【第5話】メイクアップ(パート1)
「さてと、戻れなかったね。元の状態に」
速水さんが言う。仕方がないと受け止めているみたいに。
でも、私は速水さんみたいに落ち着くことはできなかった。いくつものネガティブな感情が、胸の中でぐるぐると渦巻いている。肩を落として、背中を丸めてしまいそうになる。
漂い始めた負のオーラは、この姿にはまったく似合わないものだった。
「う、うん……」
「どうしよっか、これから。まあ元に戻る方法を見つけるまでは、このままお互いの身体で過ごすしかないんだろうけれど」
「そ、そうだね……」
「じゃあ、ひとまず今日もお互いのままで過ごすとして、どうすればいいか考えてこっか。とりあえずはあたしの部活のことなんだけど……」
速水さんは、さっそくこれからのことに考えを移している。確かに、お互いの身の振り方は考えるべき問題だろう。
だけれど、私は明確な返事ができなかった。頭は否定的な考えに支配され、この先のことを考えるなんて、とてもできそうにない。
思わず俯いてしまって、速水さんに「ちょっと、聞いてる?」と尋ねられてしまう。そう訊かれてはっとしてしまうくらい、私の頭はいっぱいいっぱいだった。
「……なんで、そんな前向きになれるの?」
堪えきれなくて訊き返してしまう。そんな私にも、速水さんは「なんでって?」と、落ち着いたままでいた。
「なんで、そんなすぐに切り替えられるの? 今日寝て起きて戻らなかったってことは、これからずっと元に戻らない可能性だってあるんだよ? 速水さんはそれでもいいの?」
「それはあたしもちょっとよくないなって思うけど、でもそんな深刻に考えたって仕方ないじゃん。いくら悩んでも、それで戻れるって決まったわけじゃないし。まあなるようになるんじゃない?」
私は思わず閉口しそうになってしまう。その「なるようになる」がずっとこのままだったら、速水さんはどうするんだろう。ちょっと事態を軽く見すぎてはいないだろうかとも言いたくなる。
でも、速水さんのこういうポジティブな部分が、見た目以上に人を引きつけてきたのだろう。安易に否定はしたくない。
「そ、そうだよね。きっといつかは元に戻れるよね」
「だね。明日寝て起きたら元に戻ってる可能性も、ゼロじゃないからね。ああそれとさ、ちょっと外崎さんに一つ聞いてもらいたいことがあるんだけど」
「何?」
「今日さ、学校が終わったらあたしの家に行っていい?」
速水さんの提案に私は驚いたような、当然だと思うような相反した気持ちを抱く。ほんの少しだけ不安にもなった。
「……それってもしかして、私の家が嫌ってこと?」
「そうじゃないよ。外崎さんの家は住みやすいよ。あたしが言いたいのは、今日も外崎さん、メイクしてないでしょってこと」
図星を指されて、私は答えに窮してしまう。
「ご、ごめん……」
「いいよ、謝らなくて。こんな状況になって、メイクどころじゃないっていうのも分かるし。でも、もしこのままだとしたら明日からは、軽くでいいからメイクしてくれるとありがたいかな。自分のすっぴん見てるとちょっと恥ずかしいから」
速水さんの言葉が、私には一瞬だけ信じられなかった。速水さん(今は私だけれど)はこんなに綺麗な顔をしているのに、どこに恥ずかしがる要素があるのだろう。
でも、速水さんにとってはメイクをしている自分が普通で、そこから外れている自分を見るのはもどかしいのかもしれない。
私が示せる反応は一つしかなかった。
「うん、分かった。明日からやってみる」
私はメイクの仕方を知らない。でも、今は色んなサイトにメイクの方法は載っているだろうから、それを参考にすればどうにかはなるかもしれない。
でも、そう言った私にも、速水さんは少し心配するような目を向けていた。まるで私の心を見透かしているかのように。
「外崎さん、大丈夫? もし違ってたら本当に申し訳ないんだけど、外崎さんって普段あまりメイクしてないよね?」
女子に訊くには結構危ない質問。でも、それは私以外の女子だったらの話だ。
速水さんは確かに事実を言い当てていたけれど、ちっぽけなプライドが、私にすぐに首を縦に振らせなかった。
というかそう気づくぐらいには、今まで速水さんは私のことを気にしていたのだろうか。
「……どうしてそう思うの?」
「ごめん、違った? でも、今朝徳子さんに怪しまれない程度に訊いたら、外崎さん用のコスメはないって言われたよ? 急にどうしたの? とも言われちゃった。ちょっと訊いてみただけって、ごまかしたけど」
