【第41話】これから
私が遥さんのもとに到着して十分ほどが経ってから、病室に姿を現したのは志水さんだった。急いで息を切らした様子はなく、手にはレジ袋が握られていて、私は病院内の売店からでも戻ってきたのだろうと察する。
志水さんは私を見るやいなや、少し不思議そうな表情を浮かべていて、そういえば本来の私の姿で会うのは初めてだと私は気づく。
さらに、速水さんが言うところには九州に住む遥さんの両親からも、たった今飛行機を降りたという連絡があったらしい。あと一時間ほどで、この病院にもやってくるだろう。そうなると、ベッドの周りは人でいっぱいになってしまう。
だから、私は一言礼を言って学校に戻ろうとしたのだが、遥さんにふと「お昼は食べたの?」と訊かれれば、首を横に振らざるをえない。速水さんもまだ昼食を食べていなかったようで、私たちはひとまず昼食を食べるべきだという話になる。
遥さんは目を覚ましているし、志水さんもいるから何の心配もないだろう。だから、私たちは話の流れに乗せられるように、二人でいったん病室を後にしていた。
私たちは病院の地下一階にある食堂に向かう。この病院は坂の上に立っているから、地下一階でも窓があって、日の光が差しこんでいる。先ほどまでは灰色がかった雲が出ていたのだが、少しずつ晴れ間が出てきたらしい。
そんな開放感さえ感じる食堂で私は醤油ラーメンを、速水さんはカレーライスを頼んだ。思っていたよりも料理は早く提供され、私たちは窓際の席を選んで座る。
お昼時を過ぎたからか、食堂内に私たち以外の客は数えるほどしかいなかった。
向かい合って座っていても分かるスパイスのいい匂いを感じながら、私は醤油ラーメンに箸を伸ばした。きっと病院の食堂だから、塩分控えめで調理されているのだろう。
だけれど、スープは味が薄いことはなく、麺も思っていたより歯ごたえがあったから、私は素直に美味しいと思える。
速水さんもカレーを口にしながら「美味っ」とこぼしていた。たぶん子供でも食べられるように甘口なのだろうけれど、そのマイルドな味わいが、速水さんの舌に合っているようだった。
「遥さん、何事もなくてよかったね」
遥さんが大事に至らなかったことを知って、少なくとも私の緊張は大分緩んでいた。だから、いくらか気を楽にして話し出せる。
自分から話しかけるのも、速水さんを前にして口を開くのも、以前までだったらとても考えられないことだ。
でも、気持ちが落ち着いた今では、会話をすることは私にはそれほどハードルが高いことではなかった。
「そうだね。あたしも無事にお母さんが目を覚まして、今はとにかくほっとしてる。正直もっと悪い状況も、何度も頭をよぎったからね。それが杞憂に終わったことが、今は何よりもありがたいって思えるよ」
「うん。私も遥さんの顔を見れたときに、心底安心したよ。元気そうとはまだ言えないかもしれないけれど、あれだけ話してくれるような状態にまで回復してて、本当嬉しかった」
「そうだね。医師の先生が言うには、これからの検査次第だけれど、何事もなかったら二日か三日くらいで退院できるらしいから。もうちょっとの辛抱だと思う」
「そうなんだ。検査無事に済むといいね」
「うん、あたしもそう願ってる」
私たちは、それぞれのペースで食事を進める。当たり障りのない会話と料理。
でも、今の私にはそれで十分だったし、ぼんやりとだけれど幸せだとさえ思える。少なくとも一人で黙々とご飯を食べているよりは、精神衛生上ずっといい。
それもこれも、全ては速水さんがいるからだ。
カレーを食べている速水さんは、本当に穏やかな顔をしている。まだ遥さんの退院が正式に決まってはいないけれど、何も心配いらないと言うかのように。
そんな速水さんと一緒にいられることは、私にとって少し前までは考えられなかった大きな喜びだった。
「外崎さんさ、ありがとね。お母さんのこと、すごく心配してくれて。時間的にも出番が終わって、すぐに駆けつけてくれたんだよね? 本当に感謝してるよ」
