36 甘くて酸っぱくて苦い体験
「……!……エ!」
揺らめくような意識の向こう側で、なにかを叫ぶ声が聞こえる。
(あれ?ワタシ……なんで、こんなところにいるんだっけ?)
自問してみるが、その問いに応えられるはずの人物──つまり、過去の自分とはすっかり音信不通になっていた。
要は、何の記憶も思い出せないというだけのことであったが。
「しっ……しろ!コ……!」
タチの悪いのは、薄ぼんやりと記憶を覆っているこの靄だ。
この白い靄。どうやら凍の意識をすっぽりと包み込み、体から切り離そうとしているらしかった。
徐々に自分の思考が輪郭をなくしていくのが分かる。
その度に、今自分がどんな状況にあるのか、そんな感覚が消失していく。
代わりと言っては何だが、脳裏をよぎるのは強烈な過去の感情だった。
(確か、昔のことをばらされそうになって、めちゃくちゃ恥ずかしい気分になって……。それから、それよりももっともっと恥ずかしいことを思い出す羽目になって……。でも、そんなのを全部吐き出したと思ったら、なぜか急に気持ちが軽くなって……。そして最後には、信じられないくらいドでかい一撃をお腹に喰らって……)
記憶が飛んだのは、間違いない、あの一撃のせいだ。
でも、今こうして意識が朦朧としているのはきっと別の理由があるに違いない。
(ああ、そうか。このモヤモヤ……。きっとワタシ、おぼれちゃったんだ)
深い泉の底に沈んでいった記憶がよみがえる。
あの時は、どうしてか水の中なのに息苦しくなかったのだ。しかし、下腹部に受けた衝撃のせいでそうではなくなってしまった。
(ひょっとして、ワタシ……死ぬのかな?)
まるで他人事のように、そう思った。
白い靄のおかげなのだろう。苦しみも、恐怖も感じなかった。緩やかに迫ってくる死を受け入れられるように、やわらかくすべてを包み込んでくれる。
(死んじゃうのは……嫌だな……だって、ようやく)
ようやく──何だったろうか?
もはや何も考えられなくなりつつある頭の中で、最後に残った一つの不思議な灯。
それは、世界で一番孤独なはずの地の底で彼女に届けられたメッセージだった。
(ようやく──そうだ。ようやく、ワタシ……)
その灯は、彼女に何か囁いた。
とてつもなく乱暴に、不器用に、しかしどこまでも優しい声で、こう言われた気がしたのだ。
──独りじゃないぞ──
(ようやく、自分のこと好きになってもいいかも……って思ったのになあ……)
残念だ。残念でならない。
せめて最愛の人に、そのことを報告したかった。
最愛の人。そうだ、こんな自分を丸ごと受け入れてくれた、世界で一番優しい人。
世界でたった一つの、彼女の居場所を作ってくれた人。
(最後に、言いたかったなあ。お兄ちゃん、ワタシ、自分のことをまんざらでもないって思えたのって)
兄だけを好きな自分ではなく。兄も自分も好きな自分になれると思ったのに。
本当に──残念だ──
いよいよ、本格的に白い靄は彼女の意識を刈り取りに来たようだ。
すべての感覚が消えていく。
そんな薄れた意識の淵で、誰かが自分を呼んでいる。
「死ぬな!凍!」
(お兄ちゃん……?)
今まで聞いたことがない、鬼気迫る兄の声。
(へえ、お兄ちゃんって、こんな怖い声出せるんだあ……)
そんなどうでもいい感想が脳裏をよぎったが、それもすぐに消し飛んだ。
白い靄が彼女を連れ去ったのではない。
先ほど、地の底で喰らったのと同じか、もっと強烈な一撃が彼女を襲ったからだ。
衝撃は、下腹部ではなく唇にやってきた。
(ああ、これは勝てないな……)
怯川咽ファンクラブ、会員番号1番(つまり創始者)。敷島花恋は、その光景を見て今度こそ徹底的に打ちのめされた。
打ち上げられた妹──凍を介抱する咽の表情は、今まで見たことがないほどに必死で、そして恐怖に震えていた。
(怯川君って、あんな必死な表情するんだ……。知らなかったなあ……)
「しっかりしろ!死ぬんじゃない!凍……!」
「怯川君、安心して。彼女は無事よ。呼吸だって安定して──」
そう語りかける杏の腕を振りほどき、ためらうことなく人工呼吸を始める。
安定した呼吸をしている相手への人工呼吸は、もはや単なるキスではないだろうか。周囲の女子たちがにわかに甲高い声を上げる。
「死ぬな!もう、どこにも行くんじゃない!」
そんな周囲の声など耳に入らぬ様子。咽は一心不乱に妹の介抱をつづけた。
──やがて、
「お兄……ちゃん?」
うっすらと目を開ける妹。自分の唇の感触を思い出し、何が起こったのかぼんやりとしている様子だった。
意識を取り戻したのを確認した咽は、全身の力が抜けたようで、その場に跪く。
「よかった……」と、安堵の声を漏らしたかと思うと、すぐにその表情はキッと引き締まった。
