10 番長
──昼休み
「どうだ、この辺なら邪魔は入らねえぞ?」
こういった決闘には極めてありがちな、体育館裏で二人は対峙していた。
長身の涙と比べても、それに向き合う千里の体格は段違いだった。
(まあ、勝てる気はしねえな)
内心でそう独りごちながら、涙はいつものように猫背に体を丸めて相手を睨み上げる。
勝つ必要はない。負けるということは、自分が相手よりも弱い──つまり不幸であることの証明なのだ。
万が一勝ったとしても、それはそれで構わない。最恐の不良として、学院中から恐れられるのも悪くはない。
(つまり、どう転んでも俺様にとっては分のいい勝負ってことさ)
普通の神経であれば到底理解できない不思議な論法で、涙はこの一騎打ちの趨勢を見極めていた。
しかし、もう一方の偉丈夫の番長からは意外にも落ち着きが感じられない。
キョロキョロと周囲を見渡し、何かを探しているようであった。
「どうした?まさか、この俺様が怖いとでもいうんじゃねえだろうな?」
体重にしてみれば優に倍以上ある相手──つまり、あらゆる格闘技における絶対的かつ圧倒的な不利な条件にもかかわらず、涙のこの発言である。
ひょっとしたら、この余裕に満ちた態度こそが相手の不信を生み出しているのでは?とも思ったがそうではないらしい。
しきりに周囲を見渡し、茂みの中を掻き分けもし、なにやら執拗に匂いを嗅ぎまわり、やがて千里は肩を落とした。
「……ここではない。己の獲物は、ここにはいない」
「んだと?」
眉をひそめる涙。肩透かしを食らったていにはなるが、そんな相手には見向きもせずに千里はその場を後にした。
(自分からケンカを売っておきながら、なんだよこの態度は?)
「ゲフっとして(ひょっとして)、ギャラリーが足りてないってことじゃない?……クハッ」
「ふむ。ああいうタイプは、得てして大勢の前で自分の実力を誇示したがるものかもな」
「どわわっ!?」
突如として背後から、しかも二人も現れたものだから驚きも2倍である。
「どうしてお前らがこんなところに?」
「そんなの、涙が心配だからにかまってるじゃないか~……ボロロロッ」
「このあたりは学院の隅でそもそもトイレがない。加えて背丈のある茂みが多い。おあつらえ向きのシチュエーションだとは思わないか?」
抱きついてくる幼馴染を振りほどきながら、不良女教師から距離をとる。
「そもそも、あいつに気配を悟られずにどうやって隠れてた」
「それがねえ、昨日からやたらと肺活量がついたみたいで。5分くらいは平気で息を止められるようになったんだよ……ゴホゴホ」
「嘘つけ!!たった今、咳き込んだばかりじゃねえか!」
「意外かもしれんが、彼は私たちの存在には気づいていたぞ。だが、気にも留めていない様子だったな。そうだろ、獅子門」
ジェーンは、最後の一人に声をかけた。
体育館の角から、杏がゆっくりと姿を現す。相変わらず、じっとりとした不躾な目線でこちらを睨んでくる。異変を感じた朝と、様子は変わらなかった。
「どうした、獅子門。この俺様がボコボコにされるのを見に来たってのか?」
「そ、そんな訳ないでしょ。委員長として、決闘行為を見過ごすわけにはいかなかったのよ」
口ではそういうが、目はそう語ってはいない。他人の敵意な敏感な涙にはよくわかった。
あれは、疑いと敵意の混ざった目線だ。なぜかは知らないが、いつの間にかずいぶんと嫌われてしまったらしい。
「それはそうと、委員長に頼みたいことがある。放課後、俺様たちが心置きなく"対話"できる場所を用意してくれ。このままじゃ、あの転入生、無言のまま誰とも話す様子がねえぞ」
「……それは、確かにそうね」
