【第37話】リハーサル
リハーサルが始まるまではあと一時間ほどしかなかったから、私にぐだぐだ考えている時間はなかった。さっさと着替えを済ませ、リビングに向かう。
私が朝早く出発することは、お父さんとお母さんにも伝わっていたのだろう。ダイニングテーブルには朝食が並んでいた。私がリビングに姿を現すと、タイミングを計ったかのようにお父さんとお母さんもテーブルに座る。
以前までは日常すぎて、何も感じなかった風景。だけれど、未だに困惑している頭では私は自分の家にいるのに、どこか緊張めいたものを覚えてしまう。食事もどこか味が薄く感じる。
「今日は頑張ってね」という言葉に要約される、お父さんやお母さんとの会話にもいまいち身が入らない。二人は本番の日を迎えて緊張していると考えたのか、深くは突っ込んでこなくて、それが私にはいくらか助かった。
朝食を済ませた私は、適当に着替えを済ます。勝負服じゃないけれど、一番お気に入りの服を選んだ。でも、クローゼットの中には私の知らない服も入っていて、速水さんが自分で買ったのか、私の両親に買ってもらったのかなと思う。
化粧品も同様だ。洗面台にはずらりと化粧品が並んでいて、やっぱり速水さんが用意したものだと私は知る。メイクは速水さんの顔で慣れていたから、思っていたほど手間はかからなかったけれど、それでも自分の顔にメイクを施すのは私にとっては生まれて初めてで、どこか妙な感覚がした。
おかしな話だけれど、まだ自分の身体に戻ったことにも完璧に順応できていなくて、私の心は宙に浮いているようだった。
支度を終えて、ギターを背負って私は家を後にする。
速水さんになってからというもの、私は登校するときはいつも高木さんや宇都宮さん、稲垣さんと一緒だった。昨日だってそうだ。
でも、今の私は一人で学校に向かっている。今までずっとそうだったのに、言葉には表せないほどの寂しさを感じてしまうのは、私が一人じゃない状況にいくらか慣れていたからだろう。
リハーサルから高木さんたちを付き合わせるわけにはいかなかったけれど、歩くたびに学校が、本番が近づいていくという緊張感も相まって、私はじりじりと追い詰められるような心細さを感じていた。元に戻ったこと自体は、喜ばしいはずなのに。
リハーサルの開始時刻に間に合うように、学校に到着する。学校は準備に慌ただしい体育館を除けばしんと静まり返っていて、昨日の盛り上がり、そして今日これからもたくさんのお客さんが訪れるのが嘘みたいだった。
体育館に入った私は実行委員の人に簡単に挨拶をして、リハーサルの開始時刻、そして速水さんがやってくるのを待つ。人が少ない体育館はいつもよりも広く感じられて、私の不安はにわかに増幅していた。
早く速水さんの顔を見て安心したい。そう思う私をよそに、速水さんはなかなかやってこなかった。
私が焦れている間にリハーサルは始まってしまい、壇上では有志で結成されたダンスチームがフォーメーションダンスの段取りを確認している。それを数段下がった舞台袖で眺めながら、私は自分の鼓動が速まるのを感じた。まだリハーサルだというのに、もう本番同然に緊張している。
一人じゃ心細すぎる。
速水さんはまだかと私が焦る中、ポケットに入れているスマートフォンが振動した。速水さんからの連絡だろうか。私はすぐにスマートフォンを取り出す。
ラインを送ってきたのは、確かに速水さんだったけれど、その内容は私の想像とは全く違っていた。
〝ごめん、外崎さん。今日リハ行けない〟
その簡潔なラインに心は揺らいだけれど、それでも私は真っ先にトーク画面を開く。理由が知りたい。
私は〝どうして?〟とごく短いラインを送ろうとしたけれど、それよりも速水さんが次のラインを送ってくる方が早かった。
〝お母さんが倒れた〟
単刀直入に事実を伝えてきた速水さんに、私は頭を殴られたような衝撃を受けてしまう。
遥さんが倒れた?
