7 最古の菌 後編
『まったく、久しぶりに目覚めたと思ったら、なんだこのゴミのような環境は。息をするのもはばかれるわ』
白く鋭利な刃物をかざし、意味不明な独り言を続ける清田。
いつもならためらわずに逃げ出すところだったが、なぜか体が一ミリも動かせない。
杏にできることといえば、彼の独白に耳を傾ける傍らで、目で清田の様子を観察することだけだった。
真っ先に視線を送ったのが、彼の手にある凶器。
(刃渡り10センチ。鋭利とは言えないけど、人の皮膚くらいは容易に貫通しそうね)
素材はよくわからない。色が白いということ以外は。
目を凝らしてみるが、なぜか凶器の周囲だけ大気がぼやけて見えるのだ。まるで、透明な皮膜でおおわれているかのように。
(握っている掌が、何かに侵食されているように見える。あれは、火傷?それとも……)
皮膚と凶器の境目が赤くただれているようだった。
しかし、杏は持って生まれた感の良さで、あの白い凶器こそが清田をこのような凶行に走らせた元凶であると看破していた。
『聞いておるのか、生物!吾輩がせっかく言葉を垂れてやっておるのだぞ』
「キャッ……!?」
目の前を凶器の斬撃が通り過ぎる。杏は戦慄した。
幸いにも触れてはいなかった。もしもあれに一ミリでも触れてしまえば、自分にもあの赤い浸食が起こるのではないか。そう思うだけで身の毛がよだつ。
しかし、杏を戦慄させたのはその恐怖ではなかった。
目前を走り抜けていった斬撃の残滓に、何か見覚えのある光景がよぎったのだ。
忘れるはずがない。大気を軋ませる音とともに、金色の光が見えた気がしたのだ。
(黄金の……尻尾……!?)
長年探し求めていた仇の手がかりが、なぜこんなところで。
突然のことにさすがに気が動転する。
『ほう、そちらの生物。まだ声が出せるか。吾輩の気に当てられてなお体を動かせるとは、大したものだ。ひょっとして、そっちのほうが居心地が良いやもしれぬな……』
とんでもないこと言いだす。
今度こそ徹底的に戦慄するが、改めて体は一寸たりとも動かせない。
近づいてくる清田の肉体。しかし、直前で声の主は何かに気付いたようだ。
『そうだな。まだこの生物の全部を試したわけではなかったな。どれ、吾輩の住みよさそうな場所は……っと!』
そういうと、清田の右腕が自らの腹部にまっすぐ突き刺さる。
「ッキャアアアアア!!!」
たまらず、杏が絶叫する。
不思議と、血は一滴も出ていなかった。ぐりぐりと白刃が清田の腸内をかき回す。
やがて、その動きもぴたりと止む。
『だめじゃの。ゴミの腸内は所詮ゴミか。では、次の居場所を探すとするか……。次は、だいぶん期待できるじゃろう』
「や、やめて。来ないで!」
極限まで高まった恐怖のせいか、声が出せるようになった。しかし、それも何の慰めにもならない。
絶叫が周囲に響くが、いまさら助けが来るような距離でもない。
すべてを諦めかけた時だった。
遠くから、誰かの声が聞こえる。
「獅子門ォ!その悲鳴を今すぐやめろおおおおおおおおお!」
「渡君!?」
杏以上に真っ青な顔をした涙が、信じられない速度でこちらに向かってくる。
助けが来た。そう思ったが、杏はすぐに考えを改める。
「渡君、逃げて!あなた一人じゃ、無理よ!」
「何言ってやがる!本気を出した俺様を舐めんじゃねえ!」
「そうじゃないの!こいつはあたしを手にかけたら、次はクラスのみんなも狙うわ!だから、みんなに知らせて一緒に逃げて!」
それこそが、完璧少女の出した結論だった。
自分一人が犠牲になることで全員が助かるのであれば、それが最適解に違いない。
だから、杏はこの瞬間。自分を捨てる覚悟を決めたのだった。
