27 速くて痛くてアツい時間
──体育の時間
「今日は400メートルのタイムを計るぞ~」
「げー、かったり~」
「400メートル走とか、地味に疲れるから嫌なのよね」
事前に告知もなく開催された記録会に、男女問わずブーイングが巻き起こる。
しかし体育教師はお構いなし。ゴールラインに構えててきぱきとタイム計測の準備を始める。
「じゃあ、名前を呼ぶから二人一組で走るように」
記録用紙に目を落として、名前を読み上げる
「では、獅子門。そして早川」
最初に呼ばれたのは杏であった。
こういうイベントでは、大抵は彼女が先陣を切ることが多い。「模範を見せてみろ」という教師の言外の期待の表れである。
そして、そんな期待に100パーセント応えてきたのが彼女である。
スタートの合図に完璧に合わせてダッシュ。お手本のようなフォームでみるみる加速し、その速度を維持し続ける。
「……お見事」
体育教師が感嘆の声を上げる。タイムは53秒11。インターハイの記録に並ぶ好タイムである。
「さあ、みんなも自分の記録に挑戦しましょうね!」
自己新記録を叩き出した本人にこう言われたのでは、さすがに生徒たちも奮い立たずにはいられない。
各自、思い思いの方法で準備運動を始める。
「じゃあ、次。……渡、そして千勢」
異色の組み合わせであった。
出席番号の下二人がたまたま重なっただけだろうが。いずれにしても周囲からどよめきが走る。
「……貴様には負けん」
「って、相変わらず高下駄履いてて満足に走れんのかよ?」
むき出しの闘志──いや、憎悪を放って、千里はスタートラインにつく。
先日の生物室の一件。真相を知るのは咽とジェーン。そして杏だけである。
彼の中では、依然として涙はモルモットを死なせた極悪人のままなのだ。
「ねえ、お兄ちゃん。あのゲリチビ、足は速いノ?」
「そうか、凍は最近の涙のことは知らないもんね……コホコホ」
体育の時間も、妹は兄にべったりとまとわりついている。
今は背中からおぶさる様な姿勢の妹に、咽はこう続けた。
「速い時は速いよ。お腹が痛い時の涙は特にね。昔、陸上部にスカウトされたこともあるんだ……ぜひぜひ」
「うっそだー」
「『陸上競技場にはトイレが少ないと聞く。それに俺様に部活をやる余裕はない。なので断る』って取り付く島もなかったようだけどね……ダハッ」
「ところで、涙のことをそんな風に言うのは良くないぞ」とたしなめて、スタートを見守る。
当の涙本人は、今日は珍しくお腹の調子が良いらしい。トイレに駆け込む必要はなさそうであった。
(ま、別にこいつに勝ってもどうでもいいから、無理する必要はねえか)
勝ったところで、余計に恨まれるだけだろう。それはそれで構わないのだが、特定の個人に恨まれすぎるのもツマラナイ。
適当に走ってこの場をしのごうと思っていた時、スタートの合図が鳴る。
「うおおおおおおおお!」
高下駄で走ること自体が至難の業であるが、持ち前の筋力でカバーしている。ものすごいスピードで加速していく。
その様子を眺めながら、のんびりとしたペースで後をついていく涙。
すると──
『おい、このままだとアレに負けるぞ。良いのか?』
「別にいいだろ。勝ったからって何にもなんねえんだし」
走りながら自分のお腹に語り掛ける。
千里の絶叫のおかげで、まさかこの会話が周囲に聞こえることはないだろう。
『吾輩に負けろ、というのか?あの、下等な乳酸菌の宿主に』
「一度は勝った相手だろ。それに、お前の能力で無力化したんじゃねえのかよ」
『吾輩を誰だと思っておる?一度たりとも敗北を認めるなど許せんわ。それに、この前の戦いだが、どうにも手ごたえが薄かったのじゃ。完全に失活できたか、怪しいもんじゃ』
「なんだよ、そりゃ……」
『とにかく、負けることなど許さん……。お主も、本気を出してもらうぞ』
ドルルルルル……!
エニグマがそういうが早いか、涙の腹鳴が激しくなる。
それに呼応して、全身に力が漲っていく。
その結果──
「……は?」
体育教師が間抜けな声を上げた。
手にしたストップウォッチには「30秒05」の数字が映っている。
「見間違いかな。多分そうだ……」
目をこすりながら、先ほどの出来事を完全に記憶から消去することにしたらしい。
「くそ、あんな卑劣な奴に負けるなど──」
悔しそうに地面を殴りつける千里。
ちなみに、千里の記録は42秒38。
400メートルの世界記録は43秒03である。
それ以降も、皆が思い思いに自分のタイムに挑み、好タイムを記録していく。
そんな中、教師が生徒の名前を読み上げる。
「ええと、怯川と……怯川……」
果たして、呼び出されたのは怯川兄妹であった。
「やったー。お兄ちゃん、一生に走ろうネ」
とは言ったものの──
「ねえ、凍。これはちょっと走りにくいなあ……フゴフゴ」
「え~?だって、この方が一体感が出るっていうか~」
凍は、兄の真横にぴったりと張り付いている。まるで二人三脚をするかのような距離感である。
世にも珍しい、”ゼロ距離徒競走”であった。
「では、よーい……ドン」
いろいろあって記憶があいまいな体育教師。二人のそんな様子に気づきもせずに開始の合図を鳴らす。
すると当然ながら──
「キャッ!?」
派手にすっころぶ二人。
特に妹の方は小柄だったこともあって、転がり方も豪快である。
「いったーい!」
泣き出す凍。膝を大きく擦りむいたようである。
「大変だ、凍ちゃん!俺たちがすぐに保健室に──」
「ゴメンネ~。お兄ちゃんに連れてってもらうことにしたの~」
「って、怯川君もけが人なんじゃ……」という突っ込みは完全に無視して、凍はしがみつくようにして兄と共に保健室に向かうのだった。
「ふん……お前が噂の飛び級転校生か」
「怯川凍です。よろしくね、青蓮院先生!」
元気にそう返事する凍に、しかしジェーンは冷たいリアクションを返すだけであった。
以前杏が指摘したように、涙以外の生徒を前にした時のジェーンは大抵こんな感じであるのだ。
「……座って茶でも飲め」
「いただきまース」
咽のほうは怪我はしていなかったようで、ジェーンに「さっさと授業に戻れ」と追い返されてしまった。
名残惜しそうな妹と、今は二人きりである。
「では、患部を見せろ」
「ここなんですよ。痛かっタ~!」
擦りむいた右ひざをめくりあげる。確かに、派手に皮がめくれていた。
それなりに出血もしていたようで、すぐに消毒が必要であろう。
だが──
ジェーンはわずかに眉をひそめる。
「なあ、怯川妹よ。怪我をしたのは3時間目──つまり、ついさっきのことだな?」
「え?はい。そうですよ」
「──妙だな」
「どうかしたんですか?」
「見てみろ」と、傷口を軽く洗い流す。
あらわになる傷口。だが、そこにはすでに新しい皮膚が出来上がっていた。
「軽い傷でも、治るのに2~3日かかるはずなんだが、随分と代謝が早いんだな」
「アハハ、そうなんですね~」
よくわからない様子の凍に、飲み終わった湯飲みを回収しながらジェーンはこう続ける。
「それに、このお茶も相当熱かったはずなんだが……。こんなに早く飲めるとは。熱さにも相当に強いと見える」
「え~?昔から、猫舌で困ってたんですヨ~?」
のんきな声音とは裏腹に、凍の青い瞳は、何一つ笑っていなかった。




