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【第6話】メイクアップ(パート2)



 速水さんが手に取ったのは、黒い文字通りペンの形をした道具だった。蓋を外すと、暖かみのある茶色の先端が姿を現す。そして、その反対の先端には、小さなブラシがついていた。


「使い方、分かる?」と訊かれても、私は首を横に振るしかない。速水さんは私の顔で、少しからかうような笑みを浮かべてから、ペンの先端についたブラシを使って眉毛を整え始めた。こうすることで眉を描き足す部分がはっきりするらしい。


 私もペンを渡されて見よう見真似でやってみたけれど、初めての細かい作業は、簡単にはできなかった。いざペンを用いて眉毛を描く段になっても、精密さを要する作業に、私の手は震えそうになってしまう。


「やりすぎないでね。ざっくりでいいよ」と速水さんに言われても、初めての私にそんな細かい塩梅は分からない。一本一本描くたびに「これでいい?」と速水さんに確認していく。我ながら少しうざったいなと思ったけれど、それでも速水さんは、その度に機嫌を損ねることなく応えてくれた。私とは違う、器量の大きさを思い知る気分だった。


 アイブロウで眉毛を描き終えて、「次はアイシャドウだね」と速水さんが言う。その言葉自体は、私も以前どこかで聞いたことがあった。


 でも、速水さんが手に取ったアイシャドウはピンクやベージュ、ブラウンといったいくつもの色に分かれていて、単色だと思っていた私はここでも軽く面食らう。


 チップと呼ばれる道具を使って、私は速水さんに続くようにしてアイシャドウをまぶたに載せた。アイシャドウだけでもいくつかの工程があり、それぞれの場面で塗る色も違ったから、その複雑さを私は一度では覚えきれない。


 でも、「何かあったらまた連絡して。教えるから」と、速水さんが言ってくれたのは心強かった。これは速水さんのためでもあるから、分からなかったら素直に訊こうと思えた。


 目のメイクはまだまだ続く。


 まつ毛の生え際を埋めるように、アイライナーと呼ばれるこれまた初めて触る道具でアイラインを引き、目をきりりと際立たせる。ビューラーという、テレビの中でしか見たことがない道具を使ってまつ毛をカールさせ、カールさせたまつ毛にマスカラを塗って、目に爽やかさと凛々しさを加える。


 言葉自体は知っていても、マスカラが何を指すのか具体的には知らなかった私にとって、目のメイクは全ての工程が新鮮で、その作業の繊細さに気を遣わずにはいられない。こんなに目の周りを触ったのは、人生で初めてと言えるほどに。


 でも、速水さんは初めて触るであろう私の顔にも、それほど苦労せずにメイクを施していて、これが速水さんの日常だったのだなと私は思う。こんな大変なことを毎日していたことに、頭が下がる思いだ。


 速水さんの私になるまでの境遇は、生まれ持ったものにあぐらをかいていただけでは、決して得られなかっただろう。


 お父さんもお母さんも、頼めば化粧品ぐらい買ってくれただろうに、そのくらいの努力すらしなかった自分がにわかに恨めしくなる。もし元に戻れたら、私もサボらずメイクをしようと思った。


「じゃあ、メイクもいよいよ終盤戦。次はチークを塗ってこう」


 速水さんが手に取ったチークは、これも二色あった。赤みがかったピンクと、薄いピンクベージュだ。二色でグラデーションを作ることで、より自然な仕上がりになるらしい。


 この頃には、私はメイクの複雑さにあまり驚かなくなっていた。一筋縄ではいかないことに、慣れてしまった部分もあったのかもしれない。


 速水さんがするように、赤みがかったピンクの周りに薄いピンクベージュを重ねていく形で、チークを塗っていく。発色がよくなった頬は、鏡越しにでも活発な印象を与えてくる。私の顔でさえ、明るく柔らかな印象に変わっている。


