第一章:獣、焔より立つ
天正十年六月二日、未明――
京・本能寺。
湿った風が、寝静まった堂内を撫でていた。
その風の中に、かすかな鉄と血の匂いが混じる。
「――来たか」
声がした。
奥の寝所、帳をかき分けて現れたのは、織田信長。
髪を無造作に束ね、寝間着のまま、だがその目は爛々と光っていた。
森蘭丸が膝をつき、声を震わせる。
「殿! 明智光秀が! 三千の兵で本能寺を――!」
「……あの腑抜けが、よくも吠えおったな」
信長は、口の端を吊り上げて笑った。
「面白い。逃げねばならぬ、という声もあるだろう。だがな……」
信長は、ゆっくりと腰を上げ、立ち上がった。
「俺は、“退く”という芸当を知らぬのだよ」
具足が運ばれる。
金の南蛮胴、黒漆の脛当て、虎の毛皮の肩掛け。
異形の鎧に身を包む姿は、もはや人ではない。
蘭丸が震えながら口を開く。
「殿……ご自害など、なさいませぬよう……!」
信長は一瞬だけ蘭丸を見やり、口元を歪めた。
「自害……? バカが」
ぐっと顔を近づける。
その目に宿る光――それは「狂気」と紙一重の覇気だった。
「俺はな、蘭丸。“死ぬため”に戦ってきたわけではない。
“殺して、生きる”。それが信長だ」
本能寺の南門が破られた。
「撃て! 撃てぇっ!」
「信長を討てぇッ!!」
明智勢の鬨の声が響く。
だがその時、堂内の障子が割れて、信長が現れた。
火花のように散る髪、剣を引きずるように持ち、血を浴びたような姿で。
その背に“天下布武”の旗を掲げて。
「――貴様ら、俺を殺りに来たのか。良いだろう」
「だがその覚悟、たった一晩じゃ足りぬぞ。百戦、千戦を経た俺の心を穿つにはな!」
信長が叫ぶ。
「――かかってこい、穢れども!!」
斬り結ぶ。
燃える堂内に、地獄のような声と金属音がこだまする。
翌朝、明智光秀は、山崎にて「信長、討死」との報を受ける。
だが、その報せは、誤報だった。
“信長、生きている”
“本能寺を生きて出た”
“蘭丸も死んでいない”
それを聞いた光秀の顔は、蒼白となる。
「まさか……まさか、あれで……!!」
風が吹く。
京の空に、“魔王の影”が再び甦る。