【第40話】約束
ステージを降りた私は、すぐにでも遥さんが入院している病院に向かいたかった。余韻もそこそこにすぐギターをケースにしまって、舞台袖を後にする。一直線に体育館の出入り口へと向かう。
でも、高木さんたちは客席のちょうど端の方にいて、私は呼び止められてしまった。「よかった」「感動した」と言ってくれるのは本当にありがたかったし、私だって壇上で味わった達成感を噛みしめていたい。
だけれど、私の頭は魔法が解けたかのように、すっかり遥さんのことで占められていた。だから、三人の泣きたくなるほど嬉しい感想にも、生返事をするしかなかった。どうにかこの場をやり過ごそうと、失礼にならない程度に急いでいる雰囲気を醸し出す。
高木さんたちもそれを察してくれたのか、しつこく私を留まらせることはしなかった。今度ゆっくり話そうねと口約束をして、私は三人のもとから離れる。
お父さんとお母さんも体育館を出ようとする私には気づいた様子だったけれど、私の急いでいる表情や、客席の真ん中寄りに座っていることも影響したのか、私に声をかけてくることはなかった。
本当に申し訳ないなと思いつつ、私は足を止めるわけにはいかない。ステージや文化祭の感想は、帰ってからちゃんと話そうと心に決めながら、私は体育館を後にした。
梶原総合病院は私たちの学校の北側、歩いて一五分ほどの距離にあった。私の家とは正反対の方向にあるから、スマートフォンのナビを頼りに早足で向かっていく。
当然、一刻も早く遥さんの顔を見たい。だけれど、私は切羽詰まるほど焦ってはいなかった。
私がステージで歌っているまさにその最中、舞台袖に置いていったスマートフォンに速水さんから、遥さんが目を覚ましたというラインが来ていたからだ。
それを確認して、今の私は少なからず安堵している。まだ完全に回復したわけではないだろうけれど、それでも最悪の事態を免れていて、私の心はいくらか落ち着いていた。
でもやっぱり自分の目で、遥さんが無事なことを改めて確認したい。だから、ギターは重かったけれど、私はなるべく早く病院への道を急いだ。
病院に辿り着いたのは、午後の一時を回った頃だった。私は飛びこむように院内に入っていき、受付へと向かう。遥さんがいる六〇二号室へと、面会を申し込む。
受付の職員は、すぐに私が病室へと立ち入ることを許してくれた。だけれど、ギターはここに置いていってほしいと言われる。私としても当然文句を言う理由はなく、素直に職員にギターを預けた。
遥さんに少しでも早く会うため、今は四の五の言っている場合ではなかった。
エレベーターはちょうど一つがタイミングよく一階に停まっていて、私はすぐに六階へと向かうことができた。エレベーターを降りると、駆け出したくなる気持ちを抑えて、六〇二号室に向かう。
六〇二号室は四つのベッドが集まった合同病室で、遥さんは手前右側のベッドに横たわっていた。病衣を着ていて、左腕に点滴を挿されてはいるけれど、ちゃんと目は開いていて、私の到着を少し驚いた様子は見せつつも、穏やかな表情で迎え入れていた。顔色も、イメージしていたよりもずっと良い。
ベッドの側には速水さんもいる。私は駆け寄って、声を大にして無事を確認したくなる。
だけれど、遥さんからすれば私はたった一回会っただけの、速水さんのクラスメイトにすぎないので、腰が砕けてしまいそうなほどの安堵も、無理して仕事をしていたことへの苛立ちも私はそっと隠して、ゆっくりと遥さんの隣に歩み寄った。
「遥さん、大丈夫ですか?」
なるべく抑えたトーンで、でも心配していたという思いははっきりと滲ませながら、私は遥さんに声をかけた。遥さんは小さく表情を緩めていて、無事であることをアピールしている。
でも、それは私が抱いていた不安とは、あまり釣り合いが取れていなかった。
