4 黄金の尻尾
「それで、先生。なにか手掛かりは見つかったんですか?」
「まあ、そう急ぐな」
保健室に戻ると、ジェーンは緩慢な動きでベッドに横たわる。
先ほどは爛々と輝いていた瞳も、今では死んだ魚のように淀んでいる。
いわゆるマッドサイエンティストであるこの女教師は、自分の興味から外れたモノについては大概はこのような態度をとるのだ。
ベッドに寝そべりながら、スラリと長い手を伸ばして机の上から書類をつかむと、バサリと杏に投げつける。
「お前の言う、”蛍人間”とやらの情報だが、大しては集まってないなあ。最近、ネットニュースでやたらとそんな話を聞くが、お前の言う”黄金の尻尾”とやらは見たことがない」
「蛍人間じゃありません。あの時、あたしははっきりと見たんです。見間違いじゃない。金色に輝く尻尾が、あたしの──」
そう呟く杏の赤い瞳は、暗く淀んでいた。ジェーンが思わず背筋を凍らせるほどに。
「お前のモットーは知ってる。“やられたらやり返すが当たり前”だっけ?しかし、その若さでそんなに復讐を思い詰めるのはどうかと思うぞ?」
「ちょっと間違ってますけど、それはいいです。あたしがこの学校に進学したのは、”黄金の尻尾”を見つけるためでもあるんです。あたしの完璧を奪った”黄金の尻尾”に、この手で復讐するために……」
「私も、校長からこの件についてはお前に協力するように言われている。あの事件を起こした犯人を捜すことには協力するが、復讐を手伝うつもりはない。素直に司法の手に委ねろ」
「……」
諭すジェーン。しかし、杏の決意は頑なだった。
一度やると決めた杏が梃子でも動かないのは学校中の誰もが知るところだった。
「まあ、そのうち見つかるだろうさ。気長に待て」
一途で真面目が過ぎる杏の性格は、教師としては誇らしくもあり、不安でもあった。
そんなジェーンの気持ちを組んだわけではないだろうが、杏の興味は机の上の専門書に移ったようだ。
“超菌学”と記された分厚い本を手に取る。
「先生の専門は、細菌学でしたよね。それが、どうして渡君の……その……モニョモニョ……に興味を持ったりするんですか?」
「ん?どうした、急に。珍しいことを聞くな」
「あたしは、先生のことを尊敬しています。その先生が、どうしてあのようなものに興味を持つのかが理解できないんです」
杏の問いかけに、ジェーンはムクリと起き上がって窓辺に立った。
ス──と、窓枠を指でなぞって見せる。
「獅子門、私の指先にある埃の中に、細菌が何個ほどいるかわかるか?」
杏は、静かに首を振った。
「わかりません。考えたこともなかったです」
「環境にもよるが、おおよそ10万個といわれている。この部屋の中でも数億個の細菌がいるだろうな。目には見えないが、細菌は私たちの周りに無数に存在してる。そして、その種類はさらに多種多様だ」
言われるままに部屋を見回してみる。朝の光に透けて埃が舞って見えるが、その中にいるであろう菌の姿が見えるはずもない。
「じゃあ、そこで問題だ。この世の中で、最も細菌が大量に存在している場所ってどこだと思う?」
しばし目をつぶって考えてみる。杏は、おもむろに自分のお腹を触った。
「ひょっとして……」
「正解だ。生物の腸の体積はおよそ数リットル。そんな狭い空間に、実は数百兆個の細菌が生息している。私たちに例えれば、超満員の電車の中で生活しているようなもんさ。これだけの数の細菌が一か所に同居しているなんて、他に考えられない。それは、とてもすごいことだと思わないか?」
満員電車の中で生活している自分の姿を想像してみる。ご飯を食べることすらままならないだろう。監獄以上の地獄にも思えた。
「なんで、わざわざこんな狭い場所に寄ってたかって集まってるんでしょう?」
「さてな。よほど居心地がいいんだろう。そういう意味でもワンダーランドだよ、人の腸内は。そこで生活している細菌たちもな。空気が嫌いな菌、酸をはく菌、とんでもない高温に耐える菌。我々以上に多様性があるんだ。私は、そこに惹かれたのさ」
「渡君の腸内には、特に?」
ジェーンは鷹揚に頷く。
「Absolutely(全くその通り)。渡の体質は、実に興味深い。あんなに脆弱なお腹は他に類を見ないぞ。あのやせ方を見ろ。きっとあいつは、ろくにご飯を食べてないに違いない」
「そうなんですよ。お昼だってほとんど食べてないです。昔、あたしが精魂込めて作ってあげた整腸作用のあるお弁当も、全然効果がなかったし……」
心底困った様子でため息をつく杏。
やるなら本気が当たり前の杏が本気で取り組んだにもかかわらず、涙の体質を変えることはついにかなわなかったのだ。
そんな杏に、ジェーンはやれやれといった視線を送る。涙がクラスですっかり孤立してしまったのはその精魂込めたお弁当に理由があったのだが、本人はそれに気づいていないらしい。
意外なことに、杏は自分に対してどれだけの好意が向けられているのか自覚がない。そんな杏につきっきりで看病されていたのでは嫉妬を向けられるのは当然だろう。
ましてや、涙当人にとっては完全にいい迷惑だというのが皮肉である。彼にとって食事をとるということは、やがて来る腹痛の序曲に他ならないのだ。
(まあ、その辺は獅子門がやがて自覚すればいいだけのことさ)
生業は科学者ではあるが、今のジェーンは教師である。生徒の成長の機会を根気強く待つのは苦ではない。
「とにかく、あれだけ脆弱なお腹でありながら、あいつ自身はいたって健康そのもの。肌荒れ一つないのは脅威を通り越してもはや理不尽だ。女としても羨ましい」
そんなこと言うジェーンだが、杏にしてみればジェーンの存在の方が理不尽に思えた。
仕事の傍ら研究に没頭しているこの不良保険医の生活リズムは不規則そのものだ。
(にも拘らず、化粧一つせずにこの美貌を保っていられるのは一体どんなからくりがあるのかしら……)
シミ一つない白い肌に、艶のある唇。今のように細菌学について熱く語るときの目の輝きなどは女性の杏から見ても魅力的である。
自分の欲求に正直すぎる女教師の熱弁は続く。
「腸は人体の様々な器官と密接にかかわりあっている。肌はその最前線さ。一体、どんな腸内環境を持っているのか、気になるのが普通だよな?」
などと言われたところで、素直に同意する気にはなれなかったが、杏は渋々と頷くしかなかった。
話はこれでおしまいとばかりに、ジェーンは立ち上がる。
「さ、今日は課外授業で近所の発掘現場に行くんだろ?遅刻するなよ」
「そういえばそうでした。ひょっとしたら恐竜の化石が見つかるかも、なんて、みんな楽しみにしてるんでした」
手に取っていた細菌学の本を机に戻す。
古ぼけた本だった。刊行から20年近く経っており、また徹底的に読み込まれていてあちこち擦り切れている。
そのせいで、分厚い装丁にもかかわらず風で簡単にページがめくれて行く。
目次のページには、かすれた文字でこんな言葉が並んでいた。
──超菌三大理論について。①超代謝②極限生存③精……──
三大理論といえば、自己再生 自己増殖 自己進化 ですよね。