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【第4話】戻ってないよね?



「ただいまー」


 そう玄関から声がしたのは、夜の一〇時のドラマももうすぐ終わろうかという頃だった。今朝聞いたのと同じ声に、私の身体はびくりと跳ねる。


 ソファに座りながら「おかえりー」と言う。ただそれだけのことが、今は申し訳なく感じられた。


 怪しまれないように、テレビの電源を切る。速水さんがこのドラマを見ているかまでは、私は訊けていなかった。


「お母さん、お仕事どうだった?」


 帰ってくるなりダイニングテーブルに腰を下ろした遥さんに、私は無難な質問をした。何も喋らないでいるのは不自然だったし、それに遥さんがファッションデザイナーをしていることは、速水さんから聞いている。


 私にとっては会話の糸口として、一番適切だと思える質問だ。


「うーん、それがさ、クライアントの人が結構無茶言う人で、納期を一週間ぐらい早められちゃった。こっちだって新しいアイデア、ポンポンと出てくるわけじゃないのにね。まあ大型の案件だから、やるしかないんだけどさ」


「それは大変だね」


「うん。だからごめんなんだけど、もう少し帰りが遅くなる日は続きそう。由海、それでも大丈夫だよね?」


「う、うん。大丈夫」


「ならよかった。ところで、ご飯何食べた?」


「ううん。まだ食べてない」


「適当に食べていいって言ったのに。今すぐに作れるものっていったら、レトルトのカレーぐらいしかないけど、それでもいい?」


「うん、いいよ」


 私がそう答えると、遥さんは小さな鍋に水を入れてお湯を沸かし始めた。水が沸騰すると、レトルトのカレーの湯煎を始める。


 その間、私たちはあまり言葉を交わせなかった。遥さんと速水さんが普段どんな話をしているか、私はあまり訊けていなかった。


 もっと訊いておけばよかったと感じながらも、私は送られてきたラインの返事に注意を傾けていた。速水さんのスマートフォンはこまめに鳴っていて、その度に速水さんにどう返信すればいいか訊くわけにもいかないから、私は当たり障りのない返事に終始していた。元に戻ったとき、速水さんになるべく迷惑をかけないように。


「どうしたの、由海? 今日、口数少ないじゃん。何かあった?」


 ビールを手にして私の隣に座った遥さんに、私の心拍数は速くなる。テレビでは録画されたドラマが再生されていて、遥さんの耳につけられたピアスがひそやかに輝いていた。


「ううん、別に何もないよ」


「そう? ちょっと元気なくない? 何かあったら、すぐお母さんに相談してくれていいんだからね」


「ありがと。でも、私は大丈夫だから。今日はいつもより部活で疲れたってだけ。ご飯食べたらもう寝ちゃおうかな」


「そう。食べてすぐ寝たら太るよって言いたいとこなんだけど、疲れてるなら仕方ないね。でもだったら、私を待たずに何か食べちゃえばよかったのに」


「今考えてみればそうだね。そんなことも考えられないくらい疲れてたのかも」


「じゃあ、そこまで頑張った由海を労って、カレーにハンバーグもつけちゃおうかな」


「えっ、いいの?」


「いいのいいの。冷食だけど食べるよね?」


 私が頷くと、遥さんはビールをもう一口飲んで、ソファを立った。振り向くと、冷蔵庫から冷凍食品の小さなハンバーグを取り出して、電子レンジにかけている。


 遥さんとの会話をひとまずは無事に乗り切れたことに、私は内心で安堵の息を吐いていた。張っていた気が少し緩んで、代わりに疲れが押し寄せてくる。


 今日は色々ありすぎた。速水さんと話したいだろう遥さんには申し訳ないけれど、カレーを食べたらすぐに速水さんの部屋に向かおうと私は思う。思えばまだシャワーも浴びていないけれど、それは明日の朝、元に戻ってからでもいいだろう。


「由海、カレーできたよー」という遥さんの声がして、私はダイニングに向かった。今日はもうすぐ終わる。それと同時にこのよく分からない事態も終わってほしいと、私は一心に願った。





 レトルトカレーは、私の舌にはかなり甘かった。小さな子供が食べるような味だったけれど、もしかしたら速水さんは辛い食べ物が苦手なのかもしれない。美味しくはあったので、冷凍食品のミニハンバーグと一緒に食べ進める。


 それでも、私は小さくない違和感を抱いてしまう。今、ダイニングテーブルに座っているのは私一人で、遥さんはテレビでドラマを見ていた。私が勝手に何かを食べると想定して、もう外でご飯を済ませてきてしまったらしい。


 会話の量が少ないこと自体は、穏便に事を乗り切りたい私には助かる。だけれど、私は元の家族とは夕食は必ず一緒に食べていたから、どこか居心地の悪さは拭いきれない。遥さんと一緒の家にいるのに、一緒にいないみたいだ。


