38 絶対に逃さない。断固とした決意
「おい、獅子門。俺様は忙しいといったはずだが」
仏頂面で呟く涙に、杏は臆面もなくこう返答した。
「いいじゃないの。飼育委員は千勢君に譲って、今は暇なんでしょ?どのみち生徒は何らかの委員会に所属が義務付けられてるんだし」
彼女にしては気の抜けた様子で、背の高い木枠に頬杖をついては上目遣いで涙に対峙している。
リラックスするように、大きく息を吸い込み、芳醇なその香りを惜しむようにゆっくりと吐き出す。
完全にご満悦な杏に対して、涙の眉間の皴はより深くなる。
「しかし獅子門。いくらなんでも温泉委員会はさすがに無理がないか?」
「え?生徒会でも、教員会議でも満場一致で可決されたのよ?どこに無理があるっていうのよ」
新たに建設された施設、ハンテリアン=温泉。その名前とは裏腹に純和風の建造物であり、その入り口にはもはや昭和の遺物とでもいえる”番台”が備わっていた。
その番台に無理やり押し込められたのが、生徒会長から特別に指名を受けた涙という訳である。
「それに、番台なんて、この令和の世に不適切だと思うのだが……」
「甘いわよ、渡クン。この温泉の泉質は確かに素晴らしいわ。でも、温泉は温泉。体質に合わない人が湯あたりすることだってある。そういった利用者の様子を見守るのも番台の役割なの」
「アンタって、そういうの意外に向いてそうだし。他人のことなんて興味ないようで、しっかり見てるの。分かってるんだから」と添えられては反論の余地もない。
彼女の観察眼にはかなわない。しかし、涙はこれだけは言わずにはいられなかった。
「だが、男である俺様が女子の更衣室が覗ける位置にいるのはさすがに……」
「更衣室といっても入り口だけで中は見えないわけだし。それに、アンタってそういうのに興味なさそうだからいいかなって」
杏にしては随分と雑な理論建てである。なぜだか、彼女は涙に対してある種の信頼のようなものを寄せているようであった。
「そういえば、怯川さんがここから助け出されたとき、アンタはどこにいたの?」
「……!」
出し抜けにそんな質問をされたのでは、完全な無反応を返すわけにもいかなかった。
「ど、どうだったかな。覚えてないが」
「あの時、千勢君の時と同じで、ナミダグマ伯爵が現れたようなの。彼女を追って火口に飛び込んでそれっきりらしいのよ」
大きな赤い瞳を見開き、まっすぐに涙に視線を合わせる。
「ねえ、渡クン。ナミダグマ伯爵の正体って、あんたじゃないの?」
「ぶッ!?」
まさか、正面切って問い詰められるとは夢にも思っておらず、噴き出してしまった。
「な、なんのことだ?それに、そいつは火口に沈んだままなんだろ?」
「あたしね、どうしても探さなくてはいけない相手がいるの」
今日の杏は、様子がおかしい。
話があちこちに飛んでいる。一貫性がない。
そんな彼女を窘めることもせず、涙は黙って話を聞き続けた。
自分の正体を探られるよりはその方がマシだと考えたこともあるが、なによりその言葉を語る、杏の瞳を見てしまったことが大きい。
(これが……あの獅子門……なのか)
夕闇の中で燃える深紅の炎のような、見ているだけで不安を掻き立てる危うさを秘めていた。
どこまでも深い絶望と、それにより押し固められた執念を秘めた眼で、杏の独白は続く。
「あたし、両親がいないの。小さい頃、攫われたの。あたしの──目の前で」
「……」
「その時の記憶はあやふやだけど、はっきりと覚えていることがあるの。それが、金色の尻尾。透明でうっすらと光って見える、小さな竜巻状の金色の渦。それが、あたしの両親を攫って行った犯人なの」
「よく分からんが、犯人からその金色の尻尾とやらが生えていたということか」
涙の問いに、「たぶん、そうなんでしょうね」と曖昧に返事する。本当に、当時の記憶があやふやなのだろう。
「つい先日、あの発掘現場で……あたしはそれと同じものを見たわ。あの時と同じく、なぜか記憶がぼんやりとしているのだけど。間違いない、金色の尻尾はそこにいた。そして──」
俯き、独白を続けていた杏が再び目線を上げる。
「渡君。確かにあの日、アンタもそこにいた」
「……」
相手に悟られないように、涙はひそかに唾を飲み込む。
「その後のことよ。あのナミダグマ伯爵が現れたのは。でも、彼の尻尾は金色ではなく、真っ青だった。だから、あたしはこう思ったの」
杏の視線を受け止める。その、底知れない圧力に涙は思わず後ずさる。
「アンタが、ナミダグマ伯爵だったらいいのにって。そうだったら、どれほど良いかってね」
「……どうしてだ?」
薄く微笑む杏。
「アンタがもし金色の尻尾だったら、嫌だもん。アンタのこと、世界で一番の不幸者にしたくないから」
「……!」
すでに起こった過去の歴史を語るような断固とした口調。間違いない。杏の声に、涙は戦慄し、恐怖を覚えた。
つまり、杏はこう言っているのだ。
自分の両親を攫った犯人であれば、たとえそれが誰であっても、どんなことがあっても、必ず不幸のどん底に叩き落す、と。
「で、どうなの?」
ここまで語っておきながら、いけしゃあしゃあと杏はそう尋ねる。
静かながらも圧倒的な迫力を纏ったその一言は、すべての嘘を封じる魔法の剣のようであった。
喉元に剣を突き付けられた涙。その脳裏に浮かんでいたのは、先日ジェーンに見せられた報告書であった。
──失踪した夫婦。その目撃例──
「……どちらも、心当たりはない」
たったそれだけの言葉を絞りだす。
暗闇に沈む、真の不幸を体現するような杏の瞳をしっかりと睨み返して。
「……そう。分かったわ」
そう呟くと、杏は何かを断ち切るように目を閉じて、そのまま番台を後にした。
「疑って悪かったわね。あたしも、ひとっ風呂浴びていくことにするわ」
「好きにしろ。ここは、学生ならいつでも無料だしな」
「……覗いたら、殺すわよ」
「そんなことしないと思ったからこそ、貴様は俺様をここに置いたんじゃないのか」
そんな軽口をたたき合うことで、二人の間に流れた緊迫した空気はさっと霧散していくのだった。