私はぐうの音も出なかった。外崎徳子は私のお母さんだ。実際、私の家にはお母さんが使う以外の化粧品はない。
「う、うん。速水さんの言う通りだよ。私普段全然メイクしてない。ごめん、引いたよね……? この年齢でメイクに関心がないなんてありえないよね……?」
「ううん、全然。別にそういう子がいても、あたしは何もおかしくないと思う。でも、やっぱりあたし的には、あたしにはメイクをしていてほしいから、今日の放課後家に行って、いつもどんな感じでメイクをやってるか教えてもいい?」
私は頷いた。速水さんが望んでいる以上、私がどう思っているかはあまり関係ないだろう。速水さんも、ほっと安心したように胸をなでおろしている。
その上でこんなことを言うのは私には気が引けたけれど、それでも速水さんのためには、どうしても言わなければならなかった。
「ね、ねぇ、速水さん。こんなこと言うのも何なんだけど、速水さんの家には別々に行く形にしない……?」
速水さんは心底不思議そうな顔をしていた。私の提案は思いもよらないものだったらしい。
「なんで? 別に行き先は同じでしょ? だったら、一緒に行った方がいいじゃん」
「いや、それは速水さんに迷惑がかかるんじゃ……。あっ、速水さんって言っても、この身体の速水さんのことなんだけど、私なんかと一緒にいたら、速水さんのイメージが下がっちゃうというか……」
「なに、私なんかって? 外崎さんは自分のことを、疫病神かなんかとでも思ってるの?」
そうだとは、私にはおいそれと言えなかった。私はいてもいなくても変わらないような存在だし、速水さんと私が並ぶとあまりに釣り合いが取れていなくて、周囲から奇異の目で見られてしまうだろう。
でも、私はそのことを迂闊に口にできなかった。今の私の姿を否定することはそのまま、宿っている速水さんの人格を否定することでもあった。
「別に外崎さんは、もっと自分に自信持っていいと思うけどな。もっと普段から周りに話しかけてみなよ。きっとみんな受け入れてくれるはずだからさ」
それは今の速水さんの身体をしている私ならそうだろう。
だけれど、こんな小柄で可愛いとも言えない顔をして、勉強も運動も何一つできない私を本当に受け入れてくれる人がいるとは思えない。表面的には取り繕ってくれるだろうけれど、内心では私とは話したくないはずだとどうしても思ってしまう。
もちろん、これも口に出さないけれど。
「まあ、外崎さんがどうしてもって言うなら、あたしは無理強いしないけどね」
曖昧な返事しかできていない私の心のうちを、速水さんも察したのだろう。
配慮を示してくれていることに、私は引け目を感じてしまう。速水さんに気を遣わせてしまっていることが、申し訳ない。
でも、どれだけ考えても、やっぱり私と速水さんは一緒に帰ってはいけないと思ってしまう。だから、私は「う、うん……。別々に行きたい……」と答えた。速水さんも理解を示してくれたようで、「オッケー、少し時間潰してから行くね」と言ってくれる。
ささやかな願望が通ったはずなのに、私はバツが悪い思いを抱いて、思わず縮こまってしまう。速水さんに「ほら、背筋伸ばして。シャキッとしなよ」と言われても、私は苦笑いを浮かべることさえできなかった。
速水さんは私が家に着いてから、一〇分後にやってきた。たった二日帰ってきていなかっただけなのに、玄関に入るなり「うわ、なんか懐かしいな」と言っていて、私は速水さんが抱えていた不安のほどを垣間見る。
制服のまま待っていた私に「別に着替えてくれててもよかったのに」と言うと、リビングや自分の部屋には寄らず、まっすぐに洗面台へと向かっていった。鏡を開けるとその奥にはいくつもの化粧品が入っていて、そんな空間があることすら想像していなかった私は、軽く面食らう。速水さんはそれらを一つ一つ確認して、「うん。ちゃんと全部ある」と頷いていた。
棚から出された化粧品の数は一〇個近くあって、これから行われることの大変さや複雑さを感じて、私にはかすかに目眩がするようだった。
「では、これからいつも私がやっているメイクを、外崎さんに伝授したいと思います」
「は、はい。よろしくお願いします」
速水さんが小さく笑ったから、私も釣られるようにして笑顔を作る。でも心の中では、ばっちり緊張していた。
「まずは私が手本を見せるから、外崎さんはそれを一個ずつ真似していってね」
「う、うん」