 速水さんは今頃私の家でどうしているんだろうか。私のお父さんとお母さんにうまく受け入れられているのだろうか。馴染めているのだろうか。


 でも、聞く必要はあまりないなと私は思う。どのみち今日一日で終わる事態ならば、深く気にしても仕方がないだろう。


 夕食を食べ終わると、私は寝る準備を最低限歯を磨くだけに留めて、二階の速水さんの部屋に向かった。整理が行き届いた速水さんの部屋は、私にはまだ慣れなかったけれど、リビングのソファで眠るわけにもいかない。


 私は部屋にあるものになるべく手を触れないように、一直線に電気を消してベッドに入った。今はまだ夜の一一時くらいで寝るには少し早かったけれど、そんなことは言っていられない。私は一刻も早く自分の身体に戻りたいし、そのために今取れる手段は眠ることしかないのだ。


 目を瞑る。でも、夕食を食べてすぐでは、かえって私は眠くはならなかった。疲れているはずなのに、目も冴えてしまっている。


 きっとそれは、私が今抱いている不安と関係があるのだろう。朝起きても、元に戻っていなかったらどうしよう。唯一の手掛かりが消え失せて、それこそお手上げだ。


 時折届くラインの通知音も、私が眠りに入ることを妨げた。「大丈夫?」と具合を心配してくれる高木さんや、今どうしてもすべきだとは思えないラインを送ってくる人たちに、それなりの返事をする。


 何回も眠りに入ろうとしては失敗し、気がつけばベッドに入ってから二時間が経っていた。それでも、私は必死に目を瞑り続けた。眠るのにこんなに苦労するのは、記憶にないくらい久しぶりだった。


 それが分かるのには、目を覚ましてものの数秒もいらなかった。まず感じたベッドの感触に、私は確信にも似た予感を抱いてしまう。


 おそるおそる目を開けてみると、視界に映ったのは昨日と同じ天井だった。それを機に、私の頭も一気に覚める。


 起き上がって確認するまでもない。ここは速水さんの部屋だ。つまり入れ替わったときと同じく、寝て起きたのにも関わらず、私たちは元に戻っていない。


 その事実に私は絶望した。朝日が強く差しこんでくる中で、途方に暮れてしまう。


 どうしたら元に戻れるのか。いや、そもそも私たちは元に戻れるのか。


 それを考えるためのヒントは、今は一つもなかった。ただ昨日と同じ今日が続いているだけだった。


 目を瞑ってみても再び眠りに落ちることはできず、どうしたらいいか私が泣きたいくらいの感覚でいると、枕元に置かれたスマートフォンが通知音を鳴らした。確認してみると、時刻の下にラインの通知が表示されている。


 短い文面は一目見ただけで、私の背筋を凍らせた。


〝戻ってないよね?〟


 ラインの送り主は「外崎千早希」。つまり速水さんだ。私がまだ速水さんのままでいるということは、当然その逆も然りなのだろう。


 私は縋るような思いで通知をスワイプし、ラインのトーク画面を開いた。震えそうな手をどうにか抑えて、返信を打ちこむ。


〝うん。戻ってない〟


〝寝て起きたら戻ってると思ったのに、何にも関係なかったのかな。ちょっとヘコむね〟


 ちょっとどころの話じゃない。私たちは振り出しに戻ってしまったのだ。いや、もしかしたら最初から一歩も進んでいなかったのかもしれない。


 私はにわかに焦り出す。平常心でいることはとてもできなかった。


〝ねぇ、私たちこれからどうしたらいいのかな。どうやったら元に戻れるのかな〟


〝それはあたしが聞きたいよ。どうする? 一回二人で学校休んで、対策話し合ってみる?〟


〝いや、それは難しいと思う。高木さんたちに心配はかけたくないし、今日もまた一緒に登校する約束してるから〟


〝まあ、それもそうだね。じゃあ、また昼休みにでも二人で話そう。それまでは申し訳ないんだけど、まだあたしでいてくれる?〟


〝うん。できる限り努力してみる。うまくできなかったらごめんね〟


〝分かってる。あたしもうまくやるから、外崎さんもよろしくね〟


 私が簡単な返事で同意を示すと、速水さんはそれ以上ラインを送ってはこなかった。スマートフォンの電源を切って、私は思いを固める。何かのきっかけで不意に元に戻る可能性はあるかもしれないけれど、それでもとりあえず今日もまた速水さんを演じなければならない。


 私はベッドから起き上がった。ふと横を向くと、今日も鏡に紛れもなく速水さんの顔が映っている。この顔に泥を塗るような真似はやめようと、私は決意した。





 私が部屋から起き出した頃にはもう、遥さんは仕事に行く準備をしていた。「パン焼いて食べてね」「今日も遅くなると思うから、ご飯先食べてていいよ」そう私に伝えて、颯爽と家から出ていく。


