1 最凶最弱の腸をもつ男
この物語の主人公、渡涙について紹介しよう。
年齢は16歳。身長178cm、体重54kg。ガリガリに痩せてはいるが、不思議と肌つやは良い。
ボサボサの黒髪の奥からは、どんよりとした負のオーラ漂う眼光がのぞいていた。
今はバスの最後尾に腰かけ、全身は小刻みに震えている。
そして、まるで時限爆弾でも抱えるように、両手はきつく自分の体を抱きしめていた。
グルルルルルル……
飢えた狼の唸り声のような重低音が、涙の全身を駆け巡る。
音は何度も、執拗に涙を打ち据える。その度に、涙の顔は苦悶にゆがみ、脂汗がしたたり落ちる。
(限界まで、後15分……。いや、このペースだと10分……。クッ、こんな時に限って……)
切羽詰まった状態でも、冷静に自分の限界がいつ訪れるのかは正確に予想できた。生まれてこの方、ずっと付き合ってきた身体のことだ。手に取るようにわかる。
とはいっても、短くも濃密な腹痛との付き合いの歴史は、痛みの受け流し方や限界の到達時刻は教えてくれても、やがてくる破局の時を引き延ばす方法だけは教えてくれないのだが。
涙の視線は、バスの最前列を見据えている。そこには、涙を追い詰める最凶のライバルがいた。
バスに乗って、腹痛が始まったのが9分前。学校まで後2駅。今朝は何も食べていなかったため、このペースであれば学校まで間に合うと踏んだその時だった。
些細なトラブルが起こった。日常によくある、ほんの小さな、たわいもないトラブルだ。
だが、こと涙においてそれは、あまりにも致命的なものとなった。
「ごめんね、ごめんねぇ。確かにここに入れたはずなんだけどねぇ……」
最凶のライバル──困ったように鞄の中を弄る老婆は、必死に運転手に頭を下げる。かれこれ2分は清算機の前で整理券を探していた。
朝の通勤、通学の時間だ。2分といえど馬鹿にはできない。涙以上に切羽詰まった状況にいなかったとしても、他の乗客のいら立ちも次第に大きくなっていく。
(今時整理券なんて使うんじゃねえよ。Suiiicaぐらいもっとけっての)
(整理券なくしたんなら、始発駅からの料金払えばいいのに。そんな大した金額じゃないのにケチケチしちゃって)
声にするでもない、心の声が次第に漏れ聞こえそうな険悪な空気が、徐々にバスの中に漂い始める。
そして、その空気がより一層、老婆の焦りを掻き立てる。そして、同時に涙の腹鳴も勢いを増していく。
「ねえ、まだなの?」
大事な試験でも控えているのか、単語帳を片手に持った女子高生が金切り声を上げる。
「ひっ……!?」「……グアッ!?」
急な大声に、老婆が短い悲鳴を上げた。同時に、なぜか涙も苦悶の声を漏らす。まるで、自分が罵声を浴びせられたかのような苦しみようである。
彼の腹鳴も、より一層強くなる。ひょっとして、隣の乗客に聞こえるのではと思えるほどに。その焦りが、彼の腹痛をより一層激しくするのだった。
痛みと音の両方を抑え込むように、涙はやせ細った全身をより一層かがめた。
「すいませんが、他のお客様も待っていますし……。整理券を忘れたのなら、始発からの料金を払ってくだされば──」
呆れた様子で老婆を見上げる運転手。その言葉を受けて、老婆はぽつりとこう漏らす
「それが、財布を忘れたみたいで……」
((はあ!?))
その場にいた全員が心の中で声を上げる。露骨に舌打ちをするものまで現れてきた。
一気にバスの雰囲気が険悪になる。
同時に、涙の焦りも一気に強くなる。
腹鳴が勢いを増す。当初の予想よりも、破局の時は早く訪れるようだ。
ただでさえ血色の悪い肌は、今は真っ白に血の気が引いている。全身の血液が、腸に集結しているようであった。
「で、どうすんのー?お婆ちゃん」
「私も急いでるんだけどー」
先ほどの告白は、老婆を完全に窮地に追いやった。
整理券をなくした少し間抜けな乗客から、無賃乗車を企てた悪人へと認識がすり替わったのだ。
堰を切ったように、社内のヘイトが高まり、老婆に向かって集中していく。
「やっぱり、忘れてないかもしれないから。もう一度……ちゃんと探すからねえ……」
目に涙を浮かべながら、大した容積もない小さなかばんを床に置く。地面に座って一生懸命に財布を探す老婆を見て、次第に涙の中に怒りが芽生えてくる。
ドゥルルルルルルル……!
同時に、涙のお腹も地響きのような重低音を上げ始める。腹痛も、限界に近づいていた。当初の予定を上回る速度で、彼の腸はうねりを上げ始めたのだ。
なぜ、これほどまでに理不尽な目に合わなければならないのか。涙は自問自答した。
それもこれも、あの老婆のせいだ。
脂汗を滴らせながら、涙は必死の形相で老婆をにらみつける。
必死に激痛を堪えて我慢している自分と、バス中から非難されている老婆が不意に重なったのだ。
(俺と同じくらい……。いや、俺よりも不幸な奴がいる……)
絶望的な状況の中、涙は決断した。
(そんな理不尽を、許せるものか……。身の程をわきまえろ……!教えてやる。世の中、下には下がいるということを……!)
決然とした意志を秘め、敢然と涙は席を立つ。
この状況を打破するには、方法はたった一つしかない。
脳裏にひらめいた完璧なプランを実行すべく、社内に響き渡るような大声で涙はこう叫んだ。
「オラオラ!ドきやがれ!急に腹が痛くなった俺様の前をふさぐんじゃねえよ!!」
罵声だか悲鳴だかよくわからない声を上げながら、最後尾から人込みをかき分ける。そこそこ混雑しているがお構いなし。
「ちょっと!急に押さないでよ!」「ふざけんな!」
満員の中を無理やりかき分けたせいで、乗客のヘイトはさらに高まる。朝の通勤・通学バスは一瞬にして地獄へと変貌した。
そんな周囲の悲鳴をものともせず、涙はゴールに向かって邁進する。
「うるせえ!事態は貴様らの想像をはるかに超えてんだ。貴様らも、俺様にこんなところで漏らされたくなければ協力しろ!」
脅迫だか懇願だかよくわからない声を上げ、涙はバスの入口から外に飛び出した。
「オイ!運賃払って──」
「明日、倍にして払ってやるから覚悟しておけ!」
決め台詞なのか捨て台詞なのかよくわからない声を上げ、全力で最寄りのトイレに向かって駆け出す。
瞬間、横目でバスの中に視線をやる。
乗客も含め、運転手からの嫌悪の視線が自分に向けられているのが分かった。
その中には、あの老婆も混じっていた。(最近の若者は……)と、呆れたような侮蔑の視線である。
それらを受け止めると、涙は痛む腹を抑えながら満足そうに笑った。
(……勝った!俺は、あの老婆よりも不幸であることを証明したのだ……!ざまあみろ!!そもそも、ご老体でありながら俺様に不幸自慢を挑もうなんて十年早いんだよ)
勝利宣言なのか敗北宣言なのかよくわからない所感を胸に、全速力でトイレに向かって駆け出すのだった。
──とうぜんながら、今日も遅刻である──
誰もが経験あると思います。渡くんの場合、ほぼ毎日です。