【第38話】ステージ発表
「そういえばさ、由海、今日まだ見てないよね?」
唐突に稲垣さんが話題を変えて、私は和やかな空気に一筋の暗雲が垂れこめたように感じてしまう。高木さんも宇都宮さんも頷いていたから、私は追い詰められるような気さえ抱く。
速水さんは遥さんが倒れたことを、高木さんたちには伝えていないようだった。
「外崎さん、由海どうしたか知ってる? 何か連絡あった?」
そう訊かれて、私は息が詰まるような感覚がした。でも、一緒にステージに上がる予定の私が、「何もない」と嘘をついたら、あまりに不自然だろう。
だから、私はある程度正直に口を開く。
「うん。何か午前中ちょっと急用ができたみたいで。まだ来られないんだって」
「急用って?」
「さあ、そこまでは聞いてないかな」
なるべく自然な口調で言ったつもりだけれど、ごまかせているかは自信がなかった。詳しい経緯を隠していると、三人に思われても仕方がない。
だけれど、三人ははぐらかす私にも納得したのか、それ以上突っこんでは訊いてこなかった。
もしかしたら言いづらい理由だと推測したのかもしれない。だったら、その通りだ。
「そっか。それはちょっと気がかりだね」
「うん。でもさ、ちゃんと本番には間に合うように来るって言ってたから、そんな心配はいらないと思うよ。まあ、事前にリハなし合わせなしの、ぶっつけ本番になっちゃうとは思うんだけど」
「それ、大丈夫?」
「う、うん。まあなんとか大丈夫にするよ」
私は不安に駆られていて、顔を少し引きつらせてしまっていた。三人からの気遣う視線が、チクチクと刺さる。
これ以上この話題を続けたくはない。だけれど、別の良い話題も思いつかない。
私が困っていると、タイミングを見計らったかのように、スマートフォンがポケットの中で振動した。私はすぐに取り出して、画面を確認する。
ラインを通じて電話がかけてきたのは、紛れもなく速水さんだった。
「ごめん。ちょっと電話出ていいかな」
そう断ると、三人とも「いいよ」と頷いてくれた。それでも、速水さんからの電話に今は三人の前で出るわけにはいかない。それにここは、大勢の人の話し声で騒がしい。
だから、私は「ごめん」と再び断ってから、三人のもとから離れた。ほとんど走るような早足で、なるべく静かなところを求めていく。
でも、学校はどこもかしこも賑やかで、多少静かな場所といったら、学校から少し離れた路地くらいしかなかった。
「ごめん、速水さん。出るの遅くなって。どうしたの?」
私が静かな場所に向かう間も、速水さんはずっと電話をかけ続けてくれていた。だから、そのことに対する謝罪をまずして、私は速水さんの出方を窺う。
速水さんは落ち着いて話そうとしていたけれど、声だけでも逸る気持ちを抑えきれていないことが私には分かった。
「お母さんの意識が戻った」
その報告に、私は思わず声を跳ね上げて喜んでしまいそうになる。
だけれど、まだ気持ちが落ち着いていないはずの速水さんのことを考えると、そんな大げさな喜び方は憚られた。
「そうなんだ。よかったじゃん」
「う、うん……。よかったことには違いないんだけど……」
「どうしたの?」
「お母さん、戻ったのは意識だけで、まだ目を覚ましてはいないんだ……」
電話越しにでも分かるほど声のトーンを落とした速水さんに、私が感じた喜びは一気に引いていく。そんなことがあり得るのかとも、一瞬だけれど思ってしまう。意識が戻ると同時に目を覚ましてくれると、信じきっていたから。
でも、まだ心許ない思いを感じているだろう速水さんに、私は思ったことをそのまま口に出せなかった。ただ「そう……」という相槌に留める。
学校から文化祭の賑やかな音がずっと流れてくる。私たちの事なんて、何も気にしていないかのように。
「うん。だから本当にごめんなんだけど、あたしは学校には行けない。まだお母さんに何があるかは分からないから。このままいられる限りそばにいたい」
本当に意地の悪い言い方をすれば、速水さんは「本番には行く」という私との約束を破ってしまっていた。一人でステージに立つことが決まって、私の感じる心細さはいかほどか知れない。
だけれど、私は速水さんを責めなかった。一人しかいない親が倒れたのだ。目が覚めるまでそばにいたいと思うのは当然のことだし、最優先させるべきことだ。
それに比べたら文化祭での出番なんて、ごく些細なことにすぎない。久しぶりに自分の身体で、遥さんに会えたとなったらなおさらだ。