「うん、心配かけてごめんね。千早希ちゃんだったっけ? 由海と一緒に文化祭のステージに出るはずだった。でも、私は見ての通りすっかり大丈夫だから。安静にしてれば、あと数日で退院できるはずだし」
「大丈夫」という言葉は、腕から伸びている点滴の管を見ていると、私には完全には信じられなかった。一時の危機的な状況は脱しても、こうして治療を受けている状態では、胸を張って健康体だとは言えないだろう。
でも、私は心配に思う気持ちをぐっと飲みこむ。今の遥さんにかけるなら危惧する言葉や、ましてや諌める言葉ではないと思った。
「そうですか。でも、本当に何事もなかったようでよかったです」
「うん、ありがと。今回の件は私も反省してる。こんな倒れるまで、根詰めることなかったのにね」
「そうですよ」と私は言いたくなったけれど、すんでのところで堪えた。遥さんに自覚があるなら、私が追い打ちをかけるべきではない。
私はただ安堵した表情を保った。
「でも、千早希ちゃん、本当にごめんね。私のせいでこんなことになっちゃって」
「いえいえ、そんな。遥さんが仕事に追われていたことは、速水さんから聞いてますし。今回のことはしょうがないことだと思ってます」
「いや、しょうがなくなんてない。私がもっと計画的に、自分の限界も考えて仕事をしてたら、こんなことにはならなかったんだから。私ももういい年だっていうのにね」
「そんな自分のことを責めないでください。遥さんは何も悪くないんですから」
「でも、私のせいで由海を学校に行かせられなかった、ステージに立たせてあげられなかったのは事実でしょ? 千早希ちゃん、すごく心細かったんじゃない?」
「それはそうですけど」と、私は心の中で言いかける。でも、それを認めてしまったら、遥さんを責めてしまうことになる。
私は本音は心の中に押し込めて、努めて穏やかな表情を作った。
「いえいえ。確かに一人でステージに立つのは怖くはありましたけど、でもステージは、発表自体はうまくいったので、心配しないでください。ちゃんと歌いきりました」
「そう? でも、やっぱり由海と二人でステージに立ちたかったんじゃない?」
遥さんは全ての原因が自分にあるとでも言うように、申し訳なさそうな態度をやめようとはしなかった。遥さんだってある意味、無茶なスケジュールの被害者だと言えるのに。
何を言っても、「自分が悪い」と言うかのような口ぶりで返されそうで、私は少し困ってしまう。
すると、それまで静観していた速水さんが、私たちの会話に入ってきた。
「お母さん、ちょっとしつこいよ。外崎さんが大丈夫だったって言ってるんだから、きっと大丈夫だったんだよ」
「でも、由海だってステージに立ちたかったんでしょ? せっかくあんなに練習してたのに」
「いやいや、それよりもお母さんの方がずっと大切だから。お母さんのことを優先するのは、当然のことだよ」
「でも……」
「ねぇ、お母さん。この話もういい? これ以上話しててもお母さん、自分が悪いって言い続けるだけでしょ?」
速水さんが諌めるように言う。私としても、自分を責める遥さんの言葉はこれ以上聞きたくなかったから同意だ。
遥さんも私たちの思うところを分かってくれたのか、少しバツが悪そうにしながらも口を閉じて、私たちの間には一瞬沈黙が降りる。隣のベッドから聞こえてくるテレビの音だけが、病室に浮かぶ。
ふと、速水さんが私を見てきた。私はそれをただこちらに顔を向けたのではなく、アイコンタクトを送ってきていると解釈した。目に見える意図が、私には分かる気がする。
私も視線を合わせる。軽く瞬きをして、頷いていることを示す。その意図は速水さんにも伝わったのか、速水さんは私に今一度明確な眼差しを送ってから、視線を再び遥さんへと戻した。
遥さんも、私たちが何らかの意思を確認しあったことを察したのだろう。目を瞬かせて、どこか不思議そうにしている。
速水さんがまた口を開くまで、さほど時間はかからなかった。
「ねぇ、お母さん。こんなときに言うことじゃないかもしれないんだけどさ」