「いやいや、当然のことだよ。だって一時期とはいえ、私は遥さんと一緒に過ごしてたわけだし。そんな人が倒れたって聞いたら、心配しない方がおかしいじゃん。別に感謝されるようなことじゃないよ」
「いいや、それでもありがとうって言わせて。あたし、病室にやってきた外崎さんを見たとき、すごく嬉しかったんだ。自分でも訳分からないくらい。たぶん他の誰でも、こんな気持ちにはならなかったと思う。あたしにとって、外崎さんはもうそういう存在なんだよ」
速水さんは曇り一つない目で言っていたから、そんな風に直球を投げ込まれると、私は照れてしまう。
でも、照れ隠しでも「そんなことないよ」とかぶりを振るのは、私のことを認めてくれている速水さんの気持ちに応えられないだろう。
だから、私は多少の恥ずかしさはあったけれど、「うん、ありがと」と素直に受け入れた。
速水さんがにこっと笑う。その笑顔は、夏の太陽ほどに眩しく私には見えた。
「改めてだけどさ、結局今回のことってなんだったんだろうね。ある朝突然入れ替わって、元に戻る術も分からないままお互いとして日々を過ごして、何の前触れもなくまた元に戻る。長い夢でも見てたみたいに」
落ち着いた雰囲気のまま食事を進めていると、ふと速水さんが思い出したかのように口にした。入れ替わっていた時間を懐かしむかのように。
だけれど、そんなことを訊かれても私に分かるはずがない。今回のことは初めから終わりまで、全てが意味不明なのだ。人智の及ばない現象に、たまたま私たちが選ばれたという感覚さえ私にはある。
だけれど、全てを明らかにする必要はないとも私は思う。もとよりいくら考えたって仕方がないことだ。
それに、私たちはお互いとして過ごす中で、お互いの知らない過去や事情、本当の気持ちに気づくことができた。それは嘘でも夢でも幻でもない。ちゃんと現実のことだ。それ以外には何もいらないだろう。
だから、私は何一つ飾ることなく口にできた。
「うん、本当なんだったんだろうね。他の人も経験してる謎現象なのか、それとも神様の気まぐれか何かなのか。私にも分からないよ。何一つさっぱり。でも、分かってることが一つだけある」
「何?」
「この経験は、意味のあるものだったってこと。それに、入れ替わる相手が速水さんでよかったってことだよ」
「二つじゃん」
「まあ、それはそうだね。でも、私は今回のことがなければ、こうして速水さんと一緒にご飯を食べられるようにはなってないと思う。速水さんと仲良くなることができた。それだけでも、私は今回のことに意味があったと思ってるよ」
「外崎さん、言うね」
「まあ、それはね。でも、私は心からそう思ってるから。速水さんはそうじゃないの?」
「そうだね。こう言えるのは無事に元に戻れたからかもしれないけれど、あたしも今回のことは悪いことばかりじゃなかったと思う。そりゃ戸惑いもしたけれど、外崎さんにも外崎さんの思いや事情があるって理解できたから。ねぇ、外崎さん。本当に正直に言っていい?」
「うん、いいよ」
「あたしさ、こうなる前はほんのちょっとだけだけど、外崎さんのこと、気味悪いなって思ってたんだ」
「本当に正直だね」
「ごめん、気分悪くした?」
「ううん。私も前までの自分がそういう風に思われてるのは、何となく感じてたし。だって、誰とも喋らず本ばっか読んでたもん。私だって自分じゃなければ、なんだこいつって思ってたよ」
「そうなんだ。でも、安心して。今はまったくそう思ってないから。外崎さんには外崎さんなりのいいところもいっぱいあるって、気づけたからね。ギターが上手いところとか、自分で曲が作れるところとか。勉強、はちょっと違うか」
速水さんははにかんで見せる。どこかいたずらっぽい笑顔に、私も自然と表情を緩める。人が少ない食堂内は、かえって私たちの距離を近づけていた。
「だからさ、色々と苦労することも多かったけど、あたしも今回のことがあってよかったって、今は思えてるよ。ギターの練習も楽しかったしね。外崎さん、もう一回言うね。ありがとう。あたしでいてくれて。あたしと一緒にいてくれて」
