34 辛くて苦しくて恥ずかしい思い出?
(いったい、これは何の勝負なの?)
灼熱の熱泉に落ち込みながら、凍は自分の置かれている状況が全く飲み込めず、すっかり混乱していた。
どういう理屈なのか分からないが、自分とゲリチビ──幼馴染の涙は、このとんでもない熱湯の中にいても無事らしい。
そして、どういう理由なのか想像もつかないが、涙はこんな自分を追いかけてここに飛び込んできたらしい。
さらに、皆目見当もつかないが、涙は自分に追いつくために、なぜか勝負を挑んできたようだ。
徹底的に理解不能なのは、その勝負の内容であった。
水中であってもなぜか相手の声はこちらに届いた。
その声で、涙はこんなことを叫んでくるのだ──
「俺様が小学校の頃、先生のことを間違えて”母上”と呼んで、それ以来マザコン呼ばわりされたぜ!」
「幼稚園の時は、公園でかくれんぼしていたら一人だけ取り残されて夜まで土管の中にうずくまっていたことだってある!」
「バナナは皮ごと食べるものだと嘘を吹き込まれて、中学まで皮ごと食ってた!」
怒涛の勢いで自分の黒歴史をぶちまけ始める涙。
しかもなぜか、堂々と勝ち誇ったような口調で。
「オラ!どしたあ!貴様の不幸はそんなものか!?その程度の闇で、この俺様に太刀打ちしようなんざ笑わせてくれるぜ!」
「なんですって──!」
訳の分からない挑発ではあったが、なぜかプライドが傷つけられた気がして、凍の頬に朱が走る。
「お前にワタシの不幸が分かってたまるか!」
「ハッ。多少自分の見た目をいじったことでウジウジと悩んでいるようなやつの言葉は軽い軽い。好きに吠えておくんだな!」
「──!」
安い挑発であるが、しかし凍の逆鱗には触れた。
いいだろう、どうせこのまま死んでしまうのだ。最後に自分の闇の深さを思い知らせてやるのもいい。
(ワタシがどれだけつらい過去を背負ってきたか、ぶちまけてやる!)
決意と共に、下腹部が疼く。体の奥底が熱くなり、気のせいか、どんどん体が沈んでいく速度が上がった気がした。
「生まれたときから、両親がいなかったのよ!?」
「今はいるだろうが。それに、両親がいないのは俺様も同じだ!母は死に、父親だって行方不明。俺様の方が下のようだな!」
「男女だとか、オカマだといわれていじめられてきた!」
「ゲリチビだの言われて、トイレにこもってるときに上から水をかけられたりは日常茶飯事よ。今だってたまにある!オラ、どうした!その程度か!?」
「ぐっ……。そのことで大好きなお兄ちゃんに散々迷惑かけたわ!」
「兄妹ってのは大変だよなあ!俺様だって、この世で一番大事な妹に散々迷惑をかけてきた。貴様ならわかるだろ!?」
「渡米した先でも、言葉の壁や文化の壁でさんざん苦労したわ。自分が知らない言語で、目の前で堂々と陰口をたたかれる気持ちが分かるの!?」
「ハハハ!甘い甘い!俺様レベルになると、公衆の面前で、日本語で、面と向かって罵声を浴びせられるのがデフォルトよ!」
なんて不毛な戦いだろうか。
互いに競うように不幸をぶちまけ合い、そのたびに思い出したくもない記憶を掘り返す羽目になる。
不思議なことに──
その度に自分の体が軽くなる気がした。そして逆に、相手の落ち込んでいく速度が増しているように見えた。見る間に彼我の距離が近づいていく。
まるで、自分の不幸を掘り返すことで自分を痛めつけているかのようだった。
しかし、負けるわけにはいかない。自分の不幸は自分のものだ。
下腹部の囁きに従い、このまま落ちるところまで落ちると決めた。邪魔をさせるわけにはいかない。
凍は、不毛な戦いに再び身を投じる決意を固めた。
対する涙の方はというと、
(……どうやら、自力でもどうにか能力を引き出せるようだな)
凍を追跡しながら、冷静に自分の身に起こっている現象を読み解いていく。
要は気の持ちようなのだ。負の感情を糧にするというエニグマは、それが自分の物であったとしても活性化するということなのだろう。
自らの黒歴史を披露するたびに、背後の幻眩腸が強く渦巻いていくのが実感できた。
同時に、周囲に熱さが気にならなくなっていく。潜航の速度も増していく。
「フッ、どうやら勝機を見いだせたようだ」
『しかし……。このような人生で、生きててつらくないのか?』
勝利を確信する涙に、なぜかエニグマは呆れたような声をかける。若干引いているようでもあった。
「何言ってやがる。これが俺様の生き様だ。お前だって、力が戻って嬉しいんじゃねえのか?」
『いや。その……、まさかこんな方法で吾輩を活性化させるなどと思ってもおらんでな……』
「よそ見すんじゃねえ。次が来たぞ!」
『お、おう!』
涙の激励(?)に、エニグマがとっさに反応する。
何も勝負は不幸自慢だけに終始しているわけではなかった。互いが体内に宿す超菌同士の戦いも同時に展開していたのだ。
『おのれええ!どこの馬の骨かもしらぬ奴に、我々の邪魔をされてたまるかあ!』
凍の身体を通して、敵の超菌の叫びが響く。同時に、振り上げた手のひらから超高熱の熱泉が吹き上げてくる。
灼熱に滾る、赤銅色の幻眩腸が涙に襲い掛かる。
しかし──
『手ぬるいのう。この程度の攻撃で、このエニグマの侵攻を止められるとでも思うたか?』
敵の正体が分かれば、エニグマにとって攻撃を防ぐのは造作もないらしい。
吹き上げてきた熱波を、千里の時と同じように簡単にいなしてしまった。
『馬鹿な!そのような腸能力があるなど聞いたことが──まさか!?』
『最下層の駄菌に付き合うのにも骨が折れる。そろそろこんな場所からはお暇するとしようかの』
驚き叫ぶ敵の超菌。その様子を嬉しそうに嬲るエニグマ。
他者の恐怖を糧にする太古の菌は、舌なめずりしながら自らの力を蓄えていくのだった。




