18 激闘
「やめなさい!千勢君!!」
無作為に暴力をふるう千里に、杏は必死に食らいつく。
「そんなことをしても、自分が不幸になるだけよ!誰も喜ばないわ」
「己にとっての幸せなんか、もうこの世にはない!己が自分の手で壊してしまったんだ!!」
振り回す拳の一発一発が人体にとって致命的なものであるのは明らかだった。
生まれついての運動神経と、磨きぬいた度胸と勘でそれらをかわしながら説得を続ける。
「そんなことない!約束したでしょ!あなたの場所は、あたしが作るって!!」
「そんなことが、できるものか!非力なお前に何ができる!!」
振りぬいた左拳を避けると、その奥から純白の透明な竜巻が追いかけてくる。
(透明な尻尾……。金色じゃない……)
見覚えのあるフォルムだが、色が違った。探していた仇への恩讐が、一瞬だけ彼女の判断を鈍らせる。
純白の尻尾が杏の体を撫でていく。
「……!?」
一瞬のうちに脱水症状でも起こしたかのように体がだるく、重くなる。
耐えきれずにその場に膝をつく。狙いすましたかのように、今度は右の拳が襲い掛かる。
(……避け切れない!?)
背筋に寒気が走るが、急な疲労感を訴えた体は言うことを聞きそうにない。
『お前も、不幸になれ……!』
杏の顔ほどの大きさの拳(比喩ではなく、眼前に迫ったときにはそれほどの大きさに見えたのだ)がゆっくりと近づいてくる。
恐怖に目を閉じることすら間に合わないほどの刹那、杏は確かにその声を聴いた。
いつか聞いたことのある、不思議と落ち着く声。
思い出したのは一昨日の出来事。
事故に巻き込まれて曖昧となった記憶の中、彼女を抱きかかえて助けてくれた男のことを思い出す。
ちょうどその時のように、声の主はいつの間にか彼女を抱きかかえてこう言った。
『残念だったな、獅子門杏。貴様の不幸、俺様が頂く』
杏と千里の間に割って入るように飛び込んできた声の主は、当然のように千里の拳に顔面を打ちぬかれた。
「って、アンタが代わりに殴られてどうすんのよ!?」
声の主に抱きかかえられていたため、杏も同時に吹き飛ばされる。おかげで、危機を脱することができたわけだが、声の主はそうはいかないだろう。
「大丈夫!?渡君……」
とっさに、あの時の記憶を頼りに声の主に語り掛ける。
しかし、一昨日とはいくつかの状況が違っていた。
その声の主にも確かに透明な尻尾が生えていた。しかし、あの時とは違って今は深海のように真っ青な色をしている。
そして、吹き飛ばされた衝撃で舞い上がった粉塵が晴れると、声の主の顔が露わとなる。
記憶の中にあったその姿は、確かに渡涙の物だったはずだが、今は違っていた。
「……へ?」
思いもよらぬ歪なフォルム。
彼女を優しく抱きかかえる男性の顔には、”ナミダグマ伯爵”のアップリケが施された腹巻が覆っていた。
アップリケの目の部分にちょうど空いている穴から目が覗いている。”ナミダグマ伯爵”(としか呼びようがなかった)の視線は、すでに千里に向けられている。
杏をその場に下ろすと、「そこで見ていろ」とだけ告げて一気に走り去ってしまう。
風のような速さだ。あまりにも人間離れしていた。
呆気にとられる杏をよそに、“ナミダグマ伯爵”──いや渡涙の内心は暴風雨のように荒れていた。
腹巻を脱ぐと、途端に全身に力が漲るのが分かったが、それとは逆に随分と困った問題が発生したのだ。
一つ目は、とんでもない腹痛に襲われたこと。昔からあった共鳴と同じだったが、痛みの強さが比ではない。そうそう長くは持たないことは明白だった。
もう一つは、ジェーン曰く腹の中にいる”腹の虫”についてだ。一昨日、気を失う前に聞いた声は幻聴ではなかった。
涙の腹の中に住んでいるソイツの声が、先ほどからひっきりなしに頭の中で反響していたのだ。
『だるい~眠い~!せっかく心地よい眠りについておったのに、吾輩を眠りを邪魔するとは何事じゃ~』
「人の腹の中に勝手に住み着きやがったうえに、なんだその態度は!!」
大声で自分のお腹に向かってヤジを飛ばす。お腹の主の声は他人には聞こえないらしく、完全に独り言を言っている可哀そうな人になっていた。
もっとも、可愛いクマのアップリケを顔面に貼り付けているだけでも大分可哀そうではあるのだが……。
『なにかは知らんが、とっとと終わらせんか。吾輩は眠いんじゃ』
「だったら、ちっとは俺様に協力しろ!お前のせいでこんなになっちまったんだぞ」
言いながら、戦いはすでに始まっていた。
千里の動きを封じるために掴みかかろうとしたのだが、そもそもガタイが違いすぎた。羽交い絞めにしようにも手の長さが足りていないし、腕の力はもっと足りていない。
掴んだそばから思いっきり振り払われてしまった。
『なんじゃ、そんな雑魚相手に何を躍起になっておる。あんな下等生物、吾輩が本気を出せば一瞬ぞ?』
「偉そうな口ききやがって。それならとっとと本気を見せやがれ!」
