元教え子
そんな収入なんて期待できない先生業と、雀の涙程の内職を続けていた私の元に、ある日訪問者が現れた。
赤茶の短い髪を掻きながら久々にやって来たのは、私の元教え子だった男。
国の兵になる為の一般的な試験をパスする為、私に教わっていた。
元はスラム街出身の、言わば出世頭だ。
今は兵士になるために国立学院に通っている。
そんな男、ダグリスには、もう一人連れが居た。
「久しぶり、いらっしゃいダグリス。そちらの素敵なおじ様はどちら様かしら?」
いつも飄々としていた彼が、照れ臭そうな顔をしている。その横に、にこやかに笑う翁が居た。
丸眼鏡に豊かな白い髭。ふくよかな身体に、深いグリーンのローブを纏った翁。まるでお伽話に出て来る魔法使いのお爺さんだ。
「…よお、久しぶり。こちらは、」
「よいよ、ダグリス。わしから話そう。可愛らしいお嬢さんに自己紹介くらいさせておくれ。」
ふぉふぉふぉと髭を揺らす翁に苦笑いしたダグリスは、変な人じゃない安心しろ、とばかりの困ったような、けれど翁を完璧に慕っている目を私に向けた。
どうやら、彼が信頼する人物らしい。まあ、じゃなかったらこの場所になんか連れて来ないだろう。私が子供たちに勉強を教えているここに。
私がここに、部外者を連れて来ることを良しとはしていないことは有名だ。子供は別だが。
今は夕方なので子供たちは皆それぞれ帰って行ったり、身寄りの無い子供たちは、リオン兄さんと夕飯の買い出しに行っている。
私はいつものように、次回の授業の準備をして、小屋内を確認していたところだった。
「わしは、カープ・ソルスィエ。ダグリスの…なんじゃろな?」
「………魔法の先生でしょう?」
「おお!そうじゃったそうじゃった!」
大丈夫だろうか、このお爺さん。
私が疑わしげに見ていることに気づいたダグリスが、慌てて私の横に来て右手を胸の前で振る。
しかし左手は口の横に当てて「こう見えても凄い爺さんなんだ」と囁くような声で言った。
どうやら凄いお爺さんらしい。
魔法と言っていたけれど、限られた者にしか使えないのに。先生ということは、ダグリスは才能があったということなのだろうか。
「うむ、“こう見えても”学院で魔法を教えておったのじゃよ。まあ、教えられる毎日じゃったがのう。
今日は急に訪ねてしもうて、すまなかったのう。」
どうやら聞こえていたらしい。
隣で、地獄耳…、とげんなりした声が聞こえた。
「ご丁寧にありがとうございます。どうぞ、こちらにお座り下さい。何のお構いも出来ませんが、お客様を立たせておくわけにはいきません。その上、学院の先生様なら尚更無下には出来ません。」
「そんな気にしないで下されな。わしは只の老いぼれじゃよ。しかし折角のお誘いじゃ、お言葉に甘えようかの。」
白々しさは感じるが、どうもこのお爺さん、ソルスィエさんには嫌な気がしない。
寧ろ逆に、親しみ易さを感じた。
だからかもしれない。
お茶とお茶菓子を出した私は、直球に切り出してしまった。
「で、何故こんなしがない小屋に?」
小首を傾げ微笑みまで浮かべて余裕を装うが、本当はドキドキだった。
何しろ私には後ろめたいことがないと言い切れない。
私が実は転生者であるということを知る人間は居ない。
だからこそ、本当は前世で学んだから教えられることも、捨てられていた本などから独学で身につけたことにして、皆に教えている。
独学じゃ説明がつかないことなんてざらにある。
それでも今まで気付かれなかったのは、多分このスラムで育った人間だからこそだろう。彼らは、何が異常なのか普通を知らないから。スラムで育つ人間が、普通を知ることはあまりない。
もし後でおかしいと気付いても、その頃には私だからという理由で勝手に自己完結するだろうし。
でも、普通の人間は違う。
学校できちんと学んだことのある人間は、独学で教える私の異質さに気付く。
だからと言って、転生者だと気付く人間は居ないだろうけど、少なくとも非凡な人間だとは思われる。
厄介ごとにでも巻き込まれたら冗談じゃない。
「たいしたことではないんじゃ。」
そう、お爺さんは言い置いた。
「ただのう、わしはダグリスに魔法だけでなく他にも必要だと思うものを教えておったんじゃが、彼はとても優秀でのぉ。一体どんな環境で学んだんじゃろうと、気になってしまったんじゃよ。」
「それで連れて来たんだ。…急に悪ぃな。」
本当にね。
皮肉を込めて言ってやろうかと思ったけど止めた。
