32 怖くて強くて少し間抜けな悪い奴
(まさか、こんなことになるなんて……!)
ドライヤーなんか生ぬるく感じるほどの熱風。呼吸するのもはばかられるほどの。
凍が飲み込まれた熱泉──いや、火口から吹き上げてくる熱水と、熱波の前になす術もなく立ち尽くす。
2年1組、敷島花恋は、数分前の自分の行動を振り返り涙をこぼす。しかし、それすらもすぐに熱風が吹き散らす。
(あんなところに……どうして?自分で飛び込んだの?それとも飲み込まれた?私が追い詰めたから?私が呼び出したから……!あんなところに落ちたんじゃ、絶対に助からない……)
錯綜する脳裏は、到底受け止めきれない残酷な事実を必死にかき乱していた。そうでなければ、とても立っていることができなかった。
「私たちが、彼女を──」
皆のあこがれである咽に急にまとわりつく邪魔者をどうにかして追い払いたかった。
何か弱みがないものかと、職員室に忍び込んで彼女の──いや、彼の住民票を見つけたときは、何のためらいもなく歓喜した。そして、近しい仲間たちにすぐに拡散し、一緒になって笑った。
すぐに全員で手紙を書き、彼の下駄箱に投かんした。その時の自分の顔を思い浮かべる。きっと、嗜虐的に醜くゆがんでいたに違いない。
「ごめん──なさい……」
最後の数瞬の凍の顔を思い出す。想像の中の彼女に謝罪の言葉を紡ぐが、荒れ狂う熱波がそれを許してくれなかった。
立っているだけで火傷しかねない。肌がチリつく。肺が焼け縮む。
今や火口は絶え間なく熱湯を吹き上げ、激しく鳴動している。
よもやそこから噴火が始まるなどとは想像もしていない敷島だったが、これ以上ここにとどまることができないことは分かっていた。
しかし──
「こんなんじゃ、ダメだよ……」
奇跡を祈れるような身ではないことは重々承知している。
ついさっきまで、彼女たちは文字通り凍を地獄に叩き落そうとしていたのだから。
でも、だからこそ祈らずにはいられない。このままでは、一生彼女に謝ることもできない。
身勝手な祈りだ。でも、どこかでこんな下手糞な祈りを聞き届ける者がいるかもしれない。
身近に迫る死の恐怖に抗いながら、敷島は必死に祈り続けた。
「誰でもいい……。誰か、彼女を助けて!」
半分は自分の罪悪感を打ち消すための身勝手な祈りだ。
だが、それでも祈りを聞き遂げる者はいたらしい。
──受け取り方が多少歪んでいた模様だが。
「ぐははははは!」
どこかで聞いたことのある、ぎこちない邪悪な笑い声が響く。
不思議と、地響く騒音の中でもその声はよく通った。
声の主は、いつの間にか火口の中心付近に悠然と立っていた。
可愛らしいクマのアップリケを施した腹巻で顔を覆うという、狂気じみた格好の男。
熱泉噴き出す火口に立っているという事実が、その男の尋常でない様子に拍車をかける。
「突然だが自己紹介させていただこ──アチッ」
それでも多少は熱いらしい。たまに熱湯を払うように不思議な動きをしていた。
「吾輩は、悪の秘密結社”エニグマ”が首領……アチチッ!──ナミダグマ伯爵である!この前は貴様らを皆殺しにする計画を惜しくも邪魔されたわけだが、今日はそのリベンジにやってきたのだ!……アチッてっ!」
「ナミダグマ伯爵……?」
名前には聞き覚えがある。校庭の近くの空き地で暴走族のバイクを壊して回ったという自称悪の首領だ。
なんでも、転校生の千勢千里と相打ちになって退散したと聞いたが。
「前回の失敗を反省し、今回はもっとスマートで効率的な方法で貴様らに地獄を見せてやることにしたのだ!」
「なんだか、意外と地道で前向きな悪の秘密結社だな」
「それに、なんでこの一帯にここまでこだわるのかしら」
他の生徒たちが素朴な疑問を投げかけるが、悪の首領はそれをすっぱりと無視した。
足元の火口をビシイッっと指さし、
「この火口に活を入れて大噴火を引き起こし、この学院をマグマに沈めてやるわ!手始めに人身御供としてその辺にいたガキを一人放り込んでやったというわけだ!ぐはははは!」
「その辺にいたガキ──まさか、怯川さんを!?」
敷島の問いに応用に頷くナミダグマ伯爵。
その声に、敷島の心の中で何かの痞えがとれた気がした。あの時、凍を熱泉の中に落としたのはあの男だったのだ。
同時に、激しい怒りがこみ上げる。
「あんな小さな子に、なんてひどいことを!」
「そうだ!それに火山を噴火させるだと!?とんでもねえ悪党だ!」
「くたばれ!」「死んじまえ!」など、他の生徒たちが次々と声を上げる。
熱湯と罵声を浴びせられるナミダグマ伯爵は、しかし心地よさそうに哄笑をあげる。
「ぐはははは!いいぞ、もっと怒れ!憎め!貴様らの負の感情こそが吾輩の糧となるのだ!それに、いくら叫んだところで吾輩の計画に狂いは出ない。そこで指をくわえてみているがいい!」
ナミダグマ伯爵の言葉を裏付けるように、彼の後背部から伸びる深青色の透明な尻尾──幻眩腸が力強さを増していく。
「一刻も早く噴火を起こすため、吾輩自らが手を下すことにしたぞ。火口の中心部にたどり着き、大噴火を起こしてやるわ!」
火口の淵に立つナミダグマ伯爵。なにか心の準備を整えるように大きく深呼吸を繰り返す。
「なんだ、ひょっとしてあいつも怖がってんじゃねえのか──いてっ!?」
冷静な突っ込みを入れる生徒に的確に石を投げつける。
しかし、やがて意を決したように大きく跳躍。きれいなフォームで火口にダイブしていく。
「覚悟しておくがいい!次に吾輩が姿を現すときは、大量のマグマがここら一帯を埋め尽くす時だ!」
「避難するなら今のうちだぞ!」と、気遣いのようなセリフを残して火口に飛び込むナミダグマ伯爵。
後には、不気味な鳴動を続ける火口だけが取り残された。
「って、どうする?ああは言ったけど、このまま俺たちにできることって無くね?」
「癪だけど、ナミダグマ伯爵の言うように避難したほうが……」
やることがなくなり、戸惑う生徒たち。
そこに声をかけるものがいた。
「みんな!急いでこの場所から避難して!」
「獅子門さん!?」
吹き上げる熱風をものともせず、杏はその場にいた生徒たち全員に届くような凛とした声を張り上げる。
「これ以上ここにいたら危険よ!学校からなるべく離れて!」
彼女の言葉には、有無を言わせぬ説得力がある。どうするべきか戸惑っていた生徒たちも、その言葉に導かれるようにさっそく行動を開始した。
「それと、できれば少しだけ協力してほしいの」
杏の言葉に、その場にいた生徒たちは首をかしげる。
皆を代表して、敷島がこう問いた。
「そんなことしても、逆に危なくない?」