「うん、私も速水さんにありがとうって言いたい。何回も何十回でも。速水さんがいなければ、私はステージに立っていなかったから。発表が終わった後に感じた誇らしい思いは、一生の宝物だよ」
どちらもまじりけなしの本心を言っている。そこに相手を慰めようという意図は、少しも存在していない。私たちは目だけでそのことを確認しあった。
わざわざ言葉にしなくても、お互いの考えていることは何となくだけれど分かる。少なくとも私は、速水さんとそういった関係になれていると感じていた。
「ねぇ、速水さんはこれからどうするの?」
ふと気になったことが口をつく。「どうするって?」と訊き返した速水さんは、相好を崩してはいなかった。
「いや、元に戻れたし、今日で文化祭も終わっちゃったからこれからどうするのかなーって、ちょっと気になっただけ」
「うーん。どうするもこうするも、まずは退院までできる限りお母さんのそばにい続けることじゃないかなぁ。思ってたのとは違う形とはいえ、仕事をいったん休んで落ち着ける時間ができたわけだし。それとあとはやっぱり勉強かな。なんだかんだ言って、テストはもう来週にあるわけだし」
「まあ、それはそうだよね。じゃあ、テストが終わったら? 部活に戻る?」
「うん、今のところは戻りたいなって思ってるよ。部のみんなにも心配かけちゃったわけだし、今回のことでやっぱり私には、テニスも必要なんだなって思ったから」
「そう。じゃあ、元通りだ。何もかも完全に」
「いや、何もかもってわけじゃないでしょ」
速水さんの目が小さく光る。そのきらめきに、私は幸運な予感がした。
「勉強、教えたげるよ。いくらあたしとして不自然じゃないように勉強してたとしても、外崎さん、まだ苦手なとこや分かんないとこいっぱいあるでしょ」
「えっ、いいの……?」
「当然。あたしたちって、もう知らない仲じゃないじゃん。だから、外崎さんの役に立てるなら、自分の勉強する時間を少しぐらい犠牲にしたって、何も惜しくなんてないよ」
「速水さん……」
「うん。でも、その代わり一個だけ提案がある」
「提案?」
「これからはさ、あたしのこと由海って呼んでくれない? あたしも外崎さんのこと、千早希って呼ぶから」
何気ない会話の延長線上みたいに言ってきた速水さんにも、私はラーメンを食べる手を止めて、目を瞬かせてしまう。
速水さんの提案は、私の予想の範疇を大きく超えていた。思わず「どういうこと?」と、確認しそうになってしまう。言葉の意味はちゃんと分かっているのに。
「えっ、もしかして外崎さんは下の名前で呼ばれたくない? だとしたら、ごめんね。こんな急に距離詰めるようなこと言って」
戸惑いを隠せていない私の表情を、速水さんも汲んでくれている。
でも、私は速水さんに謝られるのは、まったく本望じゃなかった。
確かに私には、下の名前で呼べるような関係の人間は一人もいない。そこに勇気が必要じゃないと言ったら嘘になる。
それでも、私はおろおろと迷っていたくはなかった。望まなかった形とはいえ、私は一人で文化祭のステージに立ったのだ。それと比べたら、今速水さんを目の前にしていることは、ほんの些細なことだろう。
私は心を決めた。しっかりと速水さんに向き直り、はっきりと自分の意思で口にする。
「ううん、そんなことないよ。ただ、今まで下の名前であまり呼ばれたことがないから、ちょっとびっくりしちゃっただけ。私は千早希呼びで全然構わないよ。むしろ速水さんには、そう呼んでほしい」
私がそう言うと、速水さんは表情をぱっと華やがせた。その明るい兆しに満ちた目に、私も正しい返事ができたのだと胸を張れる。
「そっか、ありがと。じゃあ、これからもよろしくね、千早希」
「うん。よろしくね、由海」
私たちは微笑み合う。それは照れ隠しもあったけれど、それ以上に速水さんと心を通い合わせることができて、私は嬉しかった。つまらなかった日常に、ささやかな彩りが加わったみたいだ。
速水さんの目を今一度見る。アーモンド形の綺麗な目が細められていて、私の胸は躍るように高鳴った。
(続く)