39 本当の不幸になるためには
「やれやれ、あの獅子門にあんな過去があったとはな」
杏を見送ってから、だれにも聞こえないように独りごちる。
だが、誰にも聞こえないはずの独り言に反応するものがいた。
『先ほど、妙な反応をしおったな』
「なんだよ、急に」
腹の虫──エニグマがそう呟いた。エニグマの声は、宿主である涙にしか聞こえない。
エニグマは、己が宿主に素朴な疑問をぶつける。
『主は、他人よりも不幸であることを望んでいたのではないか。にもかかわらず、あの小娘の申し出を断りおったわ』
「……そうだな」
『なぜじゃ。主は、世界一の不幸を自負しておるはずじゃろ?もしも、あの小娘が犯人を探り当てたのであれば、その暁には間違いなくお主がその座を奪われるぞ』
「……」
エニグマの問いに、つい先ほどのやり取りを思い起こす。
あの時の杏の迫力は本物だった。やるなら本気の完璧少女は、間違いなくその犯人を探し出し、そして完璧な復讐を遂げるに違いない。
『臆したのか?他者に不幸に落とされることに』
「かもな」
あっさりと認める。
先ほど、涙の中に芽生えた感情たちの中に、間違いなく”恐怖”が含まれていた。
しかし、やがて涙はかぶりを振る。
「それだけじゃない。きっと、俺様はあの時、YESともNOとも答えたくなかったんだ。NOといったのは、単純にアイツが怖かったからだが……。本当はあの問いに、答えを出すべきではなかったと思っている」
『何故じゃ?』
「きっと、どう答えたとしても、アイツこそが不幸のどん底に落ちるような。そんな予感がしたからだ」
『訳が分からん。それがお前たちの言う、”直観”とかいうやつか』
涙の答えに一定の満足を得たらしく、エニグマはそれっきり問い続けることはしなかった。
「お前に分かってくれとは言わね──っと」
続けて弁明のような言葉をつぶやきかけた涙だが、不意にその口をつぐむ。
見知った顔が番台に顔を覗かせたのだ。
「あ、やっぱりここにいたんだ」
「どうした、兄妹仲良く風呂に入りに来たのか」
そしらぬ様子で、兄の後ろに控えている凍にも声をかける。
「うっさいわね。ワタシの場合、どっちに入ってもクレームが来るから遠慮してんのよ。このご時世、性別ごときで客を線引きするなんてふざけてるわ。完全個室風呂にしなさいよね」
あまりにも無茶な言い分ではあるが、彼女の経緯を知っているだけに無下にするわけにもいかなかった。
「生徒会長に進言はしといてやる」とだけ言うと、少しだけ気を遣うように声のトーンを落とす。
「聞いた話じゃ、ここの熱泉で溺れかけたらしいじゃねえか。火傷とかはなかったのか?」
「余計なお世話よ。どういう訳か知らないけど、ケガ一つしてなかったらしいわ」
そっぽを向きながら頬を膨らませる。その凍の様子に、涙は眉をひそめる。
「まさか、あの時の記憶がないのか?」
「どうやらそうらしいんだ……ゴホゴホ」
妹に聞こえないように、咽が顔を近づけ、小声で話しかけてくる。
「凍のやつ、君に助けられたってことをすっかり忘れてるみたいなんだよね……ゲホゲホ」
「……」
自らの下腹部に手をあてる。腹巻の奥で静かに息づく謎の腸内細菌が、きっとまた何かをしたに違いない。
正体がばれる覚悟はしていたつもりだったが、結局ナミダグマ伯爵の正体を知る者は、咽とジェーンの二人だけのままらしい。
「とにかく、今日は涙にお礼が言いたかったんだ……ゴホ」
「なんのことだ?俺様は知らんぞ。そのマセガキは、勝手に噴水から吐き出されて助かったと聞いたが?」
他の生徒もいる手前、そう答えるしかなかったのは分かっている。それでも、咽は今すぐにでもお礼が言いたかったのだ。
「それと、あの時した約束を果たそうかと思ってね……ゲフゲフ」
「約束?」
いぶかしむ涙の横に、そっぽを向いていた妹を強引に連れていく。
「あの時言ったよね。兄として、妹の気持ちに応えてやれって。だから、涙にもそれを見届けてもらおうって……ゴホ」
「え、お兄ちゃん?」
まさかいきなりそんなことを言い出すとは思っていなかったようで、凍の全身に緊張が走る。
「どうしても、涙にも聞いてほしかったんだよ。だって、油断するとすぐに下校しちゃうし……ゲホゲホ」
「それじゃ」と前置きして、出し抜けに咽はこう切り出したのだった。
「僕は──」




