社会見学
あの後、兄二人は結局帰って来なかった。
怒り冷めやらぬ私に、ガイさんは言った。
「じゃ、三日程、坊ちゃんのことお願いしましたよ?社会勉強とかさせてあげてください」と。
結果、クリフくんのお世話をしていたりする。
とりあえず一晩寝てスッキリした私は、台所(とは名ばかりだが)を前にして唸っていた。朝食の献立に悩んでいたりする。
「…普通に考えて、クリフくんの舌には合わないよね。」
硬いパンと薄味の豆スープの朝食は、私たちにしたら普通だけど、王宮で育った彼には辛い筈だ。
だからといって、高級な朝食を用意出来る訳でもないけれど。
うんうん唸っていれば、背後で物音がした。振り返った先には、眠気眼を擦りながら歩くクリフくんの姿が。
もう潔く諦めよう。
ポジティブに考えれば、こんなの食べる機会なんか彼はもう一生ないわけだから、貴重な体験だと思う。…うん。
だから私は、笑顔で挨拶をした。
「おはよう、クリフくん。」
「…うむ。」
ちょっと驚いたらしく目を軽く見開いたクリフくんは、照れたように頬を赤くして俯いた。
か、可愛い。
「ち、朝食こんなのしか用意出来なかったんだけど、ごめんね?」
「き、気にしないでくれ。世話になっているのは、こちらだ…」
ちょっと意外だった。
態度や口振りから上に立つ者らしくしていたから、こういうのは当たり前に思っているのかと思っていたんだけど。
どうやら、お坊ちゃまってだけじゃないみたいだ。
流石二人の子供!となんだか嬉しくなって、一層クリフくんが可愛く見えてくる。
考えてみれば、体はともかく精神年齢的にはもう子供がいてもおかしくないんだ私。
なんだか感慨深くなる。
「じゃ、食べようか。」
「う、うむ。」
おや、と目を瞬く。
さっきからクリフくんがしおらしいというか、…ずっと照れてる?
「…クリフくん?」
「な、なんでもないぞっ!別にこんな風に人に接されるのが初めてなんてっ………うっ」
「ふうーん、そっかあ」
ニヤニヤする頬を抑えられない。
なんて可愛いこと言ってくれるんだ、もう!
「…イストは意地が悪い。」
ムスッとした顔で睨んで来るけど、全然怖くない。むしろ可愛くて仕方なくて、益々口許がだらし無く緩む。
こういう可愛い可愛いという態度を取られたことがないのか、またクリフくんの頬が赤く染まる。可愛いなあもう。
「それで、今日はどうするのだ?」
「うーん…、とりあえず、私がやってる勉強会に参加して貰おうかと。」
クリフくんが、目を丸くした。
「イストは先生なのか?」
「まあ、一応。」
「す、凄いではないか!そんな若さで教師など!」
目を輝かせるクリフくんには悪いけど、そんな大層なものじゃない。きっと彼が考えているのは、学院の教師や家庭教師なんだろう。
「まあ、クリフくんからしたら多分つまらない授業になっちゃうかもしれないんだけどね。」
苦笑した私を見て、クリフくんが首を傾げる。
「何故だ?」
「だって、私が皆に教えてるのは、文字の読み書きや簡単な計算とか歴史なの。クリフくんは、小さな頃からそういうのは教えられて来たでしょう?」
上流階級の子供は、幼い頃から家庭教師をつけているのが普通だ。
王子なクリフくんなんかは余計だろう。きっと国で最高峰の教師たちが集められた筈。
「うむ、確かに…。だが、大勢の中で学ぶのは初めてだ。」
「あ、そっか、確か…」
「王族は、十三からだ。だから、わたしはまだ通えない。」
学院は、幼等部、中等部、高等部、大学部と四つ存在している。
幼等部、中等部から通っている生徒は大半が上流階級の出であり、大学部まで通う人間も同様に上流階級の者が多い。後者には、才能で残る人間もいるけれど。
そして、昔からの慣わしとして、王族が学院に入学出来るのは中等部から、というのがあった。
理由は知らない。けれど随分前からそういう決まりで、前世でも、殿下だけ中等部からの入学だった。
「そっか、だよね。まあ、学院の授業には劣るだろうけど、楽しんでくれたら嬉しいな。」
そっと頭を撫でれば、頬を赤く染めてクリフくんは頷いた。
朝食を過ぎて暫くした頃、授業が始まる。
集まる子供たちは決して多くは無いし、毎回来れる子供なんて少ない。
