16 決意
──自分の力が憎かった。
持って生まれた強靭な体は、それに不釣り合いな繊細な心の持ち主にとっては呪いに等しい。
彼には、幼い頃から一緒に育った、家族同然のペットがいた。
シベリアンハスキーの、名前は”金剛”。おとなしく、人に良くなついたこともあり、二人は片時も離れずにすくすくと育っていった。
動物が大好きだった千里にとって、”金剛”と過ごす時間こそが最も幸せであり、散歩は欠かせない日課だった。芝生の上でじゃれあうのが、何よりも好きだった。
時が経つにつれて、”金剛”は成犬になった。シベリアンハスキーの中でもサイズの大きかった“金剛”は身長も70cmと、見た目もたくましい立派な犬に育った。
しかし、飼い主である千里の成長はそれに輪をかけてすごかった。
身体も大きく、筋肉もみるみる発達していった。いつの間にか、同年代の子供と遊ぶ機会は減っていく。
子供たちの処世術の一つに”異物は避ける”というものがある。自分たちと違う者がいれば、そしてそれが弱ければいじめとなり、それが強ければ遠巻きに排斥する。
次第に、学校では一人の時間が増えていく。
だが、それでも愛犬との仲は変わることはなかった。一緒に育った、兄弟同然の絆が二人を強く結びつけていたのだ。
ある日、悲劇は起こる。
いつものように芝生でじゃれあっているときだった。
覆いかぶさってくる愛犬を優しく抱き上げようとした時のこと。彼の右腕に鈍い感触が走った。
その時の感触は、今でも彼の脳裏にきつく焼き付いていた。
生き物の骨を握りつぶす感触を──
本人は真綿を触れるようにやさしく触れたつもりだったのに、実際にはそうはならなかった。
愛犬はろっ骨を折って、しばらくの間入院することになった。
退院してみると、愛犬の態度が明らかに変わっていた。
動物の本能だろうか、圧倒的な強者を前に委縮するようになったのだ。以前のように、兄弟のように仲良くじゃれあうことはなくなってしまった。
結局、以前のような仲に戻ることなく、愛犬は寿命を迎えて死んでしまった。
愛犬のお墓には、彼とよく遊んだ草原に咲いていた花を添え、毎日のようにお参りをした。それが、彼の新しい日課になった。
不幸にも亡くなった動物たちの霊廟にも、同じように花を添えた。
死んだ後であれば、もう傷つける必要はないから。と、霊園を頻繁に訪れるようになった。
そんなささやかな日課の傍ら、次第に周囲からは友人が遠ざかり、かわりに血の気の多い連中が寄ってくるようになった。
腕力で彼にかなうものなどいないとわかっているのに、そういう人間を倒すことに躍起になる輩はどこにでもいるらしい。必然的に、人を殴る機会が増えることなった。
望まないケンカを繰り返すうちに、彼の周囲からはもはや誰もいなくなってしまった。
彼は、そのうちに一人でいることを自らに課した。
彼が欲しいものはどんどん遠ざかり、欲しくないものは次から次へとやってくる。
それは、彼にとって地獄だった。
(今もそうだ。こいつらは、俺の力が憎いからこうやって襲ってくる。俺が、こんな力さえ持っていなければ……こんな体に生まれなければ……!)
さっきもそうだ。ひょっとしたら同志になれたかもしれないクラスメイトが、唐突な暴力に晒されてしまった。
千里の目から、一粒の涙が落ちる。
──己は……不幸だ……──
──流れ落ちた涙を、得体の知れない何かが掬い取る。
体の奥底で、鈍い音を立てて何かが胎動する。千里の心にだけ聞こえる、甘くて黒いその声はこう囁いた。
『よかろう。貴様のその不幸、我が喰らってやろう……』
刹那、烈風が原っぱを駆け抜ける。
「な、なんだ……?」
暴走族の一同は、豹変した千里の容貌にしばし度肝を抜かれる。
純白の細長い竜巻が、彼の後背部から突き出ていた。まるで、尻尾のようなうねりで生きているかのようである。
「なんの冗談だよ、そりゃあ──」
異様な雰囲気に飲まれまいと、虚勢を張ろうとしていたリーダーの眼前に不意に現れる千里。
もうすべてがどうでもよくなった。
こんなくだらない連中と一生付き合う羽目になるくらいなら、いっそのこと今この瞬間にすべてを終わらせてしまってもいいのではないか?
『そうだ。思う存分力をふるえ。そして、もっと壊せ』
体の奥から響く声の誘惑も重なって、千里は完全に自分のタガを外した。
後先考えずに放った渾身の一撃は、やすやすとリーダーが乗っていたバイクの心臓部を貫いていた。
炎上するバイクから慌てて逃げだす。リーダーの顔から、完全に戦意と血の気が引いていた。
「ば、化け物……!」
明らかに常識を逸脱したその力に、その場にいた全員が悟った。
今すぐ逃げなければ、殺される、と。
「ひ、ひゃあああああああ!?」
襲い掛かってきた時とはまた別の奇声を発しながら、100人はいたであろう暴走族たちは散り散りに逃げ出す。
しかし──
『愚か者が、逃げられるとでも思ったか?』
千里の白い尻尾が大きくうねる。
突風でも吹いたかのように、その場にいた全員を尻尾が撫でていく。
たったそれだけだった。だが、
「あ、れ……?」
「体が、だるい……」
「動け……ねえ……」
尻尾に触れた全員が、まるで全力疾走した直後のようにその場にへたり込む。
「歯が……溶ける……」
中には、シンナーでも吸い続けたかのように歯がボロボロになるものもいた。
たったひと撫で、白い尻尾に触れただけなのに。
『一匹たりとも逃がすわけがなかろう……のう?』
「そうだな。全員、覚悟しろ」
獣の目をした千里は、猛然と暴走族に襲い掛かった。
悲痛な叫びが響く中、原っぱの隅っこで一人横たわるものがいた。
「なんだ……趣味ってのは飼育と献花ってことだったのかよ。紛らわしい言い方しやがって」
頭を強く打ったせいで体が動かない。それにバイクに引かれたのだ、きっとあちこちの骨も折れているに違いない。
それでも、涙は唾を吐き捨て、悪態をついた。
どういう訳だかわからなかったが、千里の嘆きがまるで自分のことのように理解することができたのだ。
腹巻の中でうめき声を上げる腹の虫が、それを教えたのかもしれない。
(共鳴で、アイツの心が伝わった……?)
理由はよくわからないが、一つ確かなことがあった。
(泣いてやがるな……たった一人で……堪えきれずに……)
凶暴な力をふるう外見とは裏腹に、お腹を通して千里の嘆きが聞こえる。
望まない力をふるって、望まないケンカを続けている。
(不幸な奴が、不幸な力をふるって、不幸な奴を増やし続けてやがる。そうして、自分ももっと不幸になっていくんだ……)
そんなことが許せるはずがない。
千里の声なき叫びに呼応するように、涙の共鳴も力強さを増していく。
苦痛に身をよじりながら、必死の形相で相手を睨む。
(泣いてやがる。一人で、どん底に閉じこもって。どうしようもなくてじっとして、こっちを羨ましそうに見上げてやがる)
涙の怒りが沸点を超える。
どんなに力が強かろうが、関係ない。
自分の目の前で涙を流す不幸なライバルには、いつだって彼はこうやって宣戦布告するのだ。
「冗談じゃねえ。今すぐそこをどけ……。底は俺様の席だ!」