「…急でも、元気そうな顔が見れたからいいよ。一応心配してたんだからね。」
「ふうん、一応かよ?」
「そう。貴方には十分でしょ?試験受かってから二年も顔見せに来なかったのは誰かしらねー?」
久々に顔が見れて安心したっていうのは本当。
でも挨拶に来なかったのは許せない。
「わっーたよ!俺が悪かった!だからその気色悪い言葉をどうにかしてくれ!」
「気色悪いって何よ!?」
思わずムキになって言い返せば、ダグリスも負けじと不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。
「俺を扱いてた時のお前、鬼のようだったぜ?」
びしりと指差されて、思わず私も立ち上がる。
「あーら、いくら教えても教えても成長しなかった覚えの悪い貴方に言われたくありませーん!」
「っんだとこら」
「文句あるなら言い返してみなさいよ!え?」
「……………ま、まあ、その話は置いといて…」
逃げた。凄くあからさまに逃げたよこの人。
あまりの逃げっぷりに思わず黙ってしまう。もう何も言えない。
ダグリスが音を立てて再び椅子に腰を下ろす。
「俺の話をしに来た訳じゃねえんだよ。話があんのはこの爺。」
「ちょ、爺って…」
「よいのじゃよ、いつものことじゃ。それに本当のことじゃしのう。」
ふぉふぉふぉと機嫌を悪くした風もなく笑うものだから、私が怒る理由もない。
仕方なく椅子に腰を落ち着けて真っ直ぐにお爺さんを見た。
「…話って何でしょうか?」
さっきダグリスは言った。
“話があんのはこの爺”だと。
でも、少し前に私が用向きを尋ねた時、彼は何も言わなかった。
「貴方は、何をしに来たんですか?」
冷たい声音になってしまったのは、自覚していた。
同じように視線も冷たいものになっていると思う。
それでもお爺さんの微笑みは消えることは無かった。
「そうじゃの、すまなかった。悪気はなかったんじゃ。ただ、話を切り出していいものか迷ってしまったんじゃよ。」
少しだけ困ったように眉を垂らす姿を見ていると気が抜けてきてしまうようで、自然と警戒していた気持ちも緩む。
少し過敏になっていたかもしれない。私が転生者であるだなんて非現実的なこと、誰が考え付くのだろうか?その上目に見えないわけだから、気付く人間がいる筈ない。
「いえ、私も何だか気が立っていて……すみません。」
申し訳なく感じて謝れば、お爺さんはまたあの微笑みを浮かべてくれた。
「いやいや、気にしないでくれると嬉しいのう。あとそのついでと言ってはなんだが、わしの話を聞いてくれるだけでよいのじゃ…聞いてくれるかのう?」
私は、こくりと頷いて見せた。
そして、一切口を挟まないでいるダグリスが気になって一瞬視線を向ければ、彼は瞼を軽く伏せていて、見たこともないくらい大人しい様子に少し驚く。
「実はのう、話というのは」
お爺さんの声に、直ぐに視線を戻す。
視界の端に、ダグリスが瞼を上げたのが見えた。
「是非君を、国立学院に迎え入れたいと思っておるんじゃよ。」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
呆然として動かない私に、お爺さんは続ける。
「ダグリスからの話では、君は専門の教育を受けていないと聞いてのう。君程の才能ある若者を、このまま放って置きたくはないと思ったんじゃ。それで彼に頼んで、連れて来て貰ったんじゃよ。」
ぺらぺらと喋られた言葉に付いて行けない。
「俺が言い出したことでもあるんだ。」
突然口を挟んだダグリスに、ついと視線を向ける。
真剣な顔をした彼の姿に動揺している自分がいた。
「お前が才能あることくらい俺だって分かる。ここで俺らを相手にしてくれることだって助かってるさ。でも、それでいいのかってずっと思ってた。」
痛いくらいに彼の気持ちが伝わる。
ダグリスは、本当に私を惜しんでくれているんだ。
でも。
小屋の外から騒がしい声が聞こえた。楽しそうな笑い声や呆れたような声。
きっと兄さんたちが帰って来たのだろう。
案の定、直ぐにドアは開かれた。
「たっだいまー!」
「お断りします。」
軽快な声を背にした私を、ダグリスが目を見開き見詰める。
しかしソリスィエさんは私の答えを予想していたのか、動じる風もない。
「私は学院で学ぶつもりはありません。」
わいわいと帰って来た兄さんたちが私たちの様子に気付き、無言で子供たちを静かにさせる。
文句を言おうとした子供たちも、リオン兄さんに連れられて再び外に出た。