仕事をしていたり、親を手伝っていたりと色々と事情があるから、毎回毎回顔ぶれは変わる。どうやら子供たちの間で決まっているらしく、ローテーションを上手くしているらしい。
がやがやと騒ぐ子供たちの前に立ち、横に立つクリフくんの肩に手を置く。
皆、クリフくんを興味深そうに好奇心旺盛な顔で見ていた。
「ちょっと注目!今日と明日だけここのお友達になる、クリフくんです!皆仲良くしてね!」
こんなに多くの子供たちに注目されることに慣れていないのか、クリフくんの表情は強張っていたが、それでも馴染もうとしようとしていることは、その紅潮した頬を見れば分かる。
「よ、よろしくたのむ。」
どもりつつも挨拶をしたクリフくんに、子供たちも口々によろしくと声を上げる。
ここにいる子供たちは年齢も何もかもバラバラだけれど、皆根のいい子ばかりなのできっと大丈夫だろう。
子供たちの方へ行くよう促すように、クリフくんの背を軽く押す。
恐る恐る一歩を踏み出した彼を真っ先に迎え入れたのは、この子供たちの中で最年長の十五歳であり、どうやら餓鬼大将らしいジョーンだった。
くすんだ短い金髪のジョーンは、兄貴分らしく笑顔でクリフくんの頭を乱暴に撫で、それに撫でられることに慣れていない彼は耳を真っ赤にして固まっている。
「俺はジョーンっていうんだ。分からないことは何でも聞けよ。こっちは、マイクで、あれが…」
子供たちの輪の中、次々と仲間たちを紹介するジョーンの言葉に、一生懸命耳を傾ける姿に微笑む。
どうやら仲良くやってくれそうだ。世話好きなジョーンに任せれば安心だろう。
王族の扱いとしては駄目だろうし不敬罪となるが、ここにいるのは唯の少年ということになっている。そう接し、扱うように昨日クリフくん自身と約束した。
一通り子供たちの間の交流が終わるのを待ってから、パンパンと小気味いい音で手を叩く。
一瞬で子供たちの視線が集まる。そんなことにももう慣れた。
ちょっと落ち着く為に、一度唾を飲み込む。ちょっと喉が痛んだ気がした。
きっと水分不足だろう。授業始める前に何か飲んでおけばよかったと後悔したけど、それも仕方ない。
「さてさて、授業始めるよ。」
にっこり笑顔で宣言した私に、子供たちはいい子なお返事をしてくれた。
小さくクリフくんも声を出していたのに気付いたことは、黙っておこうと思う。
授業と言っても、皆年齢もここに来ている回数だって違う。ということは、教えたこともバラバラだけれど、ある程度はグループ別けできていて、下は文字の読み書きから、上は算術やら歴史やらと幅広い。
なので、何個か縦に並べられた長机にそのレベル毎に子供たちを別けてある。
クリフくんは当然の如く上の方の子供たちに混ぜようと考えていたが、本人の希望で、下から順に体験させることとなった。
紙も鉛筆も貴重な物なので、真っ白ではない何かのチラシ等の裏面を皆に配る。
特に文字の読み書きを学ぶ子供たちには必要な物だ。
そういう子供たちは、一番後ろの机に座っていて、分からないことは前に座る一個上のことを学んでいる子供たちに聞けるようにしている。
先生が一人の状況で、どこか一つの場所に留まり続けることが出来なくなるくらい数が増えた今は、そういうシステムを利用している。
まあ、その度に勉強がストップさせられる子供がいるわけだけど、皆経験者なので文句は無いらしい。寧ろ率先して後ろを向く子供も多いくらいだ。
そしてそういう光景は、前の机になる程見えなくなる傾向にある。
その頃になると、皆自分で考えて解決することが出来るようになるからだ。
勿論定期的に課題を出したり、教えて回るけれど。
しかし子供同士だ。いくらやる気があるとはいえ、ふざけ出し始める子供たちも出てくる。
それを叱るのは決まって年長者で、そうやって子供たちの協力もあり、この勉強会は成り立っている。
「イストねーちゃん!これ分かんない!」
呼ばれた方を見れば、一番後ろの方で手を上げる子供がいた。
はいはい、と返事をし向かおうとした先で、クリフくんが動いた。
手を上げた子供の手元を覗き込み、何やら二人で話し始める。やがて、手を上げた少年がパッと顔を輝かせ、再び紙面に視線を落とした。