 その姿に、私ももっと早くメイクを覚えていれば、今よりもクラスメイトとも打ち解けられていたのかなと、思わずにはいられなかった。



「外崎さん、ここまでお疲れ様。次でいよいよ最後だからね。最後はリップを塗って、メイクの仕上げをします」


 私は小さく息を呑む。リップを塗るなんて、私には不相応な大人の響きだ。


「私が使っているのはこれ」と速水さんが手に取ったのは、落ち着いたピンク色のリップだった。それはリップ、口紅と聞いて私がイメージするそのもので、私は目を凝らしそうになってしまう。


 でも、速水さんは何のためらいもなく、そのリップを私の唇に触れさせた。使い方を覚えているように、優しく塗っていく。私のものだった唇がピンク色に彩られていく様は、桜で染められているみたいだ。


 唇全体にリップを行き渡らせて、速水さんは「よし」と呟く。短くても、自信に満ち溢れた声だった。


「じゃあ、外崎さんもリップ塗ってみて」


 速水さんは、さも当然のようにリップを差し出してきた。


 でも、私はすぐに受け取れない。だってリップを共有するとは、つまりそういうことだ。そんなの私と速水さんの関係で、許されるはずがない。


「ね、ねぇ、他のリップはないのかな……」


「何言ってんの。これは普段私が使ってるリップなんだよ。これが私に一番合うリップなんだから。他のなんてないよ」


「で、でもこれ使っちゃったら、速水さんに悪いというか……」


「何、もしかして気にしてんの? もう一度言うけど、これは元々私の物なんだよ? それにそれを言うなら、私が塗った時点で既に成立してんじゃん。だから、外崎さんが気にすることなんてないよ。それとも、そんなに元の自分の唇が嫌?」


「いや、そういうわけじゃないけど……」


「だったら、受け取ってよ。どのみちこのままだったら、明日からも外崎さんはこのリップを使うことになるんだからさ」


 そう言われたら、私に断るなんて選択肢はなくなる。これは二人のためなのだ。そう自分を納得させて、私は速水さんからリップを受け取った。


 唇に触れさせてみる。思っていた以上の滑らかな触感に、私の心は驚いてしまう。


「ほどほどでいいからね」という速水さんのアドバイス通りに、私は慎重にリップを塗って、速水さんがやったように唇に馴染ませた。


 しっとり感を増した唇は、思わずドキッとしてしまうほど艶やかで、すぐには慣れない。でも、今までにない自分になれた気がして、不思議と悪い心地はしなかった。


「じゃあ、本当にこれで最後だから」


 リップを塗り終わると速水さんは、私に霧状の液体を一吹き浴びせた。速水さんが言うには、これはフィニッシングミストといって、化粧崩れを防いでくれるものらしい。テニス部で日頃から汗をかいている速水さんには、必須のアイテムだなと私は思う。


 速水さんもフィニッシングミストを浴び、私たちのメイクはひとまず終了する。最後にメイク落としのやり方も教わってから、私たちはようやく一息ついた。まだ窓の外は明るかったけれど、差し込む日差しの角度から、少なくない時間が経ったことが分かる。


 でも、時間をかけたおかげで、私たちの顔は見違えるようになった。滑らかな肌に、ぱっちりと目立った目。血色のいい頬に、柔らかそうな唇がつややかだ。


 私以上に、速水さんの方が変化の振れ幅が大きい。慣れている速水さんの手でしっかりとメイクを施せば、私でもそれなりの容貌になるのだと、私は初めて知った。


「どう? 外崎さん。初めてメイクをしてみての感想は?」


 速水さんが訊いてくる。控えめなメイクでも私の印象はがらりと変わっていて、今までまったく自信がなかった自分の顔が、初めてそんなに悪くないかもしれないと思えた。


「なんかとても大変だった。速水さんだけじゃなくて、世の中の女性の多くはこんなに手間がかかることを毎日してるんだって、初めて知ったよ」


「正直だね。でも、メイクで自分の顔が綺麗になってくの、楽しくなかった?」


「確かにそれは、ちょっとだけだけど感じたかな。なんでこんな面倒なこと、みんな毎日してるんだろうって思ってたけど、今ならその気持ちも、ほんの少しだけど分かる気がする」


