33 辛くて苦しくて恥ずかしい思い出
(くそ……やっぱり熱ちいな──!)
覚悟を決めて火口に飛び込んだ涙は、すぐさまそのことを後悔することになった。
一度お湯加減を間違えた風呂に飛び込んだ時のことを思い出すが、その時の比ではない。
『あの程度の憎しみでは、吾輩の本領は発揮できんわ。もっと大勢の、心の底からの憎しみをもってこい!』
「んなこと言ったって、あそこにいた生徒が少なかったんだから仕方ねえだろ。それに、いったん潜っちまえば状況は変わんねえよ」
不十分とはいえ、エニグマの”極限耐性”のおかげなのだろう。こんな灼熱の環境でもどうにか活動できているし、なぜだか呼吸も苦しくない。
あとは凍を探して火口の奥深くを目指していけばいいのだろうが、そう簡単な話ではなさそうだ。
「やっぱり、底に近づくほど熱さが増す……。どこまで耐えきれるか──」
深く潜れば潜るほど、周囲の温度はどんどん上がっていく。そして、周囲の生徒からの憎しみは薄まっていく。
とてもこのままでは凍に追いつけるとは思えなかった。
「そういえば、あのマセガキにとり憑いた菌の正体は思い出したかよ?」
『うむ。奴の名はサーマス・アクアティカス。ディノコックス網の最下層──第九階層の好熱菌じゃ。このようなぬるま湯を好んで生息しておった軟弱者よ』
「やっぱり、熱さに強い奴だったか……。倒す方法は?」
『決まっておろう?』
千里との戦いを思い出す。近づき、直接触れる以外に手はなさそうだ。
「星すら滅ぼすんだろ?なんで近接主体なんだよ?」
『ほかにもいろいろあったはずなんじゃが、なかなか思い出せんのだ』
「けっ、そんなんじゃ4000℃に耐えられるなんてのも疑わしいぜ。この老害菌が!」
『今の言葉は聞き捨てならんぞ。この吾輩をそのような無礼な呼び方をするなど、許せん!』
「だったら、この状況を何とかして見せろよ!」と自分のお腹に怒鳴りつける。
しかし、口論はしてみたものの、先ほど貯えた力が枯渇する前にどうにか凍に追いつくしかなさそうだ。
「あのマセガキが!この俺様を差し置いて地獄の底に落ちるなんざ、十年早え!」
ただれる様な熱さを堪えて潜っていく。
やがて、涙のお腹に鈍痛が走る。
(これは──!)
またも脳裏をよぎる既視感。
千里の時と同じ、共鳴現象だ。
腹鳴が強くなる。そして、不幸の嘆きが涙の脳裏に届く。
それは、怯川凍の叫びだった。
1つ恥をかく度に、1つ嘘をつく。
そうやって、生きてきた。
生みの親の記憶はなく、物心ついた時には孤児院で育っていた。
「いつか、お父さんとお母さんが迎えに来てくれるんだ」
自分の境遇がどんなものなのかを知った時、そんな言葉が口をついて出た。
そして、それを聞いた周囲の子供たちに大声でこう笑われた。
「そんなのいるわけないだろ。だから、俺たちはここにいるんだよ」
「夢見てんじゃねえよ!」
「きっと、いつかあなたを受け入れてくれるご家族が現れますよ」と、優しい笑顔の保育士に諭されたが、恥ずかしさがそれらすべてを塗りつぶした。
「ちがうもん!本当にワタシの家族はいるんだもん!」
泣きながらそう喚いていると、次第に周囲はそのことに触れなくなっていった。
自分の主張が正しいことが証明された。そんなふうに勘違いすることで平静を保つようになり、そのうちに自分自身にも嘘が本当なのだと錯覚するようになった。
やがて、受け入れ先の家族が決まると、その嘘は本当に塗り替えられていった。
藤松の姓を捨て、引き取り先の怯川を名乗るようになる。その時にはすでに、自分の生家こそが怯川家であると、本気で思いこんでいた。
「君が巌君だね。初めまして、ボクは怯川咽。君みたいな可愛い家族が増えて、嬉しいよ」
三つしか年の離れていない兄との初対面。その時のことは一生忘れない。
胸の奥が締め付けられるように苦しく、そして熱くなっていた。
それがどんな感情なのか、幼い自分にはよく分からなかった。しかし、
「うえー!男のくせに男を好きなんだぜ、気持ちわり~」
子供のうちには、こういった感情は自然と零れるものだ。そして、そういった機微を敏感に拾い上げ、増幅して周囲に言いふらすのが子供というものである。
