【第8話】作戦会議
翌朝。目が覚めても私は、元の私に戻っていなかった。絶対元に戻れると信じていたわけではなかったけれど、それでもかすかな期待は抱いていたから、私はしっかり落胆してしまう。
速水さんからのラインもまだ来ていない。でも、私がこうなのだから、確認しても仕方のないことだった。
メイクのために昨日よりも一時間早く起きたから、まだ遥さんは家にいて、仕事に行く支度をしていた。一緒に朝ご飯を食べようよと提案しても、もう食べ終えてしまったらしい。今はまだ朝の七時を回ったところだから、ファッションデザイナーの仕事は夜が遅いだけではなくて、朝も早いのかと私は思ってしまう。
心配になって「無理しないでね」と声をかける。「うん、ありがとう」と遥さんは笑顔で応えてくれていて、苦には思っていない様子が窺えた。
遥さんが作ってくれた、目玉焼き以外はほとんどありものの朝食を食べて、私は洗面台へと向かった。
速水さんから昨日教わった通りの手順で、メイクを施す。覚えきれていない部分は時折ネットの記事で補完して、ベースメイクからアイメイク、チークにリップを仕上げていく。
当然、私はメイクにまだ慣れていないから、速水さんほどにはうまくできない。やり直すほどの時間も取れず、緊張感が私の手を震わせようとする。
でも、控えめなメイクを意識した結果、どうにか外に出ても恥ずかしくない程度の仕上がりにはなった。普段の速水さんからすれば、多少は変だろうけれど、それでも指を差されて笑われるほどではないだろう。みんな誰でも最初は初心者だから、これから少しずつうまくなっていけばいい。
でも、それはこれからもしばらくはこのままであることを前提にしていることに気づき、私は不安に駆られてしまう。私たちが元に戻れる兆しは、まったくと言っていいほどなかった。
今日もまた玄関を開けると、高木さんが待ってくれていた。高木さんは今日も晴れやかな笑顔を私に向けていて、私と速水さんに起こっていることに、少しも気づいていない様子だった。
顔を見るなり「今日はメイクしてるんだ」と言ってきて、私は思わず不安から「うん、どうかな。変じゃない?」と訊いてしまったが、高木さんは「今までとちょっと雰囲気は違うけど、でも全然変じゃないよ」と言ってくれたから、私はひとまず胸をなでおろす。これで教室でも、声に出して指摘されることはないだろう。
通学路の途中で宇都宮さんや稲垣さんと合流する。歩きながら話した話題は、今人気のウェブ漫画だったり、韓国の女性アイドルグループだったりした。昨日までの私だったら、会話についていけず、疎外感を味わっていただろう。
でも、私は昨日速水さんに教えてもらって、それらを一通りチェックしていたから、この日は高木さんたちの話にもどうにか混ざることができた。芯を食ったことは言えなかったけれど、それでも相槌の打ち方も昨日までとは違っていて、調べておいてよかったと感じる。
そんなにすぐに心根は変わらないけれど、それでも表面的には私は速水さんを演じるのが、ほんの少しうまくなりつつあった。
「外崎さん、思ってたよりもうまくメイクできてんじゃん。もしかして今までにもやったことあった?」
今日も今日とて私と速水さんは、屋上へと向かう階段の踊り場にいた。私が「ちょっと話せる?」とラインで速水さんを呼んだ形だ。この日も階下は騒がしいけれど、ここは少しも人が寄りつかない。
今日も元に戻れなかったことを確認して、落胆しかけた私たちの気を引っ張り上げようと、速水さんが明るい声を装って言う。私も気分が沈んだままではいたくなかったので、意識して口角を持ち上げた。
「いや、本当に今まで一度もしたことなかった。もしうまくできてるように見えてるとしたら、それは私じゃなくて、速水さんの教え方がよかったおかげだよ」