「よし、じゃあまずはメイクの第一歩、スキンケアからね。まずは洗顔フォームを使って顔を洗います」
速水さんは顔を一度水で洗うと、洗顔フォームを手に取って手のひらに垂らした。手を擦って泡立てたそれを顔に当てて、洗顔を行う。私がかつてしたことがないことを、速水さんは私の身体でさも当然のように行っていて、それが今更ながらに不思議で、現実味が薄かった。
洗顔フォームを流して、タオルで水気を取った速水さんの肌は、まだ何もしていないのにどこか綺麗に見える。元は私の肌だったのに、そうは思えないくらいに。
「じゃあ、やってみて」
何の衒いもない目で言ってくる速水さんに応えるように、私はおずおずと洗顔フォームに手を伸ばす。少し多めの量を取り出して、速水さんがやったように手を擦って泡立てた。十分に泡立ったそれを顔に当てると、いつも使っているボディシャンプーよりも柔らかな心地がして、かすかに驚く。
顔全体に行き渡らせた洗顔フォームを水ですすいで、顔を上げると鏡に映った自分の(今は速水さんの)顔が、少し明るさを増したような気がした。それはまだ何もしていないから、たぶん気持ちの問題だったのだろうけれど、速水さんは澄ました表情で頷いてくれていたから、私の口元もわずかだったけれど持ち上げられていた。
「では、次はスキンケアを行います。まずは化粧水からね」
化粧水を手に取った速水さんは、コットンに垂らしてから、顔に馴染ませるように当てていく。私も見よう見真似で、同じ動作を繰り返した。
すっと触れる化粧水の触感にした、肌が潤っていくような感覚はおそらく事実なのだろう。ここ二日間何もしなかった肌が、(速水さんのものだけれど)喜んでいる感じがする。
化粧水を肌に行き渡らせた私たちは、続いて乳液を塗った。こうすることで、肌の潤いがキープできるらしい。潤いを増した肌が洗面台の照明を反射して光り、私に嫣然とした印象を抱かせる。
まだスキンケアをしただけなのに、鏡に映る私たちの顔は、既にする前とは無視できないほどに違っていた。もちろんいい方に。
「じゃあ、ここからはいよいよ本格的なメイクに移っていきます。最初は下地を塗るから、よく見ててね」
スキンケアを済ませて、さらに日焼け止めも塗ってから、速水さんはそう私に呼びかけた。私も頷いて、速水さんを鏡越しに見る。
速水さんは化粧下地を手に取ると、おでこ、鼻、両頬、あごの五点に置いて、内側から外側に広げていくように化粧下地を塗っていった。中心部をしっかりと塗ることで、より綺麗な仕上がりになるらしい。
私も見たまま同じことを繰り返す。速水さんが言うには、化粧下地には肌をなめらかに整える役割があるようだが、見た目にはさほど大きな変化は訪れていない。
でも、メイクをする上では欠かせない工程のようだったから、私は飽きずに化粧下地を顔に塗り広げる。新鮮な感覚に胸に抱いていた緊張が、少しずつ次はどうするんだろうというドキドキに変わっていく。
「下地を塗ったら、次はファンデーションね。このパフを使いながら塗ってくの」
持ち手のついた白い布。これをパフということを、恥ずかしながら私は初めて知った。パウダー状のファンデーションをパフに取り、肌にポンポンと置くように塗っていく。
手を動かす私たちの動作は軽くリズミカルで、私はドラマかなにかで見るメイクの工程を自分が実践していることに、今さらながらどこかおかしな感覚を抱いた。いつかはメイクを覚える日が来ていたんだろうけれど、こんなきっかけからとは全く想像していなかった。
速水さんもファンデーションを塗りながら、微笑んでいる。いつ元に戻れるか分からないという事実は、少なくともこの瞬間だけは、私たちの前から姿を消していた。
「ひとまずはベースメイクはこんな感じかな。どう? 外崎さん。ここまではついてこれてる?」
ファンデーションの後に、メイクの持ちをよくするためらしいフェイスパウダーを塗ると、速水さんは私の方を向いて尋ねてきた。
こちらの様子を窺うかのような目に、私はおずおずとだが答える。
「う、うん。今のところは何とか。ていうか私のメイク大丈夫? なんか変な風になってない?」
「ううん。ばっちりだよ。少なくとも今のところは」
「そう。ならよかった」
「うん。じゃあこっからは、目や口とかのポイントメイクに移ってくね。まずはアイブロウから始めてこっか」
「アイブロウ?」
「眉毛を描くこと。このアイブロウペンシルを使うの」
(続く)