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【第39話】私は私



 舞台袖から出た瞬間に、私の目ははっきりと客席を捉える。観客は一〇〇人ほど。ちらりと見ただけでも、すぐにお父さんやお母さん、高木さんたちの姿が確認できる。


 でも、ステージの上からは一目見ただけでもひとりひとりの観客の顔がよく見えて、私の知らない人の方がずっと多かった。その視線が全て私に向いている。


 先ほどのダンスチームが盛り上げてくれたおかげで、柔らかな表情をしている人が多くて、それは険しい表情をされるよりはよかったけれど、身体が固まりそうなほどの緊張を覚えるという点では変わらなかった。


 ギターをアンプにつないで、確認するかのように何回か音を出してみて、音像を調整する。そして、マイクを自分の口の高さにまで下げてから、私は客席に向き直った。


 今、ステージ上には私一人しかいない。どこを見ても誰かと視線が合ってしまいそうな状況は、私を改めて震え上がらせる。「早く始まんないかな」と口に出さずとも目が語っているようで、じわりじわりと追い詰められていく感覚がある。


 きっとすぐにでも歌い始めて、早いうちにステージを終えるのが最適解なのだろう。


 でも、私はなかなかギターを弾き出せなかった。ステージに慣れる時間が必要だ。そう思って、マイクに向かっておもむろに口を開く。


「み、皆さん。今日は西高祭に来てくださってありがとうございます。ど、どうですか。楽しんでますか?」


 私の声はマイクを通して、ちゃんと体育館中に広がった。その何倍もに増幅された声に、私は自分で怖じ気づいてしまう。


 声を出せば、少しは緊張も紛れるなんて思い違いも甚だしかった。しんと静まり返った観客席がその証拠だ。


 空気を読んでくれたのか、何人かの人が拍手で応えてくれたけれど、それも私の心を軽くするには至らない。こんな状況で歌い始められるわけがないと思ってしまう。


 だから、私はたとえ悪手だったとしても、さらに言葉を重ねるしかなかった。


「あ、あの、私たち本当は二人で出る予定だったんです。同じクラスの女子と一緒に。で、でもその子は急な事情で来られなくなってしまって。だ、だから私が今こうして一人でステージに立っているわけで……。ま、まあ言い訳するわけじゃないんですけど……」


 どうしよう。声が詰まっているのが、自分でも分かる。このまま話していたら、ずぶずぶと底なし沼にはまっていくだけだ。客席からの「まだ始まらないのかな」という視線が、刺すように痛い。


 かといってギターを弾き始める決心もつかず、立ち去ることもできない私は、ただの木偶の坊と化してしまう。


 こんなんじゃ出るんじゃなかった。申し込むんじゃなかった。


 そう私が後悔し始めた矢先だった。その声がしたのは。


「頑張れー!!」


 まったく予想だにしていなかった声に、私は驚いて俯きがかっていた顔を上げる。誰が言ったのかは、声だけで分かった。


 見ると、視線の先には清々しい顔をしている高木さんがいた。その表情は言葉とともに私を強く励ましてくれる。


 立て続けに宇都宮さんや稲垣さんも「頑張れー!!」「外崎さん、頑張れー!!」と、人目を気にしていないかのような大きな声で言っていて、私をこれ以上ないほど勇気づける。追い詰められていたところに差し伸べられた言葉に、涙腺を刺激されてしまう。


 それでも、ステージの上で泣くわけにはいかない。私はぐっと堪えて、顔を上げ続けた。


 決心を固める。


 今、私にできることは私に期待して待ってくれている人たちに応えること。それだけだった。


「えっと、じゃあ歌います。一曲しかないんですけど、聴いてください。『私は私』」


 一つ息をする。緊張は止まない。でも、演奏を始める助走ぐらいにはなる。


 私はしっかりとコードを押さえてから、ギターを弾き始めた。アンプから出る音が、後ろから押し寄せてきて、鼓膜から身体を揺らす。


 広がっていく音は、スムーズにコードを押さえられていることを私に教えてきてくれて、練習の成果をありありと示していた。私はこんなに緊張しているのに。頭で考えるまでもなく、身体が自然と動いているようだ。