残ったルー兄さんの気配が私の後ろに立つ。
「初めまして、イストの兄のルーと申します。…妹に何か?」
穏やかな声に聞こえるけれど、どこか威圧感を感じる声で言うルー兄さんに、ダグリスが我に返る。
「おい聞けよルー!!こいつ拒否りやがった!拒否りやがったんだよ!!!」
「…あー、ダグリス。久しぶりだね。…で、何を?」
必死な怒りの形相のダグリスに引きつつ、私は縋るような目をルー兄さんに向ける。
ここで兄を味方につけなければ負ける。そう思った。
「何をって、学院への入学をだよ!!こいつ折角の機会を足蹴にしやがった!!」
理解出来ないと喚くダグリスからルー兄さんの目が私に移る。
本当かい?と尋ねる視線に、私は大丈夫という意味を込めて微笑んだ。
「有難い申し出ですが、正直な話、興味ないんです。」
もう既に通い終わった場所で、また一から同じことを学ぶだなんてことする時間があるなら、私はここで子供たちに教鞭を振るいたい。
“今は”学院に通ったこともないスラムの子供だし、今更通っても馴染める気もしないし。
「ここで子供たちに教えているだけで、十分勉強になりますし、現実的に申し出を受けることは出来ません。」
「金銭面なら奨学生としてこちらが面倒を見ることも出来るんじゃが…どうやらそこを気にしているようじゃないのう、君は。」
ソリスィエさんは、では、と思わぬことを申し出て来た。
「わしは教師を引退した身でのう。もう学院で教鞭を振るうことは出来ないんじゃが、もし良かったらここでわしも子供たちの教師をしてもよいかのう?」
「ソリスィエさんが、ですか?」
「うむ。」
ダグリスが、ぎょっと隣のソリスィエさんを見る。
その顔は、有り得ないとばかりに青くなっている。
そりゃそうだろう。あの名高い学院で教師をしていた男が、こんな小汚い場所で教師をするだなんて。
ルー兄さんも、理解出来ないとでもいうように眉を顰める。
「いや、何、諦めの悪い老人と思ってくれて構わんよ。」
「いえ、別にそんなことは…」
「わしはのう、君に何かを感じるんじゃ。」
あまりに真剣な瞳に、どきりとする。
じわりと冷や汗が出そうになったが、ポーカーフェイスを保とうと微笑む。
「有難いですが、気のせいでは?」
「うむ…そうかもしれんし、そうじゃないかもしれん。」
どっちだ。
私とルー兄さんとダグリスの心が一致した。
「でもわしは、君には何かを感じるんじゃよ。何かも分からないがのう。ふぉふぉふぉ。」
ダグリスがもう死にそうな顔をしている。
付いていけないとばかりに顔を手で覆った姿は、ここで教えていた時では見れなかったものだから、とても面白い。
その後も微笑みつつの攻防の後、ソリスィエさんとダグリスは帰って行った。
いや、こう言ったら語弊がある。
帰って行ったのはソリスィエさんだけで、ダグリスは後から付いて出て行ったルー兄さんに首根っこ掴まれてどこかへ消えてしまったのだった。
今頃ダグリスがどんなことになっているのかは、意識的に考えないようにするとして、私は外で待ってくれているだろうリオン兄さんたちを呼び戻す為に出口へ向かった。
あの日から、週に三回程ソルスィエさん改め、カープ先生はここへ来て子供たちに色々なことを教えてくれる。
その殆どが子供たちにも分かるようにされた諺や古事など為になるものばかりで、正直私も教えて貰うこともあった。
自分の学力を過信するつもりは無かったけれど、やはり学問を究めた本物の教師には敵わないと少し悔しくも感じたけれど、それも仕方ないこと。そう諦めるしかないと思う。
私は淹れた紅茶(出涸らしだったりする)をカープ先生の前へ置いた。
「お疲れ様です。」
「おお、すまないのう!授業後のコレが楽しみなんじゃよ。」
「あら、お上手ですね。」
カープ先生が本当に美味しそうに飲んでくれるので、ちょっとそれを嬉しく思いつつも、そんな素振りは見せないように自分の分の紅茶を口に含む。
「しかし、ダグリスの奴はこんなに可愛いイスト嬢と美味しい紅茶に可愛い生徒たちと共に学んでおったのじゃなぁ。羨ましいのう。」
「本当にお上手ですねぇ。それに先生はあの学院で教鞭を振るってらっしゃったじゃないですか。それこそ可愛い生徒も、賢い生徒も誰でも揃ってたんじゃないですか?」
「ふむ、まあその通りじゃが……皆が皆そうじゃったらいいんじゃがのう…」
先生が、ふうと嘆息して紅茶をもう一度飲む。そして私を見た。
