20 悲劇
翌朝。
校門をくぐった千里は、今までと随分違った目線で自分が見られていることに気付いた。
恐怖ではない。拒絶でもない。
(なんだ、これは?)
あえて言えば、それは畏怖の視線であった。
「おはよう、千勢君」
「……」
おずおずとした様子で、小柄な女子生徒が自分に声をかけてきた。
まさか、自分に朝の挨拶をする者がいると思わなかったせいで、返事する機会を逸してしまった。
かろうじて頷き、挨拶を返した体を保つ。
「昨日の活躍、見てたよ」
「……活躍?」
昨日の、あの悲惨な暴走を活躍と呼んだのか?
「あんな不良たちでも、守ってあげるなんて優しいんだね。私、感動しちゃった」
「己が、あいつらを守った?」
学校の連中には、一体昨日の争いがどのように見えていたのだろうか。
「それにしても、あの"ナミダグマ伯爵"とかいう奴、一体何者なんだろうね。あんなに悪い奴がいるなんて、信じられない」
どうやら、昨日のいざこざは、すべてあのクマのアップリケを纏った変人のせいだということにされたらしい。
それどころか、自分は悪の首領から身を挺して不良たちを守ったヒーローということになっているようだ。
(勘違いもいいところだ……!)
とんでもない誤解を受けている。どうやって取り繕えばいいのか、千里は途方に暮れるのだった。
その日の3時間目は、生物の授業だった。
休み時間をたっぷりとトイレで過ごした涙は、密かに生物の授業を楽しみにしていた。
(共鳴のおかげで、あいつが飼育委員に憧れてるってのが分かったからな。生物室にいるモルモット達をみたら、さぞ驚くだろうぜ)
一晩だけ預かった"小柄"を仲間のもとに返すついでに、飼育委員の役割を千里に譲るつもりだった。
「これで、あいつも「己は不幸だ」とかぬかすこともねえだろう。俺様の地位は、ますます安泰になるわけだ」
「さっきから、何を一人でブツブツ言ってるのさ……ゴホッゴホッ」
にやにやと邪悪な笑みを浮かべる涙。最後尾を歩く彼に、幼馴染の咽が心配そうに顔をのぞき込んでくる。
「そういえば、昨日は金属バットで頭を殴られた挙句にバイクで引かれたって聞いたよ。……本当に?」
「ああ、どうやらそうらしいな」
他人事のように振舞っている涙の様子に、最初は心配そうな表情を浮かべていた咽も次第に疑いの眼差しを向けるようになった。
おそらく噂に尾ひれがついたのだろう。
「昨日はいろいろあったみたいだから、情報が錯綜したんだろうね。いくらちょっとたくましくなったとはいえ、こんな細身でそんな目に遭ったらさすがに入院してるもんね」
「ええい、ベタベタするな」
安堵の表情を浮かべ、腕にしがみついてくる幼馴染を強引に引きはがす。
「そういえば、昨日は随分早く帰宅してたようだな」
「ウン。なんでも、妹が急に相談したいことがあるとか言って呼び出されたんだ」
「ゲ……。あの人騒がせな小娘か。また何かやらかすんじゃないだろうな」
幼馴染だけあって、彼の妹にも面識はあった。
お互い、犬猿の仲であったために滅多に会うことはないが。
「ハハハ」と、彼らしい色素のない頼りない笑い声をあげる。
「お互い、個性的な妹を持つと苦労するねえ」
「うるさい。お前のと一緒にするな」
などと話しているうちに、いつの間にか生物室についてしまっていた。
先頭を歩いていた杏と千里は、もう室内に入っているだろう。
ひょっとしたら、すでに籠の中にいるモルモット達に気付いているかもしれない。
「咽。俺様はちょっと先を急ぐ」
こういうのはタイミングが命だ。
この学院で飼育されている動物との初対面。すかさず、飼育委員を交代するというサプライズ人事。
(ククク。さぞかし驚き、喜ぶに違いない。これで貴様は、一瞬のうちに幸福の絶頂に上り詰めてしまうということだ……。ザマアミロ!)
