第二章:屍を積んで、道と成せ
明智光秀は、山崎にいた。
信長を討ったと信じたその夜、すでに祝宴の支度を命じていた。
だが、夜明けとともに、兵が駆け込む。
「……本能寺、焼け落ちず!」
「信長公、蘭丸と共に脱出された模様――!」
杯を落とす音が響く。
「ば……馬鹿な……!」
その瞬間、光秀の周囲から空気が抜けた。
京の町に広がる“魔王、生きる”の噂は、火よりも速く戦地に届いていた。
一方その頃――
信長は、京の北方・二条城の奥にあった隠し兵舎で傷を手当てしていた。
だが、寝てなどいなかった。
すでに、次の一手を打っていた。
「安土に残っていた近衛軍、すべて呼び寄せよ」
「兵を整え次第、山崎へ向かう。奴の首を、京の門に吊るす」
蘭丸が傷を負ったまま進言する。
「殿、まずは体を――」
信長は鼻で笑った。
「体より、怖れを先に戻せ。
民も兵も、俺の声を“聞いた”という実感がなければ、明日はねえ」
信長は立ち上がる。
その口から吐き出された言葉は、まるで獣のようだった。
「――喰らうぞ、光秀。
お前の首は、“信長の覇道”の通行証だ」
明智勢は焦っていた。
兵の士気は落ち、光秀本人も憔悴していた。
そのなかに届く、一通の報。
「羽柴秀吉、本日未明、備中より大返しにて山崎口へ向けて進軍中!」
「……なんだと!?」
光秀は青ざめた。
信長が生きており、秀吉も帰ってくる――
この意味を、光秀は誰よりもよく理解していた。
すなわち――終わりだ。
翌日未明。
雨に濡れる山崎の湿地帯に、信長は姿を現した。
その姿は、まるで戦場の亡霊。
髪を束ねもせず、血が乾いたままの鎧、両目は据わり、剣は鞘にすら納められていなかった。
羽柴秀吉が馬上から声をかける。
「殿! 生きていてくだされたか……!」
「秀吉。遅かったな」
「……だが、俺が斬るのはひとりだけだ」
信長は馬の手綱を握り直し、空を見上げる。
「見せてやろう。これが“魔王の征伐”だ」
信長と秀吉の連携により、明智軍は包囲される。
伏兵、強襲、火矢。
かつて織田軍が見せた“苛烈さ”を、信長はそのまま返してみせた。
「逃げるな。俺を殺しに来たんだろう?
ならば殺らせてやる……この俺に!」
信長は先陣を切り、敵将の首を次々と落としていく。
その背中に、味方すらも恐怖した。
明智光秀は戦場を脱し、落ち延びようとしたが、逃走の途中で農民に捕らえられ、命を落とす。
京。
再び本能寺の前に立つ信長。
「焼けなかったな、俺の墓場」
誰に言うでもなく呟いたその声は、夜風にかき消されることはなかった。
蘭丸が傍らに近づく。
「殿……これから、どうなさるのです?」
信長は振り返り、ただ一言。
「――もっと、焼く。
この国が形を変えるまでな」