24 全身全霊の言い訳
「待て、獅子門!」
彼が追ったのは、トイレではなく杏の後ろ姿であった、
呼び止められた杏は、仏頂面で睨みかえす。
「……なによ、この変態」
「変態は俺様じゃない。あの不良女教師の方だ!」
「青蓮院先生に限って、そんなことするわけが……ないで……しょ……」
言い返しながら徐々に声が小さくなっていく。
ジェーンと交流が深い者であればあるほど、彼女の底知れぬ闇に触れる機会もまた多い。
杏の雰囲気から、次第に刺々しさが消えていった。
やがて──
「……まったく、あの先生は自分の趣味のことになると本当に歯止めが効かなくなるんだから……」
と、やれやれ取った様子で頭を抱える。
誤解が解けたようで、涙もホッと胸をなでおろす。
「フン、ようやく。自分の間違いに気づいたか。いいか、あの変態不良女教師にはくれぐれも気をつけろよ」
「よくわかんないけど、先生があんなに興奮して興味を示すのはアンタくらいなのよ。他の生徒には、全然無関心なんだから。そのアドバイスは無意味ね」
「……そうなのか」
「よほど、アンタのお腹に興味があるみたい」
ジロリと、涙の下腹部をにらみつける。
興奮すると見境をなくすが、そうでない時の彼女は杏の理想に近い。尊敬しているというのは、本心から出た言葉だった。
そんな彼女に、異常なまでに執着を示される涙に、少しだけ羨ましさを覚えるのであった。
そんなことを夢にも思わない涙は、ぎょっとして制服の上からお腹をガードする。
彼のお腹には、今も”ナミダグマ伯爵”の腹巻が巻かれたままだ。昨日のあの場にいた者であれば、すぐに正体がばれてしまうだろう。
しかし、変態不良女教師とは違って、杏は無理やり彼の衣服をはぎ取ろうとはしなかった。(当然といえば当然だが)
代わりに、睨むように細めていた目から、ふっと力を抜いて視線を上げる。
長身の彼を、少し見上げるようにしてこう続けた。
「もう、あんな嘘は止めておきなさいよね」
「なんの……ことだ?」
「アンタの嘘は分かり易すぎるのよ。あたしの洞察力を見くびってもらっちゃ困るわ」
「だから、何のことだ?」
「……あくまでシラを切るつもりね。それならそれでもいいわ。確かに、あれがなければ千勢君の居場所はなくなっていたかもしれない。でも……」
ツカツカと、何の躊躇もなく涙の前に立つ。
彼女はいつもそうだ。誰に対しても、真正面から向き合う。引け目も、負い目も、ひいき目もなく、まっすぐに相手を見るのだ。
意志の強そうな瞳が柔らかく緩み、引き締まった口元はフ──とほどける。
つまり、彼女が自分に対して微笑みかけたのだと、しばらくたって気づいた。
「でも、アンタはもっと自分を大切にしなさい。それだけよ」
「余計な……お世話だ……」
「そういえば、さっきからお腹を押さえてたみたいだけど、お腹の様子は大丈夫なの?」
「──!?」
言われて初めて思い出したのか、急に腹鳴が響く。
「そうだった。こうしてる場合じゃねえ!ここから一番近いトイレは──!」
脱兎のごとくその場を走り去る涙。
相変わらず、トイレに向かう時だけは凄まじいスピードである。
「こら!廊下を走るんじゃない!」
そう言って、彼の背中を見送る。やがて、両手に腰を当ててやれやれといったように、ひとり呟く。
「本当に、馬鹿なんだから……」
一方の涙は、ようやく下剤の効果が表れたらしい。急にのっぴきならない状態に追い込まれてしまっていた。
「くっそ!この階のトイレはどこも遠い……!持ってくれよ、俺の身体……!」
全力で駆ける涙に、不意に腹の虫──エニグマが声をかけた。
『なんじゃ、主。今は随分と妙なことをしたな?』
「何がだよ!?」
『あの雌の認識を改めにワザワザ出向きおったわ』
「それのどこがおかしい?」
エニグマの声は涙以外には聞こえない。
人気のない廊下であったため、人目を気にせずに涙は腹の虫に話しかけていた。
エニグマは、出し抜けにこんなことを尋ねる。
『吾輩の力の源は、他者の恐怖、怒り、憎しみといったであろう?それはお主も同じだと思っておったのだが。あの雌に関してはそうではない|か?』
「……」
問われて、涙はとっさに沈黙してしまった。
『吾輩は、人間という種についての知識はない。どうやら、吾輩の知らぬところで生物たちは随分と様変わりしたらしい。ゆえに、吾輩は知りたいのだ。お主たち人間のことを』
「そんなことを言うからには、てめえも相当古いんだろうな」
『吾輩の知る生物とは、他者を支配し、喰らい、自己を増やす。それの繰り返しで成り立っておった。あの乳酸菌とてそうだ。奴は下等で若造の第九階層の菌であったが、他者を恐怖させ、憎しみを啜って生きておった。だが、どうやら人間という種族は違うらしい』
『故に興味があるのだ』と、エニグマ。
涙には、彼が本心で疑問に思っているがよく分かった。同じ体を共有しているのだ、心もつながっているらしい。
『あの青蓮院とかいう雌も、お主を喰らおうとしておった。生物としては、あれが自然な姿であろうに』
「いや、あの女をして標準というのは違う気がするが……」
『では、応えよ。最も新しく、最も弱い種族よ。お主らは、なぜ喰い合わぬ?憎みあわぬ?』
「……」
しばらく沈黙したのちに、いつの間にかトイレにたどり着いていた。
流れるように個室のドアを開け、用を足す。
一息ついて、やがて涙はこう切り返した。
「憎み合うさ。喰い合うことだってある。でも、きっとそれだけじゃ腹が満ち足りねえんだろうよ」
なぜか、脳裏には小さく微笑む杏の顔が浮かんでいた。




