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【第9話】一曲お願いします



 放課後。私は高木さんたちと少し話をしてから学校を後にしていた。「今日も部活行かないの?」と訊かれたものの、「ちょっと用事があって」と、曖昧な理由で何とか押し通した形だ。


 たぶん、いつまでもこの理由は通用しないだろう。私は一刻も早く、元に奇跡が起こることを、ろくに信じていなかった神様に願ったりもしていた。


 久しぶりに自分の通学路を帰る。私と速水さんは、家が学校を挟んで反対方向にあるから、歩く道、目に映るものすべてをたった三日しか経っていないのに、私は懐かしく感じた。速水さんの身体で、速水さんの家じゃない方向に向かっていることは奇妙な感覚もしたけれど、耐えきれないほどではなかった。


 交差点の角を曲がると、二軒向こうに外崎家が住んでいる五階建てのマンションが見えてくる。築二〇年の古くも新しくもない建物だ。


 五階にある私たちの部屋へと、私はエレベーターに乗って向かう。エレベーターに乗っている間の今まで何の意識もしていなかった時間は、意識し始めると途端に長く、私はソワソワしてしまう。他の人の部屋に初めて行くかのようなドキドキを、私は感じていた。


 外崎家が住む五〇一号室は、エレベーターを降りてすぐ左にあった。見すぎていて何も思わなくなっていた鉄製のドアが、今は見知らぬ世界の入り口のように思われて、インターフォンを押すのにも勇気が要る。


 少し呼吸を整えてから思い切って押すと、すぐに速水さんがやってきてドアを開けてくれた。


 私の家に私がいて、それを私は速水さんの目を通して、客観的に見ている。想像できたはずの現象は、やはり目の当たりにすると奇怪で、私は頭がくらくらするようだった。


 速水さんはもう着替えて、かつて私が着ていたスウェットを着ている。それが私には映画館でスクリーンを眺めているかのように、現実味が薄く見えた。


「お、おじゃまします……」


「何言ってんの。自分の家でしょ。ただいまでいいんじゃない?」


「う、うん。じゃあ、ただいま……」


 私は三日ぶりに自分の家に上がる。廊下の先にあるリビングは、一部分しか垣間見えなかったけれど、入れ替わる前と何一つ変わっていなくて、私の心をわずかに落ち着けた。廊下の左側にはお風呂とトイレが、そして右側には私の部屋と、両親の寝室がある。


 私たちは手前側のドアを開けて、私の部屋に入った。私の部屋も大まかには変わっていなかったものの、小物の置き場所がちょくちょく記憶とは違っていて、些細なことだけれど、私は違和感を覚えずにはいられない。自分の部屋をそっくりそのまま再現したセットの中に入りこんだような。そんな不思議とも微妙とも似つかない感覚があった。