丁度顔を上げたクリフくんと、ばっちり視線が合う。彼は、微笑んで一度頷いた。
任せろ、ということらしい。
「(…やるなあ)」
何だか助手が出来たみたいで、ちょっと嬉しいかもしれない。
その日の午前の勉強会は、彼のお陰で随分と助かった。
「やるなあ、クリフ!お前、頭いいんだな!」
偶然横に座っていた少年、確かマイクと言ったか、の言葉に、この辺一帯にいた皆が頷いた。
皆、わたしが勉強を見た子供たちだった。
純真な瞳で見詰められ、こそばゆい気持ちになる。そんな自分を悟られたくなくて口を引き結ぶ。
午前の回が終わり、午後の回も参加出来る子供たちだけが今ここに残っていた。
休憩時間にもなっているので、皆で小屋の外の木の下に集まっている。
その中心部に座らされたわたしを、皆が囲む。それも慣れないことで、少し戸惑いを覚えた。
「お前なら、ダグリス兄みたいに学院に入れるかもな!」
「クリフならきっと大丈夫よ!」
そうだそうだ、と皆が口々に褒めそやすものだから、何も言えない。
確かに学院に入るのに見合うだけの学力は有していると思う。その為に頑張って来たのだし。
それと同時に思う。ここでは、それが当然ではないということを。
王族は勿論、貴族の子供たちは当然の流れとして学院へと入学することが多い。
勿論実力を有しているというのもあるけれど、コネや裏金が横行していることも否めない。滅多にないことだが、過去にそういう風に入学した王族もいるらしい。
上流階級の者はそうだが、それ以外の人間には狭き門となっている学院。それに入学することがどれ程大変なのかは、ここに来て実感した。
名前の出たダグリスという者も、きっと必死に勉強したのだろう。
「二日なんて言わないで、ずっといろよ!」
無邪気な声が嬉しかった。
自分をこんな風に受け入れてくれる場所なんて、今まで無かったから。
城は、冷たくて、嘘だらけだった。なのにここは、こんなにも温かい。
学校というのは、こういう所なのだろうか?
「ばかねぇ、クリフにも事情があるのよきっと。」
「サラの言う通りだ。無理言うんじゃねえよ。困るのはクリフなんだぞ。」
年長組の言葉に、皆一様に顔色を曇らせた。
そして先程声を上げた少年が、きゅっとわたしの服の袖を掴む。
「ごめん、考え足らずだった。」
「気にしないでくれ。…それに、嬉しかった。」
少年の肩に手を置いて、微笑む。
それに謝るべきは己かもしれない。わたしは、特権階級のものは何の努力もなしに学院へと通う。当たり前だとばかりに思っていた自分が、恥ずかしい。
そんな空気を吹き飛ばすかのように、少女が一歩前に出て笑った。
「でもこの二日間は、私たちの仲間よね!」
「だな!この辺案内してやるよ!」
それに周りも同調し、ぎゃいぎゃいと騒ぐ。
言われたわたしは、やはりこういうことに慣れていないので素直に騒ぐことは出来なかったが、自然と頬が緩んでいた。
「じゃあ、午後の授業までに案内出来る奴だけ、この辺案内してやろうぜ?」
確か、ディーという名前だったか。
わたしよりも二、三個年下だろう少年の提案に、皆が頷いた。
戸惑ったのは私だ。
スラムという場所は危ない場所だと聞かされて来たし、現にガイにもイストから離れるなと言われていた。
「…その、わたしたちだけでは危なくはないか?」
わたしの疑問に、子供たちは笑った。
気にするなとでもいうように。
「大丈夫だよ、ちゃんと道を選べばさ!それに前に比べて、この辺安全になったし。」
「下手なことしたら、組織の奴らにやられちゃうもんな。」
「組織?」
首を傾げたわたしに、ディーは得意げな顔で説明してくれた。
どうやらこのスラムを裏から支配している組織らしい。何となく悪者のイメージを与えるが、実際はこのスラムの秩序を守っているらしく、恐ろしくも頼もしい機関なのだそうだ。
「じゃ、早速行こうぜ?時間なくなっちまう。」
「行きましょう、クリフ。」
ほら、と手を差し出され、それと自分の手を見比べる。
少女の手は城の誰とも違っていた。けれど、どこかマーサと同じ、温かそうな手。
わたしは、覚えず笑顔でその手を取った。
「うむ、行こう!」
こんなにも弾む気持ちになったのは、初めてのことだった。