「いやいや、外崎さんの力量だって。外崎さん結構メイク、向いてるんじゃない? 初めてでこれってことは」
褒めちぎってくる速水さんに、私は照れるあまり「いやいや、そんなことないって」と、否定したくなってしまう。
でも、そう言ったところで速水さんが自分の見解を変えるとは思えなかったから、私はただ「うん、ありがと」と受け入れた。
速水さんが、今までの私には考えられないような表情で、ニコッと笑う。速水さんの(というか元は私の)顔は、主張しすぎない程度に自然なメイクが施されていて、伸ばした背筋も相まって、元の私とはまるで別人かのように見えてしまう。元の私から出ていた陰気なオーラも、大分薄まっていた。
「で、どうしたの。ちょっと訊きたいことがあるって」
和やかな表情のまま本題を切り出した速水さんに、私の心臓は小さく跳ねあがる。自分から持ちかけておいたことなのに、いざそのときになると口の中が渇いて、ざらざらする感覚さえ私は抱いてしまう。
でも、モヤモヤした気持ちを持ち続けているのも嫌で、私は意を決して口を開いた。
「ね、ねぇ、速水さん、まだ私に話してないことあるよね……?」
「そりゃまあ一日や二日で話しきれるほど、人間って単純なもんじゃないからね。で、何が訊きたいの?」
「昨日、遥さんが言ってたんだけど、志水さんっていったい誰なの……?」
私がそう訊くと、速水さんは明らかにバツが悪そうな表情をした。数秒前までの和やかな表情との落差に、私は今言った言葉を取り消したくなってしまう。
速水さんが一つ息を吐く。そのリアクションの意味が、私にはすぐには分からなかった。
「そっかぁ。まあ日曜のことだもんね。やっぱ言っとくべきだったかな」
速水さんは微笑んでいた。でも、それは苦笑いと呼べる類のもので、私は速水さんのデリケートな部分をつついてしまったのだと思い至る。
「い、いや、いいよ、言わなくて。あまり言いたくないことなんでしょ。無理に訊こうとしちゃってごめんね」
「なんで外崎さんが謝ってんの。別にこのままだったら、外崎さんはあたしのままで、その日曜の夜を迎えてたわけだし。だとしたら、もう今言っちゃっておいた方がいいよね」
速水さんは相好を崩していない。だけれども私には、それが辛うじて微笑んでいるように見えてしまう。
「無理しないで」とも言いたくなったけれど、志水さんのことを知ることは、仮にその日までに元に戻れなかったら、避けては通れないように思えた。
「正直に言うと、志水さんのことはあたしもよく分からないんだよね。大手の出版社で雑誌の編集者をしていて、その仕事でお母さんとは知り合ったんだけど、二人が今どんな関係なのか、当てはまる言葉がない気がして。単なる友達ってわけではなさそうだし。まあ、食事の席に私も同席させてるってことは、多分そういうことなんだろうけど」
言葉を濁した速水さんの気持ちが、私にはそれとなく分かる気がした。
決定的な言葉にしていないだけで、おそらく志水さんは遥さんと一緒になることを望んでいる。遥さんの立場からすれば、再婚だ。
自分の人生に間違いなく大きな影響を与えるだろう事柄を目の前にして、速水さんが何も思っていないわけがない。
「ね、ねぇ、速水さんはどう思ってるの?」
「どう思ってるのって?」
「その志水さんのこと。包み隠さず正直に答えて」
「外崎さん、結構グイグイ来るね」
そうやんわりと牽制されて、私は思わずたじろぎそうになってしまう。一拍置いたそのリアクションに、速水さんの心情をにわかに察してしまう。
でも、私が前言撤回しようか迷っている間にも、速水さんはまた一つ息を吐いていて、今私にできることは、速水さんの言葉をありのまま聞くことしかないように思われた。
