22 問答無用の荒療治
──話は、再び生物室の悲劇があった日に戻る
「まあ、こんなもんか。見かけの割には、大したケガじゃなかったな」
「そんなもんか」
手当てを終えると、ジェーンはべしっと頭をはたく。
保険医とは思えない雑さである。
涙は特に気にした様子もない。こんな扱いを受けるのは、慣れていた。
「さて、聞きたいことでもあるんだろ?」
「そうだな。知ってるなら、教えてもらいたいもんだ」
ベッドの横に椅子を並べて、足を組んで優雅に座る。
丈の長い白衣が太ももの横をさらりと滑り落ちる。
普通の男子であれば悶絶しそうな光景であったが、涙はさして気にも留めず、ジェーンの顔を睨みつけている。
「私も、それほど詳しいわけではないさ。自分で見たのも、今回が初めてだしな」
分厚い本を机から取り出す。以前、杏が読もうとしていた、超菌学という表紙の古ぼけた本だ。
「私の専門は細菌学だ。細菌ってのは、そこらかしこにいるが目には見えない。サイズはおよそ数マイクロメートル。私たちの髪の毛の細さの百分の一。とてつもなく小さい生物なんだ」
「それくらいは知ってる。俺様たちのお腹にも、そいつらがウジャウジャいるってこともな」
「なんだ、それなら話は早い」
そういうと、ポットからお湯を注ぎ涙に渡す。
暖かい白湯だった。いつものように、チビチビと胃に流し込む。
「生物の腸というのは、とても特別な場所なんだ。摂取した栄養を吸収する補給基地であり、免疫の最前線でもある。最近では腸は第二の脳などと言われるようになってきた。それくらい重要な場所に、なぜ私たちはこんなにも大量の他人を飼っていると思う?」
涙は黙ってかぶりを振る。
「私たち学者が出した結論は、たいして斬新なものじゃなかった。そうしないと人間が生きていけないから、それに尽きる」
「思ったよりも頼りねえんだな、俺様たちの身体ってのは」
「それはそうさ。腸と細菌、そして私たちの全身は密接に関わりあっている。共生──という言い方が最も適切だろう。そんな中、とある学説を唱える学者が現れだしたんだ」
手にした本を見せる。
「細菌の中には、より強い干渉力で私たち宿主に影響を与える特殊な個体が存在する。そういった特殊な細菌のことを超越細菌──超菌と呼ぶ。それらに適合した宿主たちは、その菌が持つ超常的な力をその身に宿す──いわゆる腸能力者となるってな」
「下らねえ駄洒落だな」
「そうも言えんさ。お前も昨日、その目で見たはずだ。同時に、体感もした。違うか?」
「……」
「千勢の身に宿っていた超菌は、どうやら乳酸菌だったらしいな」
「よくわかんねえが、乳酸菌ってのは人間にとって有用な菌じゃなかったのかよ。たしか、善玉菌とか言って」
「どんなものでもバランスを崩せば害にしかならんよ。健康にいいからってヨーグルトだけ食べてたら体を壊すさ」
「あいつの、腸能力ってのは?」
問われると、ジェーンは唐突に涙に抱きついた。
というより、しがみつく──覆いかぶさるといったほうが正しい。
「聞いた話だと、あの尻尾に触れると、こんなふうに虚脱感に襲われたらしいな」
「そうだったな。全力で走った直後みたいに、体が動かなかった。中には、歯がボロボロになってたやつもいたっけ」
「それこそが、乳酸の力さ。腸内にいる分には他の悪玉菌の繁殖を妨げてくれるが、もしも筋肉の中に発生すれば疲労物質になるし、口腔内で発生しようものなら虫歯の原因さ」
「薬も、使い道を間違えると毒になるってことか」
グイっと片手でジェーンを押し返す。
物わかりの良い生徒は嫌いではない。あっさりと引き下がって説明を続ける。
「その学者が提唱するには、超菌には三つの特殊能力を宿すという。その一つが"超代謝"。様々な物質を生み出し、支配する能力だ。宿主の代謝も上がるため、肉体が強化されたり、ケガの治りも早くなる」