「何?」
「……志水さんとのことなんだけどさ」
速水さんが口にした話題は、私の想像から少しもずれていなかった。それ以外ありえないとさえ、私は思っていた。
遥さんもまた目を瞬かせている。でも、その表情自体は、意外なほど変わっていなかった。ただ落ち着いて、速水さんの次の言葉を待っている。
きっと速水さんも、それを口に出すのは少なからず決意がいるのだろう。下ろした両手がどちらとも握りしめられていた。
「本当に正直な気持ちを言うと、あたしはお母さんに、志水さんのプロポーズを受けてほしくない。もちろん、志水さんのことが嫌なわけじゃないよ。でも、あたしはお母さんと二人で暮らしてる今の生活が好きだから。それが変わってしまうことを受け入れられるのか、あたしには自信がない。あたしはお母さんと二人がいいんだ」
遂に言った。バカみたいだったけれど、それが速水さんの言葉を聞いて、私が最初に抱いた感想だった。
速水さんはしっかりと遥さんの目を見据えていて、紛れもない本心であることを、強く遥さんに訴えかけている。
私は息を呑む。遥さんは表情を大きく変えなかったから、その胸のうちは私には分からない。もしかしたら大きく動揺しているのかもしれない。
私たちの間に、また沈黙が下りる。時間が何倍にも引き延ばされていると私は感じた。
「そっかぁ。それが由海の本音かぁ」
遥さんがベッドに横になったまま一人ごちる。改めて頷いている速水さんの隣で、私はただ行く末を見守ることしかできない。
「なるほどね。まあぶっちゃけて言うと、私も薄々そんな感じはしてたよ。だってそうじゃなきゃ、ここまで返事を先延ばしにすることはないもんね」
「えっ、分かってくれるの……?」
「当然でしょ。由海の気持ちは私も尊重したいし、何より真っ先に考えなきゃいけないことだとも思うから。志水さんには私からちゃんと言っとくよ。だから、心配しないで。これからも二人で暮らそう」
遥さんが一言一言を確かめるように言う。だから、この場を丸く収めるために思ってもいないことを言っているわけではないと、私にもはっきりと理解できた。
横目で速水さんの横顔を視界に入れる。速水さんは唇をわずかに震わせていて、目も少し潤み始めているように私には見えた。
「う、うん」
「でもさ、これからも志水さんとの関係は続けていい? 仕事の付き合いもあるし。大丈夫。由海をほっとくような真似はもうしないから。何においても、由海をまず一番に考えるよ」
「本当に? もっとあたしと一緒にいてくれる?」
「当然だよ。受ける仕事も、これからは今以上に考えて選ぶ。もう夜中遅く帰ったり、ましてや会社に泊まったりしない。そりゃすぐにとはいかないかもしれないけれど、由海と一緒にいられる時間を作れるように、私も最大限努力するから」
「本当? 約束だよ」
「うん、約束。この約束は絶対守るって誓うよ。私には仕事よりも大切なものがあるって、今回のことでようやく気づけたから」
遥さんが清々しさを含んだ表情で言う。速水さんも満たされたような顔をして頷いている。
当然だけれど、私に人が言ったことを嘘かどうか見抜く能力はない。でも、何の根拠もなくても、私は今度こそは本気で誓っていると、信じることができた。
もちろん、全ての問題が解決したわけじゃない。生活のためには遥さんはこれからも働き続けなければならないし、些細なきっかけから衝突してしまうことだってあるかもしれない。
だけれど、私には二人なら何とかなると思える。それは当てずっぽうではなくて、心にしっかりと根を下ろした確信だった。
私たちの間から、三度言葉が消える。
それでも、私はその沈黙を今度は気まずいとは感じなかった。私たちの間に、無理して飾り立てるような言葉はもう必要ない。
もうすぐ雨になりそうみたいな、なんてことのない話をする二人を、私は暖かい眼差しで見守っていた。
(続く)