【第42話】エピローグ
文化祭が終わった後の学校は、一気にテストモードに突入する。なんてことはなく、まだ文化祭のどこか浮かれた雰囲気を残していた。片づけも終わって普段と変わらない校舎が、お祭りの余韻を湛えている。
でも、来週にはテスト本番を迎えるから、今だけは思い出に浸っていてもいいだろう。
私は一人で登校し、教室のドアを開けた。今までだったら誰にも見向きもされずに、まっすぐ自分の席に座り、本でも読みながら始業のチャイムを待っていた。
だけれど、今日だけは調子が違った。席に座る前から、何人ものクラスメイトが私に話しかけてきて、ステージの感想を伝えてくれる。それも「よかった」という言葉に代表されるようなポジティブなものばかりで、次々に話しかけられて少し戸惑いはするけれど、私は嬉しさを隠しきれない。
ただ「ありがとう」と返すだけじゃなくて、少し会話もできる。それは今までの私だったら考えられないことだった。
私が他のクラスメイトから「ギターはいつ始めたの?」とか「あの曲って自分で作ったの?」と質問攻めに遭っていると、教室のドアが開いて速水さんたちが入ってきた。四人は私のもとに直行していて、私の周りに広がる話の輪はさらに大きくなる。
話題はやっぱり文化祭のことが中心で、高木さんたちが私のステージの様子を、改めて速水さんに伝えていた。昨日のステージの成功は私も肌で感じていたから、高木さんたちが話す前向きな内容もそれほど恥じずに聞くことができる。
「千早希、やったじゃん。一人で頑張ってくれてありがと」と速水さんが言うと、周囲がかすかにどよめいた。速水さんが私を下の名前で呼んだことに驚いている様子が、私には訳もなくおかしく、そして少し誇らしくもあった。
遥さんが退院したのは、入院してから三日が経ってからだった。幸い検査にも、異常は何一つ見当たらなかったらしい。
退院には速水さんと遥さんの両親が付き添っていて、いくら何でもそこに混ざる勇気は、私には起こらなかった。
でも、速水さんが病院を背景にした四人の写真をラインで送ってきてくれていて、そこに映った遥さんの元気そうな笑顔に、私も大いに安堵する。
同時に遥さんがもう倒れるまでの無理をしないことを、ひそかに願った。
テストは予定通り、文化祭が終わった翌週に実施された。文化祭の余韻がどこかに吹き飛んだかのように、期間中は学校全体が緊張感を帯びる。
でも、それでも私はいくらか落ち着いてテストの日を迎えられていた。速水さんから毎日のように勉強を教わって、短い期間でも着実に自分の学力が上がったのを感じていたからだ。
実際、配られたテストには私がこの短期間に覚えたり、理解できるようになった内容も多くて、私は今までにないほど多くの問題を解くことができた。頭を抱える時間もずっと少なくなって、テストが終わったときにはまだ結果が出ていないのに、私は確かな手ごたえを抱いていた。
速水さんに視線でお礼を伝える。速水さんも小さく微笑んでいて、私は言葉では伝えられないほどの感謝をひしひしと感じていた。
文化祭もテストも終わると、学校は一気に通常運転に戻る。それどころか、テストが終わった解放感で清々しく感じられるくらいだ。
速水さんは、再開された部活に復帰していた。少し遠ざかっていた分、テニスへの気持ちはより大きくなったと私に語っていたから。
部活に入っていない私は、放課後になったらまっすぐ家に帰るしかない。
多くのクラスメイトは部活に入っていたから、ほとんどの場合一人での帰り道になったけれど、私は不思議と以前ほどの寂しさは感じなかった。
帰ったらまたギターを弾けばいい。曲を作って、詞を書けばいい。
それは強がりでも何でもない。速水さんもまたギターを弾くだろう。ギターを弾いていれば、私たちはいつだって繋がっていられるだろう。
少し寒さを含み始めた天気のなかを私は歩く。西側の空は目の覚めるようなオレンジ色に染まっていた。
そして……。
インターフォンを鳴らす。一時期は毎日帰っていた家なのに、外から見たその姿は思いのほか立派で、私の心をくすぐる。
しばらくしてドアを開けたのは、速水さんだった。パーカーにスラックスという飾らない格好が、どこか愛しい。
笑顔で「さぁ、入って入って」と言う速水さんに、私は「お邪魔します」と、家の中に足を踏み入れた。
入れ替わっていた頃は見慣れたはずの内装も、今の私にはオフホワイトの壁紙やウォームブラウンのインテリア、そして靴棚の上に置かれた小物の一つ一つまで新鮮に、そして鮮明に見えた。
私が私の姿で、他の人の家に行くのは初めてだ。だから、もっと緊張するかと思っていたけれど、案外心は凪いでいる。
それは考えるまでもなく、速水さんの家だからに違いなかった。
「千早希ちゃん、久しぶり。入院してたときは来てくれてありがとう」
私たちの姿を見るやいなや、遥さんは立ちあがって、私に歩み寄ってきた。その顔色は良好で、分かっていても私はやっぱり安堵する。
「はい。遥さん、お久しぶりです。遅くなりましたけど、退院おめでとうございます」
「うん、ありがと。心配かけてごめんね。でももうすっかりよくなったから。仕事の量も、今は少し抑えてるところだし。また、もしものことがあったらいけないもんね」
「そうですね。私も遥さんが元気そうで安心しました」
遥さんが「ありがと。じゃあ、今日はよろしくね」と言う。
その言葉を合図に、私たちは準備を始めた。既にリビングにはギターケースが置かれていて、私たちはお互いのギターを取り出す。
速水さんが取り出したアコースティックギターは、私が「あげる」と言ったこともあって、正式に速水さんのものになっていた。練習も遥さんがいないときに、しっかりと積んでいるらしい。
私たちはストラップを肩にかけると、お互いのギターのチューニングをした。退屈に思えるような時間でも、遥さんは私たちに温かい目を向けてきている。それが私にとって何よりの励みになった。
チューニングを終えた私たちは、今一度視線を交わしてから、遥さんに向き直る。
椅子に座った遥さんはそんな私たちを見て、ささやかな拍手を送っていた。それが私にとっては少し照れくさくて、思わず笑みがこぼれてしまう。
横目で見た速水さんも、同じ表情をしていた。
「そとはやです。今日はよろしくお願いします」
そう速水さんが言って、遥さんは再び拍手で応える。リビングの空気は柔らかく、暖かな清々しさを帯びていた。
「えっと。じゃあ、歌います。聴いてください。『私は私』」
「ワン、ツー、スリー、フォー」そうカウントを取って、私は速水さんと一緒にギターを弾き始める。昨日カラオケルームで一緒に練習をしたから、演奏はばっちり揃って、その重なる音色が私には心地よかった。
遥さんも優しい目をして聴いてくれている。
この曲の歌い出しは、私だ。イントロが終わるタイミングで、息を吸って私は歌い出す。
二人分のギターに乗って歌うと、ステージとはまた違った高揚感がある。緊張ももうしていない。
私は伸びやかな声で歌った。今なら何でもできる。根拠もないのに、そう強く思った。
(完)