 一人残された私は食パンをオーブントースターにかけて、サラダやスクランブルエッグとともに食べた。スクランブルエッグは少し冷めてしまっていて、私の心に小さな穴を開ける。


 速水さんも毎日のように、こうして一人きりで朝食を食べていたのだろうか。


 想像しかけたところで、私は被りを振った。考えても意味のないことだった。


 朝食を食べ終わってから、高木さんが速水さんの家に来るまでには少し時間があった。


 私は昨日出された課題を、どうにかラインで速水さんから答えを訊き出して済ませた。多少ズルいやり方ではあったけれど、速水さんの評判を落とさないためだ。背に腹は代えられない。


 昨日浴びられなかったシャワーを浴びて、制服に着替えてもまだ多少時間が余ってしまう。


 私は洗面台に向かっていた。速水さんはいつもそれとなくメイクをしている。昨日、高木さんにもつっこまれたし、多少なりともメイクをしないと、また怪しまれてしまうだろう。


 でも、洗面台の前にある数々の化粧品に私は固まってしまう。私はメイクのいろはのいさえ知らない。そんな状態で下手にメイクを施してしまえば、逆効果になりかねない。


 私は今日もノーメイクでいくことを選んだ。幸い速水さんは元の素材がいい。私とは違って。


 高木さんは昨日とほとんど同じ時間に、速水さんの家へとやってきた。私もちょうど支度が終わったタイミングだったから、今日は待たせることなく家から出ることができた。


「今日もメイクしてないじゃん」「ちょっと時間がなくてね」「それくらい私だって待ったのに」そんな会話をしながら通学路を歩いていく。昨日で大体の道は覚えたから、私は高木さんの隣に並んで歩くことができた。


 だけれど、私の心にかかる負担は少しも軽くはならない。他の人と一緒に、しかも二日連続で登校するなんて、私には未だかつて経験がなかった。


 もしこのまま元に戻れなかったとしたら、明日も明後日も高木さんたちと一緒に登校しなければならないのだろうか。私はそれを、申し訳ないことに負担に感じてしまう。


 今はまだ大丈夫そうだけれど、この先付き合いの悪い奴だと見なされたら、それこそ元に戻ったときに、速水さんに面目が立たないと思った。


 宇都宮さんや稲垣さんとも合流して、私たちは四人で学校に向かう。話題は昨日一通り速水さんに教えてもらっていたけれど、それでも私はやっぱりあまり話に参加できなかった。高木さんたちにつまんない奴だと思われていたらどうしようという不安を抱きながら、それとなく相槌をして話に乗っかる。


 学校に到着して朝のホームルームのチャイムが鳴るまで、私は緊張から解放されることはなかった。隣に座る速水さんは私のキャラを守るように、机に突っ伏していたけれど、本心では高木さんたちと話したくて仕方がなかっただろう。


 そう思うと、私は本当に申し訳なく感じた。どうにかして元に戻る方法を見つけ出さなければと、よりいっそう感じた。


 身が入らない授業を何とか乗り越えて、学校には昼休みが訪れる。


 私は高木さんたちとの昼食を、必死に頭を回してどうにか乗り切って、「ちょっと行くとこあるから」と席を立つ。二日連続はさすがに不審に思われそうだったけれど、それでも最大限申し訳なさそうな態度を見せて押し通した。


 誰もついてきていないことを確認しながら、私は屋上へと続く階段へと向かう。踊り場には先に教室を出た速水さんが、私のスマートフォンを見ながら待っていた。


 何か私的なことを見られているんじゃないかと、私の胃はきゅっと縮む。


「外崎さん、お疲れ」


「う、うん。お疲れ様……。ていうか私のスマホで何見てたの……? 私のSNSのアカウントとか見てないよね……?」


「それは大丈夫。すぐにあたしのアカウントに切り替えたから。一瞬たりとも見てないよ」


 速水さんの言っていることが一〇〇パーセント真実なのかどうかは、正直疑わしい。もしかしたら私のSNSのアカウントや検索履歴なども、速水さんは見ているのかもしれない。特別なものは何一つないつもりだけれど、それでも恥ずかしさは否めない。私は気を遣って、なるべく速水さんのスマートフォンの中身を見ないようにしてたのに。


 それとも、私ももっと速水さんのスマートフォンを見てもよかったんだろうか。


 言い淀む私にも、速水さんは竹を割ったような表情をしていた。いつも何かを慮っている元の私からはあまり考えられない表情に、思わずドキリとしてしまう。


「さてと、戻れなかったね。元の状態に」



(続く)

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