祝福なのか呪いなのかよくわからない妄想を浮かべながら、生物室のドアをくぐる。
しかし、そこには彼が予想もしない光景が広がっていた。
「……なに?」
最初に飛び込んできたのは、ケージに縋りつく千里の巨体だった。
慌てふためき、必死にケージを揺らしていた。顔は血の気が引き、真っ青である。
どう考えても、喜びに震えているようには見えない。
「だれか、先生を──青蓮院先生を呼んできて!」
動揺にざわめく生徒の中でも杏の澄んだ声はよく通った。
ただし、彼女の声にも焦りが滲んでいた。
「嘘……だろ……」
誰にも聞こえない声で、涙は茫然と呟いた。
千里の巨体の隙間から、ぐったりとして動かないモルモット達の姿が見えたのだ。
揃って口から嘔吐しており、ピクリとも動かない。
おそらくは──もう、
「これは、中毒症状だ」
動物の飼育に詳しい千里は、モルモット達の症状をいち早く看破した。
怒りに震える声と共に立ち上がる。
「誰だ!こいつらに毒を食わせたのは!!許せねえ……己がぶっ飛ばしてやる!!」
昨日暴れまわっていた時の比ではない。
目の奥から炎が噴き出ているのではと思わせる迫力であった。
そのあまりの迫力は、悪の組織から不良を守ったヒーローというラベルを貼ってもなお余りあるほど。
周囲の生徒たちが、少しずつ彼から距離を取り始めているのが分かった。
「落ち着いて、千勢君。まだ、誰かがやったと決まったわけじゃ──」
「見ればわかるだろう。籠の中に閉じこまれているこいつらが、自分で毒を食べるわけがない!誰かがやったにきまってるんだ!」
興奮する千里の様子に破局の危機を感じ取ったのは|涙だけではなかったらしい。
杏が必死になだめるが、効果は無いようだった。
──それを見た、涙の決断は迅速だった
「グハハハハハ!まさか本当に死んじまうとはなあ!」
不器用な笑い声をあげ、他の生徒を押しのけながら千里の前に立つ。
懐から取り出した、昨日積んだばかりの百合の花を見せながら、
「昨日、こいつが猛毒だと聞いたもんだから、本当にそうなのか試してみたんだよ」
「……本気で言ってるのか?」
信じられないものを見るような眼で、千里がこちらを見ている。
それは、他のクラスメイトも同じであった。
作戦はうまくいっている。
あとは──
右手に下げたケージの中にいる小柄なモルモットを見せびらかすように掲げ。
「オラ、お前らにも見せてやろうか?こうやって食わせ──」
百合の花を"小柄"に近づけようとしたその刹那。
千里の拳が顔面に炸裂する。
間違っても百合の花がケージに入らないように細心の注意を払いながら床を転がる。
ケージは、タイミングよく放り投げて千里の手元に収まった。
「ウッ……ウウウウウ」
モルモットの亡骸を抱きしめ、号泣する千里。
その姿に、クラスメイト達の彼に対する印象はまたも変わった。
「大丈夫、千勢君?」
クラスメイト達の同情の声が集まる。
かろうじて最後の一匹を守ることはできたが、他はそうはいかなかった。
遺体を優しく抱きかかえ、千里は教室を後にする。
「こいつらは、俺が弔う」
「……俺たちも手伝うよ」
「千勢君、動物がこんなに好きな人だったのね」
生物の授業は中止だ。
肩を落として去っていく千里の周りを、大勢の生徒たちが慰め、ともに歩いていた。
壁まで吹き飛ばされ、床に転がっている涙は、そんな彼の後姿を見送っていた。
(お互い、よかったじゃねえか……)
心の中で、祝福の言葉を千里に送る。
去り際に他の生徒たちが涙に視線を向ける。
揃いも揃って、侮蔑や蔑みの目だ。
「──最低」
「おめえもその花食って死ねよ」
「ゴミ野郎」
日頃慣れ親しんだ言葉を浴びせられながらも、涙は強敵に餞の言葉を送った。
(お互い、よかったじゃねえか。腹の虫さえ活性化してなけりゃ、人間でいられるようだ。もう、力加減を間違えて動物を握りつぶすこともねえだろう)
昨日の戦いを思い出す。
千里があの全力で殴っていたとしたら、涙の命はなかっただろう。
同時に、今の涙が昨日と同じだったら、こうして身動き一つできずに床に転がっていることもなかっただろう。
小動物を繊細な手つきで抱えていく千里の姿を見送って、涙は一人、静かにため息をつくのだった。