 今のところ大きなミスはしていない。だから、私にも束の間顔を上げるだけの小さな余裕ができる。


 私の発表は、盛り上がる類のものじゃない。でも、観客全員が真剣に私の演奏を聴いてくれているようで、緊張はするものの、関心を持たれていることが嬉しくもあった。


 慎重にイントロを演奏して、私は顔を上げる。そして、自分の演奏に身を任せるようにして歌い出した。


何一つうまくいかない

なんて大げさな言葉

ノートにいったん書いてみて

二重線で打ち消した


 私はギターを弾きながら歌うことには、既に慣れている。シンプルなコードしか使っていないこの曲ならなおさらだ。


 だから、私は意を決して自分でも大げさだと思うほど、大きな声で歌い始めた。緊張で声は小さくなってしまうから、多少オーバーなくらいがちょうどいい。


 歌もカラオケで何度も他の曲を歌って練習したおかげか、多少は上手くなっている。少なくとも大きく音程を外してはいない。最低限、人に聴かせられる歌にはなっているだろう。


 練習をしていたのは速水さんの身体でだったけれど、感覚的な部分で私の音感は、ちゃんと研ぎ澄まされていた。


人生にいいことはない

とても悲しいワード

頭でぐちぐち唱えても

五十音にはならないよ


 歌いながら、観客の視線を一身に浴びながら、私の頭には速水さんの姿が思い浮かんでいた。私が大分手を入れてしまったが、この歌詞はもともと速水さんが書いたものだ。


 演奏に集中しろ。そう思っていても、ふとした瞬間に速水さんは今どうしているだろうかと、頭をよぎってしまう。


 だけれど、私はそれを無理して振り払わなかった。意識的に演奏に集中するようにしたら、かえって演奏が乱れてしまいそうだったし、速水さんが誘っていなければ私はここに立っていない。


 だから、私は頭が考えるままに任せた。幸い演奏や歌詞は、もう身に染みついている。


 もうすぐサビが来る。私は、喉にぐっと力を込めた。


他の誰かになりたい

願って願って願っても

結局私は私だけ

誰かになんてなれやしない


 二人分の想いが乗ったサビを、私は力を込めて歌う。自然とギターを弾く手にも力がこもった。


 練習でもこんなに感情を込めることはなかったのに、ステージの上で私は、思いの丈を叫ぶかのように歌っていた。


 もしかしたら、未だ感じている緊張をはねのけたい思いもあったのかもしれない。


 それでも、思いきって歌う私を観客はじっと聴き入ってくれていた。高木さんたちやお父さんたちの姿もはっきりと見える。私の演奏を聴き漏らすまいと真剣な表情をしていて、私に大きなエネルギーを与える。手を、口を動かす原動力になる。


 サビを歌い終えると、私は簡単な間奏をしてから二番を歌い始めた。体育館の空気に、歌い出す前の冷たさはもうあまり感じなくなっていた。


みんなが羨ましく見える

なんてないものねだりだよ

足りないものを挙げてみて

満ち足りてるって気づいたよ


 演奏をしているうちに緊張も解けてきた、とはとても言い難かったが、それでも私は少なからず演奏が軌道に乗り始めているのを感じた。一番を歌ったからか、喉も歌い始めるときよりかはずいぶん大きく開いて、私たちが作った歌を観客に届けてくれている。


 体育館はまだ緊張感が漂っていたけれど、私は出てきたときほど苦には感じなかった。観客は誰も私に険しい目を向けていなくて、敵じゃないと言った高木さんの言葉が、今なら分かる気がした。


 だから、私は徐々に前を向いて歌えるようになる。


 二番のAメロは一回きり。歌い終えればすぐにサビが来る。


別の人間がよかった

嫉んで嫉んで嫉んでも

つまりは私は私だし

生まれ変わりも夢の話


 私は二番のサビを一番同様、力を込めて歌った。一番のときは無理して力を込めようとして、少し力んでしまったものの、今はいくらか自然に演奏ができている。歌にも伸びやかさが加わったような感触だ。


 観客も、私の歌にちゃんと耳を傾けてくれている。手拍子をして盛り上げることはしていないけれど、それがかえって真摯に私たちの歌を聴いてくれているようで嬉しい。最後まで演奏できそうだ、やりきれそうだという気持ちが湧いてくる。