「この──バ……カあっ……!」
怒りでこわばった表情とは裏腹に、叱責の声は悲しいほどに震えていた。
そして、怒りの声とは裏腹に、両の手は優しく妹の全身を抱きしめていた。
(怯川君って、あんなに怖い表情もするし、あんなにやさしい手つきで抱きしめることもするんだ……)
はるか遠い、異国の物語でも眺めるように、敷島はその光景の前に立ち尽くしていた。
(無理無理。怯川君、あんな表情を私たちに見せることなんて、絶対ないって……。勝ち目、ゼロじゃない)
そもそも、自分は彼女と何を競おうとしていたのか。あるいは、彼女から何を奪われることを恐れていたのか。
自分は何もわかっていなかった。怯川咽にとって、怯川凍がどんな存在なのかを。
それを思い知った今、敷島は心の中で決意を固めた。
あの時願った通り、彼女に心から詫びよう。土下座でも何でもするし、言われたことは何でもやろう。
死ね、と言われたら──それはさすがに無理だけど、今自分で思いつく限り、全身全霊で彼女に許しを請うのだ。
心を固めた途端、気持ちが軽くなった。
たとえ許されなかったとしても、これから一生そうして生きていけばいい。
軽くなった心の隙間に、妹を抱きしめる咽の泣き顔が滑り込んできた。
「男の娘である義理の妹へのファーストキス……。これはこれで尊いわね」
訳の分からない、新しい扉を開いた気がした敷島なのであった。
一方、火口──もとい、噴出孔の逆側。
「どうやら、危機は出したようだな」
手に持った計器を見ながら、ジェーンはため息をついた。
破滅的な数字を刻一刻と更新し続けていた地下の火山活動は、いつのまにかすっかり沈静化していた。
泉の底で何があったのかはわからないが、とにかくうまくやったのだろう。
「し……死ぬかと思った……!」
誰にも知られぬよう、ひっそりと泉の底から姿を現したナミダグマ伯爵に手を貸してやる。
勝負が決した瞬間、"極限耐性"が消失したのは彼も同様らしく、息も絶え絶え、全身ぐしょぐしょのズタボロ状態であった。
「やれやれ、勝負がついたらさっさと上がってくればよかったのに」
「あんな状況で俺様も一緒に浮き上がったら、悪の首領の面目が丸つぶれだろうが……!」
本当に訳の分からない理屈を述べる涙に、さしものジェーンも呆れ顔になる。
「今回も作戦が失敗した、とかいって適当に逃げ出せばよかっただろう?」
「……それでは、あまりにもワンパターンだ。今回は、悪の首領は火口に沈んでいき、行方知れずとなった。ということにしてくれ」
なにが、「ということにしてくれ」なのか。ジェーンも苦笑いを浮かべるしかない。
「とにかく、この火口はもう安泰なんだよな?」
『無論じゃ。吾輩の一撃で、この泉の底におった菌どもは力を失い、せいぜいぬるま湯を作り出す程度の能力しか残っておるまいて』
「それはなによりだ……」
自分の腹の中にいる超菌──エニグマと会話したのだろう。
一人安心したように呟く涙の様子に、ジェーンは事が無事終息したことを察した。
「実はな、渡……これを見てくれ」
そう言って、手にしてした報告書の束を手渡す。
そこには、ここ数年で起こった無数の事故報告書が記載されていた。
夫婦の突然の失踪。暴行事件。あるいは急な吹雪での遭難。感電事故。様々な事例が記されていたが、それらには奇妙な共通点があった。
「どれもこれも──透明な光る竜巻の目撃情報が……」
「渡、これは私の勘だがな。これらの事故はここ数年で突然起こっている。彼らは急に覚醒し始めたんだ。なにかに導かれるように」
「なにかって、何のことだ?」
「彼ら──超菌は、古いものでは約40億年もの間眠っていたのだ。それが、どうしてこんなに急に活動を始めたと思う?きっと、彼らを起こそうとしている何者かがいるに違いない」
「それって、こいつらを悪用しようとしている奴らがいるってことかよ?」
「だとすりゃ、それこそ真の悪の秘密結社だな」といった涙の軽口にも、珍しくジェーンは乾いた笑いを浮かべるだけで、まともに取り合おうとしなかった。
「あるいは、彼らの生みの親──起源にして頂点の超菌……"菌祖"が目覚めようとしているのかもしれん」
そうなれば、これからもあんな敵と戦うことになるかもしれない。
ジェーンの指摘に、涙は改めて泉の対岸を見やる。
「どうする?渡。お前、ひょっとしたらとんでもない戦いに巻き込まれたのかもしれないぞ」
ジェーンの言葉は、今の涙には届いていないらしい。
彼は、目を細めて対岸の様子──妹を嬉しそうに抱きしめている幼馴染の表情を眺めていた。
やがて、ジェーンに振り替えると、不敵にこう笑う。
「この世にああいうやつらがいるんなら、俺様は何度でも蘇る。悪の秘密結社ってのは、そんなもんだろ」