「うん、分かった」と私は返事をする。それ以外の言葉は、この状況ではまったく不適切だった。
「外崎さん、本当にごめんね。結果的に外崎さんのこと、裏切る形になっちゃって。外崎さんは私に懸命にギター教えてくれて、一緒に何時間も何十時間も練習したっていうのに。心から悪いなって思ってる」
「そんなこと思わないでよ。私、裏切られたなんてまったく思ってないよ。速水さんが遥さんのそばにいたいと思うのは当たり前だし、絶対にそうすべきことだから。速水さんが気にする必要なんて、これっぽっちもないんだよ」
「外崎さん……」
「速水さん。私、速水さんの分までステージに立つから。速水さんとの練習の成果を、ステージに全部ぶつけるから。だから、速水さんは遥さんのそばにいてあげて。そばにいて安心させてあげて」
「分かった。外崎さんのステージがうまくいくよう、あたしも祈ってる」
「うん、ありがと。だからさ、その代わりと言ったらなんだけど、出番が終わったら私もすぐに遥さんのところ行かせてくれる? 私だって思いがけない形とはいえ、遥さんとは一ヶ月以上も一緒に過ごしたんだし」
「そうだね。分かった。あたしが今いるのは梶原総合病院で、お母さんが入院しているのは六〇二号室だから」
「分かった。出番が終わったらすぐに飛んでいくよ」
「うん、待ってる。じゃあさ、もうそろそろ切っていいかな。あたし、早くお母さんのとこ戻りたいし」
「うん、分かった。こんな言い方しかできないけど、お大事にね」
「ありがと。外崎さんもステージ頑張ってね」
私が声に出して頷いて、「じゃあ、また」と確認をしあってから、速水さんは電話を切った。
スマートフォンをポケットにしまっても、私のけたたましいほどの心臓の鼓動はすぐには落ち着かない。一人でステージに立つことも心配だけれど、それ以上に遥さんが目を覚ましてくれるかどうかの方が、よっぽど気になって仕方ない。
いくつもの懸念事項を抱えて、私は頭を抱えてしまいそうになる。すぐに学校や高木さんたちのもとには戻れなかった。
すぐ隣でしているかのような文化祭の賑やかな話し声が、疎ましく感じられてしまっていた。
正直進んで戻りたくはなかったけれど、それでもこの路地にもずっとはいられないので、私は何とか自分を奮い立たせて、足を動かした。
三人のもとに戻ると、高木さんたちは何事もなかったかのように私を迎え入れてくれていたけれど、私は三人の前で自然な表情はできない。笑うことはおろか、顔を上げていることさえ、意識しなければ難しい状況だ。
あからさまに悪い私の顔色に、高木さんたちからも「どうかしたの?」と尋ねられたけれど、私は何一つ本当のことは言えなかった。ただ、曖昧にはぐらかすだけ。
進んで言いたくないことだと高木さんたちも理解してくれたのか、それ以上尋ねられることはなかったけれど、私はきまりの悪い思いを抱いてしまっていた。
それから少し話していても、私の胸に占める不安は大きくなるばかりだった。「ちょっと一人になって落ち着きたい」という私の申し出を、三人は受け入れてくれて、私は申し訳ないと思いながら、三人から離れる。
言葉通りになるべく一人になれる場所を探してさまよっていると、私の足は自然と屋上へと向かう階段に向いた。階下の騒がしい声は止まないが、それでも行ってみたら、そこにはやはり誰もいなかった。
私は階段に腰を下ろす。そして、何をするでもなくまずは息を整えることに注力した。
だけれど、ここは入れ替わっていたときに速水さんとよく来た場所だったから、私の脳裏にはその思い出がかわるがわるよぎって、頭も心も落ち着かない。速水さんが来られないことがより心細く感じられて、場所選びに失敗したかとも思ったが、賑やかな校舎では私に他に行ける場所なんてどのみちなかった。
せめてもの思いでワイヤレスイヤフォンを装着し、好きな曲をいくつか流す。聴いている間は多少気持ちは落ち着いたが、それでも聴き終わった後のことを考えると、私はどんどん臆病になってしまっていた。
それでも、速水さんと練習した時間を無駄にしないためにも、私は意を決して立ち上がり、体育館へと向かう。出演者の集合時間が迫っていたからだ。
体育館の舞台袖に、最初に出番を迎える三組が集まる。
舞台袖に入った瞬間、私の緊張はぶり返してしまう。ダンスチームや漫才コンビの生徒たちが、何度も私のことを目で窺ってきたからだ。私たちは事前の打ち合わせで顔を合わせているから、彼ら彼女らは私が速水さんと出ることを知っている。