 私は二番のサビを歌い終えると、コードを弾くことをやめて簡単なギターソロを弾き始めた。練習している最中に思いついた、軽やかなリフを間奏に入れこんでいく。


 本当は速水さんがコードを弾き続けて、その間に私がギターソロを弾くという分担だった。だから、音が若干薄くなってしまうのは仕方がない。


 それでも、私は確かな心地よさを感じていた。誰もが私の演奏に釘付けになっているようにすら感じられる。


 たぶんそれは錯覚だろうけれど、それでも私は人前で演奏する気持ちよさを、存分に味わっていた。速水さんと二人だったら、どんなに気持ちいいことだろう。


 そう思うと、私は演奏しながら不意に泣きそうになってしまう。それでも、ぐっと堪え私はギターソロを弾き終えた。ここから最後のサビに突入する前に、まずBメロがある。


 私は今まで出てこなかった、新しいコードを弾いた。Bメロに入る前には、曲のキーを変える転調があった。


私は一人

オンリーワンは誇れない

私は私

万能感は譲れない


 私はギターの演奏を控えめにし、その分声を張った。ここは歌を聴かせたい箇所だ。


 もちろんそれはとても勇気がいることだったけれど、それでも演奏して気分が乗ってきていたことが、私にその選択をさせた。


 たぶん下手ではない。でも、群を抜いて上手いわけでもない歌で勝負する、私の選択が意外に感じられたのだろう。観客はほとんど動いていない。虚を突かれて戸惑っているのか、それとも私の歌に聴き入ってくれているのか。


 後者だといいなと思いながら、Bメロを歌い終えた私は、ギターを弾く手に力を込める。


 最後のサビへの短い橋渡し。曲のキーを元に戻すように転調して、私はすっと息を吸った。


 いよいよ最後のサビが始まる。


他の誰かになりたい

願うな願うな願うなよ

結局私は私だし

誰かになんてならないで


 体育館がしんと静まり返っている。私の歌とギター以外は。私は今この空間において唯一音を出している存在で、その自覚が私の演奏により熱を帯びさせた。


 もちろん、ギターはちゃんと弾かなければならない。でも、この迸る感情を余すところなく表現するには、多少ギターは疎かになってでも、歌声に力を込めたい。


 私は今までに開けたことのない口の大きさで、今までに出したことのない声の種類で歌う。


 今だけは速水さんが、遥さんがどうだとかは考えてはいられない。観客さえ、半ばどうでもいい。


 私は激しく歌う。強くギターを掻き鳴らす。


 私自身が一つの楽器になったみたいに。体育館の全てを、私から出る音で満たすために。


別の人間がよかった

嫉むな嫉むな嫉むなよ

つまりは私は私だし

生まれ変わりは夢でいいから

生まれ直しは目覚めた今日だ


 最後まで熱い気持ちは切らさない。このステージに、私が今持てる全てを置いていく。


 そんな思いで、私は最後のサビを歌った。前を向いていても、もはや観客の表情は目に入らない。私は私の世界に入りこんでいた。


 歌もギターも熱に浮かされるまま、まっすぐゴールに向かって突っ走っている。こんな感覚を音楽をやっていて、今まで私は味わったことがなかった。


 一人で閉じこもっていた時間も全てが悪かったわけではないが、ここまでの熱量は込められなかった。人前に出ることに怖じ気づいていた時間も長かったけれど、今は正しい選択をしたと思える。


 ずっと私は、他の人がいる前で歌いたかったのかもしれない。誰かが聴いてくれているという実感が、目に見える形でほしかったのかもしれない。


 歌いながら私は、自分が確かな一歩を踏み出したことを感じていた。


 今までの自分には、もう戻れない。でも、そのことが今だけは少しも不安じゃなかった。


 明日からも私は学校に通える、生きていけると何の根拠もないのに確信していた。


 歌い終わっても高い熱量をキープしたまま、私はアウトロを弾いた。シンプルなコードを繰り返すだけだから、間違える可能性は低い。


 私はありったけの力を込めて、右手を動かした。弦が切れても構わないという勢いで。


 アンプから粒だった音が聴こえる。あまりに力を込めていたから、音が少しひび割れている部分はあったものの、私の思いの丈を伝えるにはかえって好都合だった。


 集中して弾き続け、とうとう曲は終わりを迎える。最後のストローク。コードを押さえたままの左手。アンプから発せられる残響が、体育館中に広がっていく。


 私は演奏の余韻を十分に味わってから手を離す。そして、音が消えたのを確認してから、マイクに再び口を近づけて、「ありがとうございました」と口にした。


 声は全力で演奏したから少し息切れしていたけれど、それでも今自分にできる最高の演奏をした実感がある。


 私がお礼を言ってから拍手が鳴るのには、少しの時間も要さなかった。高木さんたちとお父さんお母さんから生まれた拍手は体育館中に伝播していき、私は期待していた以上の大きな拍手に包まれる。胸は誇らしい気持ちでいっぱいで、ステージに立ってよかったと素直に思う。


 私は感謝の意味を込めて、頭を下げた。拍手はすぐには鳴り止まない。観客からの称賛を存分に受けて、私は今までの人生でも感じたことのない、達成感に浸っていた。


 顔を上げて観客一人一人の表情を、今一度確認する。観客はまだ拍手を続けてくれていて、それが私には、私とステージに立てなかった速水さんをも祝福しているように聴こえた。



(続く)

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