「そうだね。どう? 明日からもメイク続けられそう?」


「うん。早く起きるのはちょっと大変だけど、やってみるよ。まあ、本当は今日寝て起きたら元に戻ってるのが、一番なんだけどね」


「そりゃそうだ」


 速水さんが小さく笑う。だから、私も釣られるようにして、微笑むことができた。


 数多ある不安はまだ消え去ってはいない。でも、メイクをして気が大きくなっていたこともあり、今だけは前向きな気持ちでいられた。


 外から不意にチャイムが鳴る。その音で、私は午後の六時になったことに気がつく。


 私がここまで自分の家を空けていたことは、今までほとんどない。そろそろお父さんやお母さんも帰ってくる頃だろう。


「ねぇ、速水さん。こんなこと言いづらいんだけどさ……」


「何?」


「そろそろ帰った方がいいんじゃないかなって」


「えっ、まだ全然大丈夫じゃない? 外崎さんの家ってそんな門限厳しいの?」


「いや、別にそういうことじゃないけど……」


「じゃあ、もうちょっといさせてよ。だってここ、元はあたしの家なんだよ? ね、外崎さんの親にはあたしから連絡しとくからさ」


「ま、まあそういうことなら……」


「じゃあ決まりね。ねぇ、あたしの部屋行っていいかな。色々持っていきたいものもあるし」


 確かにこのままの状態が続くなら、お互いに必要なものは自分のもとに置いておいた方がいいだろう。


 私は頷いた。「あたしの部屋どんななってるかなー」と言う速水さんとともに、二階に向かう。


 速水さんの部屋の物にはほとんど手を触れていないはずだけれど、ネガティブな反応を示されたらどうしよう。


 私はそう危惧したけれど、ドアを開けて「よかった。全然変わってない」と速水さんが言っていたから、私は静かに安堵していた。





 普段から人を呼んでいるからだろう。速水さんの部屋にはクッションがいくつもあって、私たちは腰を下ろせていた。「麦茶でいい?」と言うので頷いたら、速水さんは麦茶とともに個包装のお菓子をいくつか持ってきて、私たちは一息つく。


 とはいえここは他人の部屋なのだから、他のクラスメイトの家に遊びに行ったことがない私は、緊張せざるを得ない。今は私の姿だけれど、この部屋の主である速水さんが隣にいると、場違いな感覚は少しどころでは足りない。今日も私はこの部屋で眠ることが、絵空事にさえ思えてくる。


 でも、速水さんは足を伸ばして、存分にくつろいでいる。でも、なまじ私の姿だから、見た目ではこの部屋の雰囲気からは、少し浮いてしまっていた。


「さてと、どうしよっか。ゲームでもやる?」


 速水さんの部屋には、テレビもゲーム機もあった。だから、速水さんがそう提案してくるのは、ごく自然なことだった。


 でも、私は素直に首を縦に振られなかった。この部屋の主である、速水さんのしたいようにした方がいい。そう頭では分かっていても、私と速水さんの距離はまだ全然近くなかったから、どうしても遠慮が働いてしまう。


 私は、速水さんと一緒にゲームができるような人間ではないのだ。


「い、いや……。大丈夫……」


「そう? じゃあ、漫画でも読む? 最近ハマってる漫画があってさ、まだ一巻が出たばっかなんだけど、すごく面白いんだよね」


「そ、それも大丈夫かな……」


「うーん、だとしたらお喋りくらいしかやることなくない? こんなこと言ったら失礼だけど、外崎さんあまり喋るの得意じゃないよね?」


 本当に失礼だ。でも事実だから、私は小さくうなだれるしかない。


 苦手なものだらけの私でも、会話はとりわけ苦手だ。端的に言って、何を喋ったらいいか分からないし、お互いに気を遣って、後には疲労しか残らない。速水さんのようなキラキラした人間となら、なおさらだ。


 だけれど、このままずっと無言でいるのも無理そうだったから、私は速水さんと話すことを選ぶしかなかった。



(続く)

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