 私は一つしかないクッションに座る。でも、速水さんは立ったまま座った私を見下ろしていた。


「どうしたの? 速水さん、座んないの? っていっても座れる場所、ベッドしかないけど」


 私がそう訊くと、速水さんは得意げな笑みを浮かべた。その表情に、私は何か裏を感じてしまう。


 そんな私の予感通りに、速水さんはギタースタンドにかけられた私のアコースティックギターを手に取った。両手で大事そうに持って、私に差し出す。


「では、外崎さん。まずは一曲お願いします」


 想像もしなかった速水さんの言動に、私は「えっ」と固まってしまう。きっと場を和ませるためのジョークだろう。だとしたら、ツッコまなければならない。


「いや、作戦会議は? しなくていいの?」


「それももちろんするけど、まずは一曲歌ってからにしようよ。私、外崎さんの歌聴きたいなー」


 速水さんは、せがむような目で私を見ている。


 でも、私はすぐには頷けなかった。ただでさえ人前では歌いたくないのに、そんな唐突に言われたらなおさらだ。


「いや、いいよ。恥ずかしい。私本当歌うまくないよ?」


「そうかな。昨日、YouTubeで外崎さんの歌聴いたけど、あたしはそんなに下手には感じなかったけど」


 自分でも分かる。私は顔を赤くしていた。YouTubeを見たなんて、それこそ初めて人から言われた。


「えっ、速水さん、私のYouTube見たの?」


「うん。曲名で検索したら出てきたよ。とりあえず何曲か聴いてみたけど、音質はともかく、曲や歌自体は少しも変に感じなかったけどなぁ」


 速水さんは特段変わった様子を見せずに言っていたけれど、私は強い羞恥に苛まれる。


 YouTubeに動画をアップするということは、全世界に向けて発信しているということなのに、たった一人聴いている人が現れただけで、穴があったら入りたいくらいの気持ちになってしまう。


「あたしは外崎さんの歌を知ってるし、外崎さんがどう思ってるにせよ、あたしは下手だとは思ってないから。だから、歌ってくれると嬉しいなって。もちろんワンコーラスだけでいいから」


 私だって分かっている。ここでこのギターを受け取らなければ、速水さんとの話は一向に進まない。日曜に向けての作戦会議もできないだろう。


 でも、私を動かしたのはそんなネガティブな理由だけではなかった。


 今ここで私の歌を聴きたいと思っている速水さんに応えたい。そう感じられるくらいには、この状況になって、私は速水さんに心を許しつつあった。


「じゃ、じゃあ、一曲だけね」


 私はギターを受け取る。手に感じる重みに、久しぶりという思いが去来する。


 ストラップを肩にかけて、本棚の上にあるチューナーを手に取って、ギターのチューニングを始める。どうせなら、せめてギターだけでも正確な音程でやりたかった。


 ベッドに座ってギターのチューニングを始める私を、速水さんはクッションに座りながら、期待するような眼差しを向けている。私そのものな視線に、私はまだ小恥ずかしい思いを拭いきれない。心臓もより高鳴っている。


 確かな緊張を感じながら、私はどの曲を歌おうか思いを巡らす。


 そもそも今、私は速水さんの身体だ。もちろんコードは頭に入っているけれど、速水さんの指が思った通りに動いてくれる保証はない。そう考えると、演奏できる曲は自ずと限られてくる。


 チューニングをしながら少し考えた結果、私は三つのシンプルなコードで構成された、私の曲の中でも一番簡単な曲を演奏することにした。


 チューナーを外す。再び速水さんと向き合うと、こちらを見上げる視線に緊張は大いに高まったけれど、どのみち今は私にできることをするだけだった。


「じゃあ、いくね」


 そう言った私に速水さんも頷いたのを確認してから、私は一呼吸置いてギターを弾き始めた。最初の一音だけで、私の胸には懐かしさが充満する。


 ただでさえ速水さんの身体だから、頭では分かっていても、指は一〇〇パーセント完璧にはついてきてくれない。でも、曲のテンポを落として慎重にやれば、なんとかごまかせる程度ではあったから、私は逸る気持ちを抑えて、ゆっくりとした演奏を心掛けた。


 ちゃんとコードを抑えられているか確認するために、視線は自然と下を向いてしまう。それでも、速水さんの注目する視線はひしひしと感じて、平常心でいることは難しかった。


 両親の前で演奏するのとはまた違った改まった雰囲気が、私の部屋には流れていた。


 簡単な前奏を終えたところで、私は意を決して歌いだす。視線は下げても顔自体は下げずに、歌がまっすぐ速水さんの元に届くことを意識した。


 速水さんのものである歌声は、話している声よりもどこか落ち着いた印象があって、伸びやかで、かつ透き通っていた。つまり元の私のとは比べ物にならないくらい、いい歌声だった。これも速水さんが、生まれつき持っていたものなのだろうか。