しかし──そんな決意を涙は一笑に付す
「んなことしてたらテメエが間に合わねえだろうが!そんな不完全な結末を、だれが望むんだよ!」
「なっ……!?」
「それに、獅子門!貴様の悲鳴が鳴りやまねえ限り、俺様のこの腹の痛みは治まらねえんだよ!」
「何をわけのわかんないこと言ってんの!」
こんな状況でよく口論できるものだと思ったが、それは凶刃の主も同じだったらしい。
不快そうに、視線を涙に向ける。
『吾輩の住処探しの邪魔をするとはいい度胸だ。生物、貴様も動くな』
凶刃の言葉の圧が力を増す。杏は、まるで全身を引き絞られたようにその場に吊るしあげられた。
無防備に、柔らかいお腹が露出する。
『さあ、邪魔者は排除したことだし、今度の住み心地はどうかな……』
凶刃が、なぶる様に杏の制服の裾をたくし上げる。
スルリと、バターを溶かすようにいともたやすく凶刃が制服を切り裂いて見せた。なめらかな杏の素肌が露出する。
『どうだ、恐ろしいか?せめて、最後の悲鳴が叫べるように口だけは自由にしてやろう』
彼女を辱めるためだろう。今や上半身は下着一枚に近いほどに無残に引き裂かれていた。
完全に遊ばれている。ご馳走を前に舌なめずりするような凶刃の主の態度に、杏は次第に苛立ちを覚え始めていた。
「……中途半端な真似してんじゃないわよ」
『ああ?……なにか言ったか?脆き生物』
やるなら本気が当たり前の獅子門杏は、どんなことであれ中途半端な物事に対して怒りを覚えるのである。
「アンタ、自分の居場所を探してるんでしょ?やるならさっさとやりなさいよ!それとも、ひょっとして怖いの?引っ越した先が満足いかない環境だったらどうしようって、不安だから試せないのかしら!?」
杏の啖呵に、凶刃の主はしばし呆気にとられたように動きを止め、やがて狂ったように笑い出した。
『ククククク……カカカカカカ!面白いな、貴様。この吾輩──エニグマにそのような口をきいた奴は初めてだ!気に入った。一刻も早く、貴様を試したくなった。助言に従い、弄ぶのはもう終いだ!』
先ほど、清田自身にそうしたように、右腕の白刃を振りかぶる。
狙いは明らかだった。一直線に杏の腸を目がけて凶刃が走る。同時に、その軌跡を黄金の光が追いかける。
言葉の圧に完全に自由を奪われた杏は、もはや目をそらすことすらできなかった。
絶望的な気持ちで、杏は両親に詫びた。
(パパ……ママ……ゴメン!)
杏の目には一筋の涙。
今度こそすべてを諦めたその刹那、またも二人の間に割って入るものがいた。
ドルルルルルルルルルルルルルルルルルル!!
涙の共鳴が、最古の地層を盛大にノックする。
「何だか知らんが、俺様の目の前で、涙なんぞ流してんじゃねえええエエエエ!!!」
『なにいい!?吾輩の命令に従わぬだとお!?』
普通の人間であれば指一つ動かせないはずの状況だったが、想像を絶する腹の痛みに突き動かされた涙の前では涼風同然だったらしい。
杏を突き飛ばし、二人の間に強引に割って入る。
「って、あんたが代わりに刺されてどうすんのよ!?」
凶刃は、涙の下腹部に完膚なきまでに突き刺さっていた。
想像を絶する苦痛に違いないのだが、なぜか彼は不敵に笑っていた。安堵しているようですらある。
まさかとは思うが、ひょっとしたら今までそれ以上の激痛にさいなまれていたのかもしれない。
「俺様の勝利だ。貴様の不幸は俺様がいただく……!」
勝利宣言なのか遺言なのかよくわからない言葉を最後に、二人の意識は消し飛ぶのであった。
涙の共鳴が治まるのには条件がある。
それは、悲鳴の主よりも涙自身が不幸になることだった。