腹の痛みが増すごとに力が湧いてくるのが分かった。
要は、”腹の虫”が活性化すればそれだけ力が増すのだろう。そう踏んで自分のお腹に檄を飛ばしてみたのだが、結果はいまいちだった。
『む~。実に長い月日を寝ておったため、随分と物忘れが激しいな。どうやって能力を開放するのか、ド忘れしたわ』
「つっかえねえ奴!」
自分のお腹に向かって叫んでいたせいで視線がお留守になっていた。死角をついて千里の拳がこめかみにヒットする。
またしても吹き飛ばされるが、先ほどよりも痛みが薄い。
邪魔がいなくなった隙をついて他の暴走族を襲い始める千里。涙は必死に体勢を立て直して追いすがるが、今度は透明な尻尾が彼を包み込む。
「な……!」
全身を虚脱感が覆う。体に力が入らず、バランスを崩す。
他の連中と違ってその場にへたり込むことはなかったが、突出の勢いを随分と削がれる形となった。
『おお、懐かしいのう。他人の幻眩腸を浴びるなど何年振りか。この能力、身に覚えがあるが……』
「体が、動かねえ」
『これしきの能力で何をてこずっておる。この”エニグマ”を腹に宿しておるのだぞ?その気になればこの星すら滅ぼせるというのに』
「何が星を滅ぼす、だ。俺様の体一つ満足に動かせねえくせに」
毒づく涙に、”エニグマ”を名乗る腹の虫は機嫌を損ねた様子。
不機嫌そうな声でこう切り返してくる。
『そんなの、お主が吾輩の力を使いこなせんのが問題じゃろうて。その気になれば、こんな能力たちまち無効化してくれるわ』
「そんなら、さっさと……やれ!」
『ちっと待て。無効化のためには能力の解析が必要なんじゃ。相手に宿っておる菌種さえ分かればすぐなんじゃが……』
そういったっきり黙りこくる”エニグマ”。どうやら寝起きのせいで頭がぼけているらしい。
『うーん。もうちょっとのところまで出かかっとるんじゃが。何だったかのう……?』
「とっとと思いだせえ!」
当てにできない腹の虫を捨て置いて、気力を振り絞って再び駆け出す。
直撃を食らっておいてなんだが、常人があんな拳をまともにくらってはただでは済まない。
「邪魔をするなあ!」
なおも食い下がる涙に、次第にいら立ちを募らせる千里。
そんな彼の姿に、次第に周囲の暴走族たちの反応が変わっていく。
「何だか知らねえが、あの青い尻尾。俺たちを守ろうとしてんのか?」
「なんでもいい。千勢を止めてくれるんなら、なんだって応援するぜ!」
疲労で動けなくなっている彼らは、絞り出すように涙を応援し始めていた。
『なんだか、虫唾が走るのう……』
「そんなことは気にしねえで、てめえはとっとと相手のことを思い出せ!」
暴走族たちの声援を背に受けて、涙はなおも千里に食らいつく。
しかし、不思議と先ほどと比べて体に力が入らない。簡単に振りほどかれてしまう。
「くっそ!さっきの尻尾を食らったわけじゃねえのに、どういうこった」
悪態をつくが、状況は変わらなかった。
相手の不調を察した千里とその腹の虫が向きを変える。どうやら、邪魔者を先に始末することにしたらしい。
「もう、いい。俺に関わるな」
『もういいだろう?同類。何者かは知らんが、これで貴様の我の実力差ははっきりした』
「貴様を倒して、ここにいる全員も始末する。そして、それで終わりだ」
『ずいぶんと脆弱な菌だったな。きっと、明日には存在すら忘れているだろう』
「そうして、己は世界で一番の不幸に落ちるのだ」
『そう、我こそが世界で最強の超菌なのだ!』
その、最後の一言が──
『「なんだと?」』
二人の逆鱗に触れた。
打ち下ろすような渾身の右拳を、やせ細った右腕で軽々と受け止める。
『「なんだと!?」』
先ほどと同じセリフを、今度は相手が同時に発する。声には、驚愕の感情が乗っていたが。
「世界で一番の不幸だと……?」
『世界で最強の菌だと……?』
ゴゴゴゴゴゴと、地響きのような音が鳴る。涙の、いや”エニグマ”の腹鳴だ。
『「身の程を知るがいい……!」』
受け止めた拳を握り返し、そしてはじき返す。千里の体が大きく後退する。
『馬鹿な、この巨体をあんなに軽々と……!?』
激高した二人は同時に叫んだ。
『上には上が……』
「下には下が……」
『「いるってことをなあ!」』
ゴムで弾き飛ばされたように加速する。
実感していた。先ほどと変わって、”エニグマ”と自分の体が驚くほど同調している。腹の痛みは増したが、その分体が軽くなっている。気のせいか、敵の尻尾から受けた虚脱感も軽減しているようだ。
「教えろ、”エニグマ”!お前を活性化させるにはどうすればいい!」
力が回復したが、それでもあの怪力を相手にするにはまだ足りていない。
星すら破壊するという”エニグマ”の本領を引き出すしか、勝機はなかった。
『そんなもん、決まっておるだろう。吾輩の力の糧は……』
帰ってきた答えを聞いて、涙は思わずほくそ笑んだ。
「なんだ、そんな簡単なことでいいのか……!」