「こんなふうにな」と言って、涙の顔をパチンと指ではじく。
確かに、あれだけ全力で殴られたにしては、すでに痛みが引いてきている。
「菌種によってその特性は様々と言われている。お前の腹に宿っている奴は、どうかな?」
「こいつをしている間は、うんともすんとも言いやがらねえよ」
そう言って、腹巻きを指差す。
「名前は何と名乗っていた?」
「"エニグマ"だってさ。その気になれば星すら滅ぼすとか言ってたな」
「謎か、それはまた、随分と物騒なことだな」
「そういえば、あの透明な尻尾は何なんだよ。俺様にも生えやがってたが」
「あれは幻眩腸と言われる現象だ。力ある超菌が活性化するときに現れるとされている」
「いったい何なんだ、ありゃ?」
『それは、吾輩から説明しよう』
「うわっ!?」
唐突にお腹の中から声が響けば、だれでも慌てるだろう。
ベッドの上で思わず飛び跳ねる。
『あれは、吾輩の力の残滓だ。吾輩が力を開放すると、それに押し出された他の菌どもの死骸が外に放り出される、といったわけじゃ』
「それってつまり、オナラってことじゃねえのか!?」
『そうとも言うかの?力の弱い、みじめな菌どもの哀れな亡骸よ』
「どう言い換えても一緒だ!俺様ともあろうものが、人前でオナラを垂れ流していたとは──」
げんなりして、その場に崩れ落ちる涙。
だが、一方のジェーンは大きく目を見張り、彼の独り言を見つめていた。
「渡……。ひょっとして今、会話してるのか?お前の中の菌と」
「ん?そうだが。やっぱり他人にはこいつの声は聞こえないのか」
ひとり呟く涙を前に、ごくりと生唾を飲み込むジェーン。
「まさか、本当に私の目の前にいるのか……!」
熱にうなされたように、じりじりと涙ににじり寄っていく。
「ところで、超菌の中にはいくつかの格付けがあるらしくてな。あれは、菌の中でも最も格下──第九層に位置すると言われている。正式にはラクトバチルス科、ラクトバチルス属、ラクトバチルス乳酸菌。彼らは上位に位置するほど多様で強力な能力を使えるそうなんだ」
「ふーん」
「上位者ほど強く、そして古い。古ければ古いほど、彼らの持つ遺伝情報は"起源"に近いと言われている」
「起源?なんのだ?」
「この世のすべての生物の、だよ。"Last Universal Common Ancestor"(最終普遍共通祖先)と呼ばれる、地球上に最初に生まれた生物。この本には"菌祖"とも記されている」
「それがどうだってんだ?」
涙は気づいていなかった。
不良女教師の視線に、次第に怪しい熱が宿っていくのを。
「私は、その"菌祖"に関する情報を欲しているのだ。だから、渡……」
そういうと、ジェーンは涙に渡した湯飲みを手にとる。
机の上に湯呑を置くと、それにお湯を注いだポットを開けた。
「だから、先生に協力してくれるよなあ?」
懐から取り出したのは、小さな袋。どうやら何かの薬だったらしい。ラベルには見慣れない単語が並んでいる。
「結構苦労したんだぞお?無味無臭の下剤を探すのはなあ……!」
「な……!?」
たまらず涙が飛び起きる。
窓に手を伸ばすが、頑丈にカギがかけられていた。
「むだだぞ、渡い。患者がうかつに逃げ出さないように、この部屋は完全密閉できるように作ってあるんだからなあ」
「患者が逃げ出したくなるような治療をするんじゃねえよ!」
「そんなこと言わずに、今日こそ分けてもらうぞお。お前の排泄物をなああああ」
昨日の千里よりもはるかに恐ろしい執念を身にまとった、青蓮院ジェーンの魔の手が涙に襲い掛かる……!
身近なところに、いつだって敵は潜んでるもんです




