私たちの手の中でゆっくりと溶けていった。
※
「そうだなあ……りこがこっそり私のことをサーカスに売ったりしたら、嫌いになるかも」
「……しませんよ、ていうか、サーカスなんて私、見たこともないです」
「実は、私も。後は……うーん、もっとお金が払える人が現れて、私と会ってくれなくなったら……」
「そんなパパ活まがいな真似しませんよ……」
「今も、割と怪しくない? …………あとなにかあるかな、うーん……実は私に対して不満ばっかりでSNSで悪口書きまくってる……とか…………ない、よね?」
「言ってる側が自信失くさないでください……してませんよ」
「そっか、よかったぁ……本当によかった……」
「もう…………」
そう言いながら、古びたアパートのドアに、りこは鍵をがちゃりと差し込んだ。ガチャンと重い音が鳴って、金属製の扉がゆっくり開く。
あの後、君は私に、何も聞かずにある場所へつれていってと、そう言った。言われるがまま君を抱いて、ビルの屋上を駆け抜けた先に辿り着いたのは、いつもの場所。何度も君を送り届けた、君のアパート。
見慣れた場所のはずだけれど、昼間に来ると少し不思議な印象がある。閑散としているけれど微妙に人の気配があって、見慣れた光景のはずなのに、少しだけ落ち着かない。
そんな場所で君は何も言わないまま、私を家に招き入れた。私は少し散らかった玄関で靴を脱いで、誘われるまま君についていく。
うちは貧乏なんです、いつか君はそう言っていたけど、確かにあまり裕福な感じはしない。親子3人が住むには少し狭い部屋、雑多な物、少し汚れた壁紙、昼間に両親がいないのも、共働きだからだろうか。
私と君以外誰もいない、短い廊下をそっと横切って、君はある部屋の前のふすまに手をかけた。そこには「りこの部屋」と拙い文字で書かれた、小さな名札がぶら下がっている。
ガラッと少し、軋んだ音を立てて、ふすまが開いた。
りこは何も言わずに、視線で私をその中に招き入れた。
雑多な、物が散らかった小さな和室だ。甘い、りこ特有の匂いが生活臭と混じって少し湿っぽく広がってる。布団は敷かれたままで、勉強机は座卓だけ、小さな本棚には無理矢理たくさんの本が詰め込まれてる
そして部屋の隅に転がっているのは……キャンバスと……画材かな。
君はクーラーをつけて鞄を置くと、汚れないように新聞紙が引かれているその場所に、そっと歩み寄る。それから、床に伏せてあったキャンバスを、ゆっくり拾い上げた。
そうやって拾い上げたキャンバスには……何も描かれてない。真っ白だけど、何かを消した跡だけがあって少し汚れてる。
りこはそれをそっと壁に掛けると、その下から出てきたもう一つキャンバスを私に向けた。
………………なんだろう、鉛筆のようなもので、輪郭取った跡だけがある。
丸くて……ビルの中にあって、空かな? 丸いのは、太陽? 月?
何かの下描き、だろうか。
「これが…………私がこの一年で描いた全部です」
そう言いながらりこは、少し掠れた声で、そのキャンバスをさっきと同じ場所に立てかける。真っ白で少し汚れたキャンバスと、空をかたどった色のないキャンバスだけが、アパートの壁にそっと並んだ。
すとんと、りこがそのキャンバスの前に腰を下ろしたから、私も真似してその隣に腰を下ろす。
「…………笑っちゃいますよね、絵を描く学校に行くとか言っていて、こんな体たらくで」
そういう君は膝を抱えてうつむいたまま、愉快そうに、可笑しそうに、どこか震えた声で嗤ってた。
「…………今日、本当は文化祭で展示する作品の報告会だったんです……まあ、私、何も描けてなかったけど」
そんな君の声を、私も膝を抱えたまま、黙って聞く。その声の奥の震えが少しずつ、私の中にもじんわりとした痛みを産みだすのを感じながら。
「そしたら、副部長に怒られちゃって、やる気ないなら辞めろって言われて……情けないけど、ああ、その通りだなって想っちゃいました」
ゆっくりと君の声が震えてく、精一杯明るい声にしようと無理矢理喉を張っているけれど、段々取り繕えなくなっていく。
「だって、どう考えても、美術部なのに、絵を描けない奴なんて邪魔でしかなくて、やる気だって本当にないし、言い返すことだって何一つもできなくて………………」
ぽつりと音がした。それから、またぽつり、ぽつりと音がする。雫の落ちる音がする。
私は何も言えないまま、そっと身体を寄せて、君の身体が弱く震えるのだけを、ただ感じてた。
「……来週に下描き出すって言ったけど、多分、描けないんです。一年くらい前からずっと……何を描いたらいいのか、もうわかんなくって、誰も私の画なんて、きっと求めてないし…………そう考えたら、もう、いっかって」
ぐしゃりと、紙が潰れるような音がした。その音の方向に視線を向けると、りこのポケットから小さな紙切れがぐしゃぐしゃに握られていた。
「だから…………辞めちゃおうって思ったんです。美術部。もう、みんなに迷惑かけてるだけだし、いるだけ……意味ないし、画材もキャンバスも無駄だし、どうせ嫌われてるし……」
りこの身体は、ずっとずっと震えてる。言葉は途中から水音で濁って、震えて、時折何かを吐き出すように荒げられていた。
きっとそこには途方もない程の痛みがあった。
耐えがたいほどの現実、受け入れがたいほどの真実。
きっとまだ言葉に出来ていないことも、絵を描けない理由も沢山あって。
りこの小さな背中じゃ、とてもじゃないないけど背負いきれないものばかりで。
どうにかしてあげたいけれど、私にできることはあまりにも限られている。
だって、絵を代わりに描いてあげることもできないし、描けない心を無理矢理変えることもできない。
それ以前に、文化祭の日までに、君との関係が終わっていることだって、十分あり得る。
それくらい、私達に残された時間は、もうほとんどない。
でも………何かしたかった。
目を閉じれば、あの小さな部屋で君が吐き続けた嘘が、震えながら言い続けてきた言葉が蘇る。
君は私にたくさんの言葉をくれた。嘘に隠した想いをくれた。
だから、今、君の震えて壊れそうな心を、どうにかして繋ぎ止めたい。
たとえ、それを覆す力が私にはないのだとしても。
だから――――。
りこの震えた手を、ぎゅっと握った。
「ねえ、りこ」
だから――――。
私は決めた。
「私と、一つだけ、約束しない?」
嘘を吐こう。
君がくれた、たくさんの優しい嘘に報いるために。
それがほんの少しでも、君が前を向く理由になるのなら。
たとえこれが、やがて呪いになったとしても。
「いつか、りこの絵を、私に見せて欲しいんだ」
一つだけ、嘘を吐こう。
「その時は、絶対に―――見に行くから」
たとえ、その時、君の隣にもう私がいないとしても。
君が歩く意味になれるなら。