「イストは知っておるかは分からんが、学院は夢溢れるだけの場所ではないんじゃよ。」
そう言った先生の目は、とても悲しそうな色を湛えている。
理想と現実の違いなんてどこにでもある。
現に私が今住んでいる場所もそうだ。
私がまだ貴族の娘だった頃、こんな場所が国に存在するとは思わなかった。
何よりあの殿下たちが政治を動かしていたのだ。賢君と王宮で謳われた陛下と、そのご子息であらせられる優しい殿下が。
そしてあんなに国に身を捧げていた父の姿を知っている。
だからこそ、こんな貧富の差があるとは思ってもみなかった。
けれどどうだろう。
実際に生まれ変わる前に、旅した時だってそうだ。
身寄りのない浮浪児、死んだような目で生きる労働階級の人間、道端で倒れる妊婦…。
薄汚れた裏道を見ようともしない一般階級以上の人間。
旅の中で私が出来たことは、屋敷を出る時にこっそりと渡されていた装飾品等を渡すことしか出来なかった。
それをルグレが、どこか諦めた目で見ていたのも分かる。
一時の施しでは、根本的な解決にはならない。
でも、それをどうにかする力なんてない只の娘となった前世の私は、無力に泣いたこともある。
転生した今だってそうだ。
この小屋で面倒を見れるのだって、全員が全員じゃない。
酷い扱いを受けながらも必死に生きている子供だっている。
兄二人に恵まれた私は、本当に幸せ者なのだ。
だからこそ心配している。
ダグリスのことは。
「…ダグリスは、学院でどんな様子ですか?」
ダグリスは強い。伊達に今までここで生きているわけじゃない。
体は勿論、精神的にも彼は打たれ強い。
「ちゃんと勉強してますか?サボったりしてませんか?馬鹿だから、怪我とかしてませんか?」
口から出るのは、こんな言葉ばかり。意識的に笑いながら言う。
わかっているんだ。学院でどんな様子なのかは。
人は、そんなに良い人だけじゃない。
そして、どんな人だって完全無敵なわけじゃない。
強い人、なんてものいないんだ。
カープ先生を見遣れば、そこには静かに瞼を伏せる彼がいた。
口元の髭が震える。
「…不甲斐ないが、学院でのダグリスの待遇は良いものでもないのじゃ。」
カープ先生は、憂いの目を覗かせ窓の外を見る。
「それでもわしが学院に居った頃はどうにか助けになることも出来た…じゃが、今となってはどうなっているかも分からん。」
「……先生は、何故学院をお辞めに?」
数瞬、先生の動きが止まったように見えた。
「…わしも歳じゃからのう。授業に支障が出てもいかんと思って辞めたんじゃよ。」
窓の外を見るカープ先生の瞳が揺れている。それを見て、私は思う。
きっと先生は、嘘を吐いている、と。
でも、それを指摘する程私は勇気のある人間じゃない。
それにカープ先生本人が話したくないことだからこそ、嘘を吐いたんだろう。
だから話を進めることにした。
「じゃあ今学院でダグリスは…」
「…大変由々しきことじゃが、きっと辛い目にも遭っておるじゃろうて。」
そう肩を落とす先生は、数歳老けて見えた。
「じゃからこそ、ダグリスから今回のことを頼まれた時は嬉しかった…。今わしにできることはこういうことしかないからのう。」
ぎくり、とする。今回のことなんて口にするまでもない。間違いなく私のことだろう。
嫌味のつもりのないのだろう、カープ先生は続ける。
「きっと辛い環境の中、素直に助けを求めることも出来ず、それでも救いを求め信頼する君の件をわしに話して来たんじゃろうて。」
言われた内容に、胸が痛んだ。
ダグリスが天邪鬼なのは知っている。伊達に付き合ってきたわけじゃない。
彼が決して弱い人間じゃないことも知っている。
でもその彼が、素直でないとしても、私を頼って来た…。
「…じゃが、わしは知っておる。」
声音が優しくなって、思わずカープ先生を見る。
彼は優しく微笑んで私を見ていた。
「ダグリスは、弱い子ではない。打たれ強いし、何より根性もある男じゃ。」
覚えず私は頷いていた。
そうだ、彼は私の助けなんかなくてもやっていける。
何より私が助けになるかも分からない。
「わしは信じておるよ。きっと大丈夫じゃ。」
しかと頷いたカープ先生を見て、安堵のため息を吐く。
そうだ、大丈夫。彼はそう易々と負ける男じゃない。
学院にいる甘ったれな人間に、へこたれる筈がない。
私はそう自分に言い聞かせた。
「ですね、私もそう思います。ダグリスなら」
きっと、大丈夫ですよね―――。
私も、ふわりと微笑んだ。