28 熱くてのんびりして幸せな時間
「温泉が湧いたあ?」
「正確には熱泉。とても熱くて入浴には適さないそうよ。だから、立ち入り禁止の札をかけとけですって」
校舎の隅っこ──正確には敷地の中で最も海側に位置する校庭──で、涙はブツクサと文句を垂れながら作業を続ける。
校庭の一角に間欠泉が噴出した。しかもどうやら温泉らしいという報告を受けて、さっそく生徒会が駆り出されたのだ。
「だいたい、なんで俺様がこんな雑用をやらされねばならんのだ」
「ほかに手の空いてる生徒がいなかったんだからしょうがないじゃない。そもそも、アンタはつい最近飼育委員をクビになったばかりで暇なんでしょ?」
「獅子門。何度も言うが、俺様は暇じゃない。放課後も用事がたんまりとあるのだ」
「そんなこと言わないの。こういう地道な作業こそが、失墜したクラスメイトの信頼回復につながるんだから」
間欠泉を覆うように杭を打ち込み、ロープを張る。
直径2メートル程度の泉ではあるが、間欠泉というやつは派手に噴き上げて周囲に熱湯をばらまくものだ。安全を考慮して、泉のかなり外側を覆うようにロープを張る必要がある。
逆方向にロープを張り始めたため、二人はちょうど泉を挟んで真逆に対峙していた。
そのせいで、涙は大声を張り上げて不満を主張する。
「余計なお世話だ!俺様の不幸を邪魔するんじゃねえ!」
「そういわないの。人の好意は素直に受け取るものよ」
「受け取る相手の気持ちを考えない好意は、もはや押し付けじゃねえのか?」と言いつつも、律儀に作業だけはこなしていく。
こう見えて、受けた約束は守るスタイルなのだ。
『なあ、涙よ。これは何をやっておるのだ?』
「見てわかんねえのか。生徒たちがあの熱湯で火傷しないための柵を作ってんだよ」
『熱湯?あの程度のぬるま湯で、人間は火傷するというのか?』
「そうだよ。お前と違って、人間様はデリケートなんだよ」
『デリケート?脆弱の間違いであろう?』
「ああもう、うるせえな。作業の邪魔だから黙ってろよ」
涙の腸に寄生している超菌──エニグマの声は、宿主である涙にしか聞こえない。
逆に、エニグマに話しかける涙の肉声は当然ながら他の人間には聞こえてしまうため、このように人気のないところでしか会話は成立しないのであった。
『それはそうと、気を付けるがいい』
「なんのことだよ?」
エニグマの声音が少し変わる。何かを警戒しているような強張りが感じられた。
『そこの泉の底。なにか気配がする』
「気配?テメエの同類でも沈んでんのか?」
『とにかく、用心することだな。先日の戦いで分かったのだが、長い眠りについておったせいか、本来の力を全く使いこなせんのだ。そうでなければ、第9階層の雑魚ごときに後れを取るはずがないからの』
「ヘエヘエ、そうですか──」
話半分──どころか話1/100程度に受け流しつつ、作業を続行する。もうじき、反対側の杏と合流するはずだった。
杏はこちらの倍以上のスピードで柵を組み上げていた。相変わらずの手並みだ。こういう作業一つやらせても隙がない。
「安心しろよ。どのみち、こんな場所に好き好んで近づくやつはいねえよ。そのために俺様たちは作業してんだから」
「なに独りでブツブツ言ってんの、渡君。アンタ、最近独り言が多くない?」
どうやらエニグマとの雑談はここまでのようだ。強引に話を打ち切って、杏の方向に向かって最後の仕上げに入る。
「これでおしまいっ──と」
「ふん、思ったよりも早く終わったな。予定通り帰宅できそうだぜ」
最後の杭を打ち込み、ロープをピンと張って「立ち入り禁止」の張り紙を垂らす。
「ふう……結構汗かいちゃった。あの泉がお風呂になればいいのに」
「汗を流すだけならシャワーがあるだろう。体育部の連中が良く使ってる」
ぱたぱたと手で顔を煽ぐ杏。熱泉というのは本当なのだろう。春先だというのにこの辺りだけは気温がぐっと上がっているらしい。
煽いでいた手を止め、代わりに指を一本立てて涙の言葉を制する杏。
「甘いわね。シャワーとお風呂は別物よ。肩までお湯につかって、体の芯までじっくり温まるの。全身から一日の疲れが抜けていく、あの感覚!何物にも代えがたい至福の時間なんだから」
「……」
熱弁をふるう杏。対する涙はそれを黙って聞いていた。
その様子に、杏はふと我に帰る。
(ヤバ……。ちょっとはしゃぎすぎたかも)
杏の風呂好きの趣味に対しては、意外と周囲のリアクションは冷ややかなものが多い。
「随分と年より臭い趣味だね」とか「私はシャワー派だなあ」だとか、一歩引いた感想をいただくことがしばしばだった。
今回もきっとそうなるだろうと思っていた。現に、彼は不機嫌そうな目をずっとこっちに向けている。
やがて口を開くと、こう尋ねてきた。
「ベストな風呂の温度は?」
唐突といえば唐突なその問いだった。しかし、遺伝子レベルで刻まれた風呂好きが、脊髄レベルの反射で返答する。
なぜか、涙の声もそれに重なった。
「「42度!!」」
突風が吹いたような静寂が二人を包み、やがて音が戻ってくる。
杏がクスリと笑ったのだ。
「分かってるじゃない。通の風呂好きなら、この温度一択よね?」
「一日一回はこの温度で腹を温めんと、翌日はひどい目にあう。長年の経験で築き上げた、この腹にベストマッチする温度だっただけだ」
笑顔の杏に対し、涙は依然として仏頂面のまま。
「俺様の苦労を、貴様の趣味と一緒にするな」ということなのだろうが、それでも理解者がいたことで杏は嬉しくなってしまう。
「やっぱり、この熱泉は温泉にしましょう。少なくとも、ここを必要とする生徒は二人はいるわけだから」
「貴様と一緒にするな!俺様の場合は生活が懸かってるんだ」
などと言ってみたところで、もう無駄だろう。
やると決めた杏は、だれにも止められない。
明日にでも、いや、今晩にでも学校の新しい施設の提案書をまとめ上げるに違いない。
どうやら自分はその発起人──正確には、杏のやる気に火をつけてしまった火元責任者──となってしまったわけだ。
面倒なことに巻き込まれる予感はあったが、止めようがないので黙ってみているしかない。
それに──
「じゃあ、新しい入浴施設の管理人には、アンタを指名してあげるわね」
それに、こうして楽しそうに未来の展望を語る杏の姿を見ていると、なんだかそれもいいか、と思えてしまうのであった。
そんな涙に、ぼそりとエニグマがこう語りかける。
『ちなみに、吾輩は本気を出せば4000度までなら耐えられるぞ』
(嘘つけ!)と、心の中で突っ込みを入れるのだった。