常に胸の中で渦巻いていたこの不思議な感情をそんな風に名付けられた時には、漠然と「ああ、そういうものなのか」と腑に落ちる一方、それを揶揄して笑われたことは一生で最大の衝撃だった。
「ちがうもん!男同士じゃないもん!」
恥を塗りつぶすための嘘はすぐに口をついて出た。そして、それを実行することにも躊躇はなかった。
兄とは似ていないが、整った容姿を持っていた自分にとって、それは造作もないことだった。服を変えて、髪形を変えて、話し方や仕草を変えるだけだった。
「実は、ワタシ妹だったんだよ!」
完璧についた嘘は、簡単に現実を塗り替えた。「え~。マジかよ」「そうだったんだ~」と、周囲の子供は簡単に騙された。
名前も変えた。もちろん、最初はあだ名のようなものだったが、名乗っているうちに次第に周囲に受け入れられるようになった。
──嘘を嘘のまま受け入れてくれる者もいた。
兄は「似合ってるよ」とだけ言って、いつもの透明な笑顔で新しい自分を受け入れてくれた。
兄の幼馴染は「辛気臭い顔して不幸面してるぐらいなら、それでいいだろ」と、ぶっきらぼうに言った。
「──素敵」と、幼馴染の妹はいつものように飾らない言葉で端的に褒めてくれた。
他にも数えきれない噓をついてきた。嘘がばれると恥をかく。その恥を消すための嘘をついた。
繰り返すたびに、自分が何者なのかが分からなくなった。でも、兄への思いだけは変わらずに自分の芯を貫いていた。
大好きなお兄ちゃんと、一緒にいたい。
でも、ついた噓がばれると、兄に迷惑がかかる。
小学生の時、些細なことがきっかけで自分の性別が周囲にばれた。
非難されるのは自分だけだと思っていたが、なぜかその矛先は兄にも向いた。
「男同士でベッタリしてて、気持ち悪~」
いつものように笑顔でやり過ごした兄だったが、それでも彼の周囲から人がいなくなっていくのが分かった。
一度ついた嘘がばれると、その反動はとてつもなく大きい。
その反動を打ち消すために、凍は海外に一時避難することにしたのだ。
大好きな兄と離れ離れになるのはつらかったが、次に会う時こそは完ぺきな妹になって再会すると固く誓った。
しかし──願いはもろくも崩れ去る。
なぜ?嘘をつく?嘘は、恥ずかしいことなのに。
『そうだ。お前は本当に恥ずかしい奴だ。このまま、だれにも見つからぬように、深淵にまで沈んでいけ』
「そうすれば──」
『そう……そうすれば、そこにはお前の──いや、我々の仲間がいる。そこにたどり着きさえすれば、お前の恥を知るものはみんな消える』
「ワタシ……嘘ばっかりだ……」
今までつき続けてきた嘘の数だけ、人に知られたくない過去がある。
それらをもしも誰かに暴かれたとしたら、きっと自分は生きていられない。
このまま、人知れず沈んでいけば、いつかはみんなが忘れてくれるかもしれない。
そう思うたびに、体の芯が熱くなり、それに呼応するように泉の底が深く鳴動する。
仲間がいる。そこにたどり着けば、きっと自分は全てを忘れることができる。
「もう、これで全部終わりにしちゃエ……。このまま、不幸のどん底に沈んでいくんだ」
『そうだ。そして、われらの眷属と共にこの世を滅ぼしてくれようぞ……』
体の中から聞こえてくる甘い囁きに身をゆだねる。
目を閉じて、深い絶望にどっぷりと浸かろうとしたその時だった。
「ふ……ふはははは!それならそうと最初から言えってんだ!」
底抜けに明るい、しかし不気味な声が灼熱の泉の中に響く。
聞き覚えのある声だ。
「それが貴様の不幸の源泉だというのなら、話は簡単だ。その程度の不幸で再起不能になるなんざ、底が浅いな!」
『この程度の熱泉ごときで世界を滅ぼすだと?片腹痛いわ。真の破壊がどのようなものか、最下層の駄菌に身の程を知らせてくれるわ!』
慰めなのか激励なのかよく分からない挑戦状を叩きつけられた。
ぼんやりとした意識の中、古くから知る幼馴染と、太古から生き延びてきた謎の超菌の激昂だけが凍の心を揺らす。
二人は同時にこう叫んだ。
『「身の程を知れ──」』
『上には上が──』「下には下が──」
『「いるってことをなあ!!」』




