9 異変
──翌朝
渡涙は、いつもと同じように目を覚ました。
寝起きは良いほうだ。起きてすぐに意識がはっきりとする。
「……」
寝ぼけた目をこすり、自分のお腹をさする。
思い出したのは、昨日の出来事だった。
(あれから、不良女教師と咽の二人に保健室に運び込まれたらしい。特に怪我をしていたわけでもないから、普通に帰宅したんだよな……)
確かにあの時、自分は刃物で腹を刺し貫かれたはずだった。
恐る恐る、パジャマのボタンをはずす。
そこには、幼い時から彼のお腹を守ってきた、愛用の"腹巻"があった。
昔子供向けに流行した、クマのキャラクター"ナミダグマ伯爵"のアップリケが施された腹巻。彼の母親からの贈り物。片時も外したことのない、大切な宝物だった。
「まさか、な……」
ドラマなどでよく聞く話だ。主人公の危機(たいていはナイフや銃弾で胸を打たれる)に、大切な人からの贈り物が盾になって、間一髪死を免れるというものだ。
腹巻をはずして観察してみる。
刺し傷は、見事なまでに腹巻を貫通していた。ナミダグマ伯爵の右目に、巨大な穴が開いている。
毛糸で巻かれただけの腹巻に防刃効果を期待するのは、確かに間違いだろう。
「……ふう」
深いため息。これまで彼のお腹を守ってきてくれた腹巻にドでかい穴が開いたことと、昨日のあの出来事がまぎれもない事実だったこと。この二つが重くのしかかる。
しかし、肝心の彼のお腹には、確かに傷一つついていたなかったのだ。
「これはいったい、どういうことなんだよ」
ドゥルウウゥゥゥ……
「おっと、いかん」
慌てて腹巻を付け直す。彼の繊細(?)なお腹は、少しでも冷やすとすぐに唸り声をあげるのだ。
もう一度ため息をつき、気を取り直す。
涙の朝は、意外と忙しい。必要な準備を手早く終えると、いつも通りの時間に家を出発する。
──そして、いつものように遅刻するのであった
涙にとってはいつもと変わらない朝のはずだった。しかし、わずかな違和感が拭えない。
腹巻の傷もそうだし、昨日意識を失う直前の不思議な声だってそうだ。
なんにせよ、やることは変わらない。いつものように学校に行き、授業を受ける。
学生である自分のやることはそんなものだ。
ところが、いくつかの異変は学校で待っていた。
「おはよう……渡君」
「お、おう」
いつもと同じく、通学中に涙に不幸勝負を挑んできたライバルを返り討ちにしたせいで遅刻したわけだが。それを迎え入れる杏の様子がおかしかったのだ。
(ちなみに、今朝の相手は痴漢に間違われたサラリーマンであった。「貴様達の尻を揉んだのは、この俺様だ!」と、冤罪を冤罪でかぶせに行くことで見事に勝利をおさめたが、駅員にしこたま怒られたせいで一時間目は欠席する羽目になった)
「……」
いつもであれば、遅刻をとがめて小一時間ほど説教を垂れるところだったが、今朝は違う。
どこかよそよそしい、というか、なんか睨まれていた。
(いつも敵意むき出しで突っかかってくるのだが、今日は何というか……殺気を感じる)
彼にしてみれば、誰かに恨まれるのは日常茶飯事である。
それ自体は別に大したことではないのだが、どうしても違和感はぬぐえない。ささやかながら、異変である。
だが、その日一番の異変は4時間目の始業時にやってきた。
「えー、今日はみんなに転校生を紹介する」
唐突といえば、あまりにも唐突な転校生紹介。
事前に何の告知もなかったし、なにより転校生の紹介は朝のホームルームが相場と決まっている。
「校長が急にスカウトしてきたんだよ。一刻も早く2年1組に転入させろってさ」と、のちに担任はそう答えている。よくわからないが、校長の肝いりの転校生というところだろう。
転校生が、教室に入ってきた。
「……押忍!」
「「……押忍?」」
転入性の最初の挨拶にしてはやたらと硬派な第一声であるが、その容姿を見れば、だれもが納得した。
身の丈190cmはある巨漢。筋肉質で武骨な体格を覆っているのは、前の学校の制服だろうか。
ところどころ破れた学ランは膝下までの丈があり、しかも下着を身に着けていなかった。
ランイチ(学ランイッチョウ)である。
硬派そのものといった厳めしい顔の上には、ふんわりとボリュームのある完璧なリーゼントが鎮座している。
そして、あろうことか高下駄を履いていた。
不良番長
誰がどう見ても、コンマ1秒でその名が頭に浮かぶであろう、完璧なコーディネートであった。
「名は、千勢千里。趣味は……ブリードとケンカ」
瞬間、教室中がざわつく。
「流血と喧嘩が趣味?」
「めっちゃ血なまぐさいんですけど……」
「あの鷹のような眼を見てみろよ」
「ぜってー何人か殺してるぜ」
ひそひそ声で物騒な噂話で沸きたてるクラスメイト達の中から、一人の少女が歩み出る。
「初めまして、千勢君。生徒会長兼、クラス委員長の獅子門杏よ。随分とインパクトのある挨拶をありがとう。2年1組はあなたを歓迎するわ」
決して小柄ではない杏であったが、千里と比べると親と子ほどの身長差がある。
それでも怯むことも逆に威嚇することもなく、自然体で相手に向き合っている。
委員長のそんな様子を見て、涙は少しだけ安心した。
(なんだ、俺様に対する態度以外はいつも通りだな)
差し出された握手を、しかし千里はすっぱりと無視して見せた。
「……」
手持無沙汰になった右手を自然に腰元に戻し、杏は千里の顔を見上げる。
巨漢の番長は、なにやらスンスンと鼻を鳴らしていた。なにかの匂いをかぎ取ろうとしているらしい。
教室中の空気を吸い込みかねない勢いで嗅ぎまわった挙句、番町の視線はやがて一点に収束していった。
ニイイイッ……っと、流石の委員長も後ずさるほどの凶暴な笑みをむき出しにして、千里は他に聞こえないような小声でこうつぶやく。
「俺と同じ……獣の匂いだ……!」
ズン……ズン……と、地響きを立てながら標的のもとに歩んでいく。
それは、教室の最後尾窓際。授業などそっちのけでふんぞり返っているこのクラス、いやこの学院最大の問題児の目の前に仁王立ちする。
「ツラを……貸せ……」
「いいだろう。学院の最悪の不良品と恐れられているこの俺様と、不良勝負をしようってんだな?俺様のポンコツぶりを侮ると痛い目を見るぜ!」
「ねえ、涙。それは恐れられてるのとは違うと思うよ?……ゴブァ」
歓迎なのか挑発なのかよくわからない口上を捲し立て、涙は異変たっぷりの生意気な転校生の挑戦を受けて立つことにしたのだった。