「……正直、あたしあの人あまり得意じゃないんだよね。いや、間違いなくいい人ではあるんだよ。でも、いい人すぎるというか。自分はいつも道徳的にいい行いをしてるってのを、まったく疑ってないんだよね。まあ事実そうなんだけど、でもその自意識の強さがあたしはちょっと苦手かな」
速水さんの言葉が意外で、私は小さく目を瞬かせてしまう。根性がひん曲がっている私からすれば、速水さんも十分「いい人」だというのに、そんな腐すようなことを言うとは思わなかった。
それとも私が思うほど、速水さんは「いい人」ではないのだろうか。突っ込んで訊くことは私にはためらわれる。
「……それって遥さんには言ってるの?」
「ううん、言ってない。ていうか言えるわけないよ。だって、あの二人いい感じなんだから。そこにあたしが水を差しちゃったら悪いじゃん」
その声はどこか自嘲するような色合いを帯びていて、私は速水さんにも人生で楽しくない時間があったのだと、今更ながらに気づく。勉強も部活もできる速水さんには、悩みなんてないと思っていた。
そうじゃないことは考えればすぐに分かるのに、思い至らなかったのは私が決めつけていたせいだ。速水さんを自分とは違う世界の人間だと、決めつけていたせいだ。そのことが今になって、申し訳なく思えてくる。
「ね、ねぇ、速水さん。私日曜の食事断った方がいいかな……」
「何言ってんの。せっかくいい中華が食べられるんだよ。断るなんてもったいないって」
「いや、そういう問題じゃないと思うんだけど……」
「いいから行って。あたしがいなかったら、二人とも気にしちゃうんだから。それは避けたいじゃん」
「で、でも……」
「お願い、行って。私のためだと思ってさ、ね?」
志水さんが苦手だという速水さんのためを思うなら、なおさら行かない方がいいのではないか。
私はそう思ったけれど、重ねて頼み込んでくる速水さんの前では口にすることは憚られた。確かに私が予定通り同席するのが、一番穏便に事が済む方法な気がする。
行ったところで何を喋ればいいかはまったく分からなかったけれど、私は速水さんの顔を立てて、首を縦に振った。
速水さんはかすかに安心した表情をしていたけれど、その表情が速水さん自身に向けられているとは、私にはさほど思えなかった。
「そうと決まったら外崎さんさ、作戦会議しない?」
「作戦会議?」
「そう。だって外崎さん、志水さんのこと何も知らないわけじゃない? いざ食事に行ったところで、何話せばいいか全然分かんないでしょ? だから、そういった事態を回避するための作戦会議」
速水さんの提案には正当性があって、私も自然に「確かにそうだね」と頷いていた。来る日曜に向けて、志水さんについての情報は、ないよりもあった方がいいに決まっている。
「じゃあ、決まりね。外崎さん、今日の放課後空いてるよね?」
「まあ、部活をしなかったらね」
「じゃあさ、作戦会議は外崎さんの家でしようよ」
「私の家?」
「そう。こんな状態になってから外崎さんは、まだ元の自分の家に一回も帰ってないよね? そろそろ帰りたいんじゃない?」
「それはそうだけど……」
「じゃあ、決まりね。変な言い方だけど、私外崎さんの家で待ってるから。いつでも来てくれていいよ」
一方的に決められてしまった。でも、私はそこまで悪い気はしなかった。一度自分の家に帰って、特に自分の部屋がどうなっているかを知りたい気持ちは、私にもあったからだ。
「う、うん」と頷いたところで、授業開始五分前を告げる予鈴が鳴る。「じゃあ、また学校が終わった後にね」と言って、速水さんは踊り場から離れていった。
一緒にいるのを見られることは気が引けるし、速水さんに申し訳ない。だから、私はしばし踊り場に留まった。
私は自分の家に帰ったときに、何を感じるのだろう。たった三日しか離れていないにも関わらず、そう思えるくらいには、私は速水さんになってからの時間を長く感じていた。
(続く)