23 絶体絶命の危機
「いいだろお、渡い。減るもんじゃないんだから」
狂気に満ちた科学者とは、こうも美しいものなのか。
上気した頬に、怪しく揺れる翠の瞳。見ているだけで背筋がゾッとするほどである。
もっとも、襲われている当の本人にとっては心底背筋の凍る思いであろうが。
「もう、私は我慢できないんだ……。なあ、いいだろう?」
とても他人の排泄物をねだっているとは思えないほどの魅力と迫力で近づいてくる不良女教師。
対する涙は、自分のお腹を必死にかばいながら壁際を逃げるばかり。
すこしでもお腹を冷やしてはいけない。それは、破局の時へのショートカットにつながる。
必死にドアを揺らしてみるが、微動だにしない。
「無駄だよ、この部屋のロックはそう簡単には解除できないんだ」
「ならば……!」
手にした椅子で思いっきり窓ガラスをたたく。
「無駄だって言っただろお。とっくに防弾強化ガラスに変えてあるんだからさあ」
「ただの保健室が、どうしてこんなに頑丈なんだ!!」
やけになって叫ぶが、現実がそうなっているのだから仕方ない。
「くそっ!どうしたエニグマ。昨日の力の1/100もでてないぞ」
『昨日も言ったであろう。吾輩の力の源は他者の恐怖や怒り。逆に、好意を向けられると弱体化するんじゃ。お主、よっぽどあの雌に好かれとるんじゃの。吾輩をここまで弱体化させるとは、なかなかの物よ』
「あれは好意じゃなく、好奇心だ!しかも実験体に向けるやつ!」
叫ぶが、徐々に体に力が入らなくなっていく。
ひょっとして、下剤と一緒にしびれ薬でも盛られたのだろうか?
そんなまさかとは思うが、この女ならやりかねない。そんな有無を言わさぬ迫力が感じられた。
「我慢は良くないだろ。さあ、私にすべてをゆだねるんだ」
「い、や、だ、と言ってるだろう……!」
とはいうものの、本気を出したジェーンの力はすさまじく、いつの間にかベッドの上に組み伏せられていた。
お腹を押さえていた両手も、完全に自由を奪われている。
「初めてだから緊張するのは分かる。でも、すぐに良くなるからなあ」
「何の話をしてやがる!」
どれだけ叫んでも力が入らない。
このままでは、絶対に破局の時をさけられない。
涙が観念しかかったその時である。
ガララッ
何事もなかったかのように、保健室の扉が開く。
「だ、誰だっ……?」
不意の侵入者に声を荒げるジェーン。
しかし、彼女にはすでに思い当たる節があった。この学院内で、彼女を超える権限を持つものはそう多くはない。
部屋のセキュリティは彼女の自作ではあるが、そのすべてにアクセスできる人間は限られている。
その一人こそ──
「ハ、ハンター校長!」
あのジェーンが思わず姿勢を正し、直立不動で相手を迎え入れる。
ジャック=ハンター。この私立ハンテリアン学院の創始者であり、校長を兼務している。名実ともに、この学院の最高権力者だ。
身長160cmほどの、小柄で白髪の目立つ老人である。なによりも特徴的なのは、その目だった。
大きく見開き、ギョロリとした目でジェーンをにらみつける。
それだけで、蛇に睨まれた蛙のようにその場に硬直してしまうのだった。
「ジェーン。これはどういうことだ?状況を説明しなさい」
「は、はい。この生徒に対して実験をしておりました!」
生徒相手に実験をするということ自体、教師としていかがなものかとは思うが、今の彼女にそれを取り繕う余裕はないようだ。あまりの圧力に、正直に話す以外の選択肢を削がれているらしい。
「実験?何の実験だ」
「菌のサンプルを採取する実験です!」
「目的は?」
「彼の中に寄生している超菌の種類を特定し、種の起源に迫るとともに、これから起こるであろう他の保菌者への対抗策を講じるためです!」
「その手段は?」
「先ほど、彼に下剤を飲ませました。遠からず排便に至ると思われますので、このおまるで便を受け止め、そこからサンプルを回収する予定です!」
「結果はいつ出る?」
「採取したサンプルを分析するのに、一週間はかかるかと!」
「……」
小さな顔に不釣り合いな大きい目玉をパチリと閉じる。しばらく何かを考えこんでいるようだ。