 でも、いくらいい歌声だとしても、自分のものではない声が口から出ている違和感は、やはり拭いきれない。声も小さくなりそうだったけれど、私はなんとか堪えて、速水さんが耳を立てなくてもいい程度の声量で歌い続けた。


 時折視線を上げると、じっと聴きいっている速水さんが目に入る。柔らかな表情に、悪感情を抱いている様子は見られなかった。


 ギターを弾いて歌っていくうちに、私は徐々に三日前までの感覚を思い出していく。いや、今は速水さんの身体なのだから、新たに獲得していると言った方が正しいのかもしれない。


 当然緊張の方が割合としては高いものの、それでも私の心には、ギターを弾きながら歌う楽しさが生まれつつあった。心が折れそうなときに、何度でも立ち返りたいような、そんな感情だ。


 曲はサビに入る。この曲の中でも一番力を込めた、私が最も気に入っている箇所だ。


 だから、私はギターを弾く手にも、歌う声にも、今まで以上に感情を込める。込められた熱が、私の強張った心を溶かしていって、気持ちがいい。高揚感に包まれる。やっぱりギターは、私の生きる糧なのだ。


 再びギターに触る機会を設けてくれた速水さんに、私は自然と感謝するようになっていた。このよく分からない事態も、今だけは深刻に考えずにいられた。


 歌い終えた私は簡単にアウトロを奏でてから、演奏を終えた。


 一瞬と呼ぶには長すぎる間が生じて、私はもしかしたらがっかりさせてしまったかもしれないと、不安に駆られる。


 でも、私が恥ずかし気に「ありがとうございました」と言うと、速水さんはささやかな拍手で返事をしてくれた。大げさでない拍手に、素直に私の歌を受け取ってくれたことを感じる。


 部屋には冷房が回り、涼しい風が吹いていたけれど、私は胸にほんのりとした温かさを抱いていた。


「外崎さん、めっちゃよかったよ。すごい感動した」


 速水さんがしみじみと言う。その反応に私は、それって私のギターや歌詞に対して? それとも速水さんの歌声に対して? と訊きたくなったけれど、今の部屋の空気にはそぐわないようでやめた。


「そんなことないって」と謙遜するのも同様だ。私を慰めるための言葉は、速水さんにとっては必ずしも聞こえがいいとは限らない。


「う、うん。ありがと」


 この場での最適解。つまり速水さんの賛辞を素直に受け入れることを、私は選んだ。たとえ、すんなりといかなくても、これが一番速水さんとの空気を良い状態に保つ答えだろう。


 現に速水さんは、柔和な表情を崩してはいない。私が取った選択肢は間違っていなかったようだ。


「外崎さん、やっぱりギターうまいじゃん。歌もめっちゃよかったし。ああ、歌声だけじゃなくて、歌詞もね。うまく言えないけど、なんかすごい沁みたよ」


「あ、ありがと。そう言ってもらえると、私も嘘じゃなく嬉しいって思えるよ」


「でしょ。外崎さん、こんなにギター弾きながら歌えるんだから、やっぱり文化祭出てみたらいいのに。絶対みんなもいいって思うはずだよ」


 どうやら速水さんは、私が文化祭に出ることをまだ望んでいたらしい。その事実が、私の胸をチクリと刺す。作れていたなけなしの笑顔も、すっと波が引くように消えていくかのようだった。