だけれど、今私は一人だ。直接的に訊いてくる人はいなかったけれど、誰もが私のことを「どうしたんだろう」という目で見ていて、私はいたたまれなくなる。
おそるおそる同じ空間にいた実行委員に、一人で出ることを伝えに行く。口にすると、そのことが改めて確定して、私の心臓は早鐘を打ちながら縮んでしまう。
実行委員は一瞬目を丸くしていたけれど、すぐに「分かりました」と言っていて、速水さんの存在がどこか軽んじられているようで、私はやりきれなくなった。
ステージ発表の時間が近づくにつれて、体育館の客席にも話し声が増え始める。私が来たときはまだ一〇人もいなかったのに、今はその何倍もの観客がステージ発表の開始今か今かと待っていることが、舞台袖にいながら私には手に取るように分かった。ただじっと待っているだけなのに、服の下では緊張して冷や汗をかきつつある。
私たちの次の三組もやってきて、舞台袖の人口密度はさらに増した。私は何とか落ち着こうと、ギターを取り出してストラップを肩にかける。とはいえ、今できることはチューニングぐらいしかない。
早く出番が来てすぐにステージを終えたい気持ちも、このままずっと出番が来てほしくない気持ちも、その両方が私にはあった。他の生徒も多かれ少なかれ緊張していて、舞台袖は異様な空気になりつつある。
私はじっと耐えて、ステージ発表が始まる一二時を待つしかなかった。
永遠のように長く感じた時間もいずれ終わりがやってきて、私の耳は一二時を告げるチャイムが鳴ったのを聴く。
それと同時に、舞台袖の一番ステージに近いところで待機していた二人の男子生徒が、「どーも!」と言いながらステージに出ていった。明るい出囃子に後押しされながらの登場に、観客の視線が一斉に二人に注目したことが分かる。
司会の二人は軽く冗談を交えて客席を和ませようとしていて、ぽつぽつと笑い声も聞こえてきていたから、それはある程度はうまくいっているようだった。二日目ということで、客席も大分硬さが取れてきたのだろう。
それでも、私はいよいよ始まってしまったと、身に迫る感覚を覚える。十数分後には、あのステージの上に立って、観客の視線を一身に浴びている。
そう思うと、足が竦んでうまく動けなくさえなってきそうだった。
司会の二人が最初のダンスチームの名前を高らかに宣言して、体育館に流れる音楽もヒップホップに変わる。
イントロが始まってから少し間隔を置いて、そのダンスチームは弾かれるようにステージへと登場していった。六人の男女で混成されたダンスチームは、ステージに登場するやいなや小さくない歓声を浴びていて、二日目のステージ発表、そのいいスタートを切っていた。
きっと、ステージの上では一糸乱れぬキレのあるダンスが披露されていることだろう。客席から聞こえる手拍子も大きく、体育館に早くも一体感が生まれ始めていることを私は感じる。
それでも、私はダンスチームの発表を見ることはできなかった。頭の中は数分後に訪れる出番でいっぱいだった。
少しでも落ち着けるように、ゆっくりと呼吸することを心がける。だけれど、私は完全に心ここにあらずという状態で、平常心でいることはできるはずもなかった。
私がほとんどステージに目を向けられないまま、ダンスチームの五分間の短いようで長かったパフォーマンスが終わる。客席から鳴り響いた拍手は思いのほか大きくて、観客全員が一人残らず手を叩いているように思われた。
ダンスチームは十分に場を温めてくれた。それを私が一気に冷やすことにならないかと、不安がこの期に及んで膨らんでいく。前向きな気持ちにはなかなかなれない。
それでも、音楽とともにダンスチームが手ごたえを感じているような表情で戻ってくると、私は覚悟を決めなければならなかった。
ステージの上ではギターアンプやマイクといった私が歌うのに必要な準備が進められ、その間を司会の二人がトークで繋いでいる。
もうすぐだ。私がステージに向かうのは。
一秒一秒が経つのに比例するように、緊張が増していく。
そして、それは準備が完了して「それでは、そとはやさんです! どうぞー!」と司会の二人が声を合わせた瞬間に、ピークに達した。出ていきたいのに、足が金属になったのかのように動かない。
身体が出たくない、逃げたいと叫んでいる。
だけれど、ここで逃げてしまったら、速水さんと練習した時間はどうなる。
私は自分の中の臆病な気持ちを全て押しこめるように、重たい足を動かした。
(続く)