やがて眼を開けると、こう告げる。
「プロセスに問題はないな。あとは実践あるのみだ。しっかり励め」
「は、はい!」
ジェーンが歓喜の声を上げる。
もっとも、お咎めがなかったことに対してではなく、実験プロセスの正しさを認められたことに対して、らしかったが。
「では、さらばだ」
「って、ちょっと待てええええええええええ!」
全力で校長を呼び止める。しかし、閉まった扉の向こうからコツコツと去っていく足音だけが聞こえてきた。
「とうとう観念する気になったか」
「さっきから、お前のセリフがおかしすぎる!正気に戻れ!」
「私はいたって正気だぞお。ちゃんと服が汚れないように、こうやってズボンを脱がしてやろうっとしてるんだからなあ」
「さっきの校長もそうだが、俺様は手順の正しさについて言ってるんじゃない!」
カチャカチャとベルトのバックルに手をかける。
いったいどこで習熟したのか、あっという間にズボンを脱がされてしまった。
「くそ、はなせ……!」
「私は本気だ。お前の力になりたくてこうやってるんだぞ」
「嘘つけ!自分のためだろうが!」
「自分のためでもあるが、それがお前のためにもなるんだ。お前も、自分の体がどうなっているのか知りたいだろう?」
「そんなもん、探られるまでもなく俺様が一番よく分かっとるわ!」
「そんなこと言うな。先生寂しいぞ」
押し問答を繰り返すが、結局は力がすべて。
組み伏せられたまま、涙はついに下着に手をかけられようとしていた。
「ふふふ、渡。貴様の初めては、この青蓮院ジェーンがっもらったあ!」
その時──
ガララッ
またも扉が開く音。どうやら、校長が出て行った後に鍵を閉め忘れていったらしい。
ひょっこりと顔をのぞかせたのは、杏であった。
「先生、そういえば校長への嘆願書を見ていただきたいんですが──」
室内を覗き込んだ杏だったが、すぐさま顔面が硬直する。
あられもない姿の二人を見て、頬を赤らめる。
(正確には、あられもない姿をしているのは涙一人だけだったのだが。生徒を無理やり押し倒して服を脱がせようとしている時点で、ジェーンもある意味そう捉えられても仕方ないだろう)
とにかく、杏は学院中に響くような大声で叫ぶ。
「何やってんのよ、この変態!!」
「って、俺様は被害者だぞ!?痛てえっ!」
手にした分厚いレポート用紙の束を、涙に投げつける。
今回の一件に関していえば、100%涙に過失はないのだが、普通に考えれば教師が生徒を襲うことなどまず考えられないのだろう。
頬を赤らめ、その辺にあったものを片っ端から投げつける。
「生物室であんなことをしでかしておきながら!アンタのことだから何かの誤解じゃないかと思ってたのに!舌の根も乾かぬうちにこんなことを!恥ずかしくないの!?」
「だから!誤解だって!言ってるだろ!?話を聞けって!」
次々とそのあたりにあるものを投げつける。さすがの運動神経で、相手の下半身を見ないように目をつぶっているにもかかわらず、的確に涙の顔面に突き刺さっていく。
この時ばかりは、なぜか涙も必死に弁明に走る。こういった不幸は、彼の望むところではないのかもしれない。
「信じらんない!最低!!」
そういってその場から走り去ってしまう。
気づけば顔をボコボコに腫らしてはいたが、なぜか涙の表情に覇気が戻っている。どうやら活路を見いだせたようだった。
一方のジェーンは短く嘆息すると涙の方を向き直った。邪魔者が去ったことに安堵したのか、何事もなかったかのように涙の下着を剥ぎ取りにかかる。
あれだけバッチリと現場を見られたにもかかわらず、この不良女教師もいい度胸をしている。
「さあ、続きを始めようか」
「そうは……いくか!」
杏に罵声を浴びせられたことで、力が戻ってきているのが分かったのだ。
強引にジェーンの腕を振りほどき、未だにロックが外れたままの扉から外に逃げ出す。
「待て!渡!」
「うるさい!もう二度と来るか!変態不良女教師が!」
中指を立てて保健室を後にする。
向かう先は、トイレではなかった。