涙に向けた敵意も、他の生徒の話題が出てくると不意に霧散する。
クラス全員の幸せを願っている委員長は健在だ。そしてその守備範囲には、当然ながら転校生も含まれる。
「どうやら、あの番長は大勢のギャラリーをお望みのようだ。そこは、うまくやってくれよ」
無言で頷く杏に満足すると、鼻歌交じりで教室に戻っていく。
その後姿を、黙ってにらみ続けている。
「獅子門、今朝も言ったはずだぞ?あいつはそうじゃないってな」
「でも先生。あたしは、あの時確かに見たんです。渡君の腰から生えている、金色に光る透明な尻尾を。見間違えるはずもないんです。あれは確かに──」
「だが、そもそもお前は昨日の記憶があやふやだ。その前後の記憶を、思い出せるか?」
朝と同じ問答を繰り返す。
あやふやな人間の感情と記憶を定着させるには、事実をもとに何度も確認する作業が有効だった。
「なら、お前が見たという黄金の尻尾とやらの記憶も、同じくあてにはならん。違うか?」
「……」
両手をきつく握りしめ、立ち尽くす杏の肩に、やさしく手を置く。
「よく考えろ。もしも違っていたらどうする?勘違いでは済まされんぞ。人を疑うということは、そういうことだ」
「……わかってます」
「昨日も言ったが、お前の仇を探す手伝いは続けるつもりだ。渡がその候補だというのならば、一緒に私が監視してやる。お前がさっき期待したように、いざという時が来ればうっかり尻尾を出すかもしれんからな」
ハッとした表情で顔を見上げる。
「あたしは……そんなつもりじゃ……!」
「わかってるさ。私も少々意地悪が過ぎたな。どうか許せ」
「とにかく、教室に戻るんだな」という声で、その場はお開きとなった。
涙とは対照的に、憔悴したように肩を落として教室に戻っていく彼女の後姿を見送りながら、咽はふとした疑問をつぶやいた。
「先生、どうして本当のことを隠すんですか?……コホ」
「さっき言った通りさ。私自身、確証がない。それに、昨日見たことは当面の間内緒にしようって誓い合ったばかりだ。それをいきなり破るのは、先生どうかと思うぞ」
「それはそうですけど……ゲップ」
「そもそも、怯川。お前も幼馴染が無実の罪で恨まれるのは嫌だろう?」
「ゲッフッフッフ。先生も変なことを言いますね」
咳き込みながら笑うという、それこそ変な芸当を見せながら咽はこう続ける。
「涙が無実の罪で誰かに恨まれるなんて、日常茶飯事じゃないですか……ブロッ」
「そういえば、そうだっけか」
あきれたようにため息をつきながら、ジェーンも保健室に戻ることにした。
咳き込む生徒の背中をどうでもよさそうにさすってやりながら、「さて、帰るか」と促す。
しかし、なぜか生徒はそこから動かなかった。何かを思い出すように、首をひねっている。
「どうした、怯川」
「先生、ちょっといいですか」
そういうと、背中をさする腕にひょいとしがみつく。
学院に500人はいるといわれる、青蓮院ファンクラブの面々が見れば卒倒しそうな光景であったが、見た目が中世的な咽であればかろうじてじゃれあう姉妹のように映ったかもしれない。
いずれにしても、幼馴染以外に対して興味を示さないこの男子生徒がこんなことをするのには意味があるのだろう。
特に引きはがすこともせず、ジェーンはさせるがままに腕を触らせていた。
「どうかしたのか?」
「さっき、涙に抱き着いた時にちょっと違和感が。確か、先生と同じくらい細かったんですよ」
「まあ、あいつもたいがい華奢だからな。それで?」
「いや、気のせいかもしれないけど。思ったよりも太くなってた気がするんです。勘違いかなあ?……カファッ」
抱きついた時の二の腕の感触を思い出しながら、咽は首をかしげるのだった。