「い、いや……、やっぱりそれはどうかな……。私なんかが歌っても誰にも響かず、恥をかくだけというか……」


「そんなことないと思うけどな。前言ったことの繰り返しになるけど、外崎さんはもっと自分に自信を持ってもいいと思うけど」


 そりゃ速水さんの見た目だったらね。私はそう言いたくなったけれど、意地が悪い気がしてやめた。


 確かに速水さんの好反応は、私に自信を与えてくれた。でも、それはほんのちっぽけなもので、ステージに立つには全然足りていない。


 渋る私にも速水さんは相好を崩さず、突然何かを閃いたようにはっと口を開く。


「分かった。外崎さん、一人でステージに立つのが不安なんでしょ。だったら、私も一緒にステージに立ってあげる。二人で文化祭出ようよ」


 速水さんの口から出た言葉は、今まで以上に突拍子もなくて、私は口を開けて驚いてしまう。


 確かにステージに立つのは不安だったけれど、でも問題は速水さんが察したところとは、また別のところにあった。


「い、いや、なんで……? なんで速水さんがステージに立つ話になってるの? ていうか、そもそも速水さん、ギター弾いたことあるの?」


「ううん、一度もない。でもまだ文化祭までは一ヶ月以上もあるんだよ。毎日練習すれば、なんとかならないことはないと思うけどな」


 楽天的に言ってのける速水さんに、私はそれはちょっとギターを舐めてはいないかと思ってしまう。


 私は基本的なコードを覚えて、一曲コピーして弾けるようになるまで三ヶ月もかかっている。その上弾きながら歌うなんて、ろくにギターを弾いたことがない人間が一ヶ月ほどでできるようになるとは思えない。


 もちろん私と速水さんは違うし、何でもできる速水さんはギターもすぐにできてしまうのかもしれないけれど、それでも私のちんけなプライドが、簡単には首を縦に振らせなかった。


「いやいや、無理だって。ギターを弾きながら歌うってのは、速水さんが思ってるほど簡単なことじゃないんだよ?」


「外崎さん、なんで始める前から無理って決めつけるの? そんなのやってみなきゃ分かんないじゃん。それに今のあたしは外崎さんの身体なんだから、外崎さんの身体がギターの弾き方を覚えてるってこともありえるでしょ? それにもしやるってなったら、外崎さんに教えてもらえばいい話だし、何よりあたしが外崎さんと一緒にステージに立って歌いたいの。ねぇ、お願いだから、せめて考えるくらいはしてもいいんじゃない?」


 速水さんは俄然乗り気になっている。私が断ることを想定していないかのようだ。


 でも、私はやっぱりすぐには速水さんの提案には乗れなかった。疑問が胸に去来する。


「い、いや、いくらなんでも急すぎない? 自分で言うのもハズいけど、そんなに速水さんは私の歌に感動したの?」


「うん、したよ。絶対もっと多くの人に届けるべきだと思った。だからさ、よかったらあたしにそのお手伝いをさせてくれないかな。もちろん足を引っ張らないように精いっぱい頑張るから」


 改めてはっきりと「感動した」と言われて、私はまた少し照れてしまう。全てが私の力ではないが、ポジティブな評価は紛れもなく嬉しかった。


 でも、それと文化祭に出演するかどうかは、また別の問題だ。


 私は頭を回す。この場ですぐ断ってしまうことは、私には気が引けた。


「う、うん。分かった。一応考えてはみるよ」


「本当!?」


「一応ね、一応。どんな結論になっても何も言わないでよ」


「分かってるって。外崎さんが考えて出した結論なら、どんなでもあたしは尊重するよ」


 今ここで答えを出すのには、どちらにも負担がかかる。だから、結論を先延ばしにした私にも速水さんは、快く受け入れてくれた。


 先延ばしにすればした分だけ、心にかかる負担は増すというのに、すぐに返事ができなかった私を、私は自分で少し恥ずかしいと思う。


 でも、そんなことは気にしていないかのように速水さんが微笑んでいたから、私も以前ほどには自分を責めずにいられた。


「じゃあ、作戦会議しよっか。志水さんとのご飯、うまく切り抜けられるように」


 そう速水さんに言われるまで、私の頭からは作戦会議のことが抜け落ちてしまっていて、返事もどこか意外なものになってしまう。


 私はギタースタンドにギターを置いて、床に座った。速水さんに「大丈夫?」と少し心配されたけれど、床にはカーペットが敷かれていたから、何の問題もなかった。



(続く)

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