にわかには信じたくないけれど、そんな嘘を速水さんがつくとも思えない。でも、私はやはりすぐには状況を呑み込めなかった。立て続けに思いもしなかったことが起きて、もはやリハーサルがどうという話ではない。
〝どういうこと?〟と、私は困惑をそのままラインにしてしまう。速水さんからすぐに返信がくる。
〝今朝、トイレで倒れているところを事務所の人が見つけたんだって。今病院に搬送されてるから、私もそっちに行かなきゃ。だから、リハには行けない。本当にごめんね〟
〝いや、速水さんが謝ることじゃないよ。それより遥さん、本当に大丈夫なの?〟
〝分かんない。今のところ命に別状はないらしいけど、でもまだ意識は戻ってないみたいだから〟
〝そう……。遥さん、早く意識戻ってほしいね〟
〝うん。私も本当にそう思うよ。だからさ、リハには行けないけど、本番にはどうにか間に合うようにするから。それまで待っててくれる?〟
〝分かった。私も遥さんが何事もないことを祈ってる〟
〝ありがと〟そう速水さんがラインをしたところで、リハーサルを終えたダンスグループが舞台袖に戻ってきて、私はおちおちラインをしていられる状況じゃなくなる。
スマートフォンをポケットにしまうと、しばらくして「次、二番目。そとはやさんリハーサルお願いします」という声が客席から聞こえた。私は弾かれるように、ステージに歩を進める。
数段の階段を上がると、ステージの中央にはマイクが二つ。その後ろにはギター用のアンプが同じく二つ置かれていた。シンプルなステージに、かえって私の存在が強調されるようで、私はかすかに恐れおののいてしまう。
一人でステージに立つことは、心細いなんて言葉ではとても足りなかった。
アンプにギターを繋いで、マイクの高さを調節した私は改めて客席を見回す。今体育館にいるのは、リハーサルを控える数人の出演者ぐらいだったが、それでも私は息を呑んでいた。たとえ数人でも見られているという意識は、私の身体を強張らせる。何十人もの観客が入っているところを想像しただけで、目眩がしそうだ。私の隣には誰もいなかった分余計に。
客席の一番前で、実行委員の男子生徒が不思議そうな顔をしている。もう事前の説明で何回か会っているから、すっかり私はその顔を覚えてしまっていた。
「そとはやさん、一人ですか?」
「は、はい。もう一人はちょっと急用ができて、今は来れないみたいです」
「そうですか。本番には来てくれますか?」
「は、はい。たぶん」
「分かりました。では簡単でいいので、演奏の方をお願いします」
実行委員に促されて、私は演奏を始める。リハーサルは音響等の確認がメインだから、フルコースを歌う必要はない。そう事前に聞いていたから、私はひとまず一番のサビまでを歌うことにした。
平常心だと自分に言い聞かせて、まずはイントロのギターを弾き始める。まずアンプから出る音量を増幅させた音が、私を驚かせる。
さらに人数は少なくても、体育館にいる全員の視線が私に集中していて、顔を下げているときはいいが、いざ歌いだそうと顔を上げた瞬間に、全員の表情が明確に見えたから、私は胸が詰まった。歌いだしも頼りなく、カラオケルームでの練習の時のような声は出ていない。
何とか自分を奮い立たせ、喉を解放して腹から声を出そうとする。幸い練習を積んだおかげで、ギターはそつなくできている。
でも、歌の方はそうはいかなかった。緊張しているのがまるわかりで、一人でステージに立つのはこんなにも大変なんだと私は思い知らされていた。
自分は本来もっとできるのに。でも、身体が心についていけていない。
結局、私の演奏は小さくまとまってしまっていて、無料でも許される出来ではなかった。
「ありがとうございます」私が演奏を終えてから、実行委員がそう言うまでに少しの間があった。その微妙な間が、私の演奏の出来を悟らせる。
「何か気になったところはありますか?」
「あっ、いえ、特にないです……」
「分かりました。では、本番もこの調子でお願いします」
「は、はい」と私が曖昧に頷くと、リハーサルはあっという間に終わった。こんなにも簡単に済むのかと思うほど、あっけなく。
私は「はい、ありがとうございます」とお礼を言ってから、アンプからシールドを抜き、足早に舞台袖へと立ち去った。すぐにギターをギターケースにしまう。
実行委員の生徒たちが、次の漫才コンビの準備を進めている中で、私は舞台袖で一人佇んだ。ステージは立つ前よりも広く見えて、一人だと持て余すどころの話じゃない。
私は心の底から遥さんの意識が戻って、速水さんが学校に来てくれることを望んだ。大丈夫なのかどうか尋ねるラインもしたくなる。
だけれど、私はスマートフォンを取り出さなかった。突然の事態にいっぱいいっぱいな速水さんに、余計な負担をかけたくはなかった。
文化祭は今日も朝の一〇時に開場して、日曜日ということもあってか、一日目よりも多くの人たちが訪れていた。私入場制限がかかって入れなかった展示もあったほどだ。
このままだったら一二時からのステージ発表にも、きっと昨日を超える人が集まるに違いない。その光景を想像して軽く怖じ気始めた矢先、私は今日も学校に来ていた高木さんたちと出会う。
三人は私を見つけるやいなや声をかけてくれて、自分たちの輪に私を入れてくれた。まだ速水さんが作ってくれた貯金が生きている。だから、私はその貯金をなるべく減らさないように楽し気に振る舞う。
それは元来の私の性格、出番が刻一刻と迫っている今の状況からは少し距離があって、自分に戻ったはずなのに、昨日までの私をイメージして演技をしているのは、なかなかに不思議な状況だった。
「外崎さんさ、やっぱり緊張してる?」
いくつかのクラス展示を回った後に高木さんに声をかけられたのは、私がどこか空回っている証拠だった。宇都宮さんや稲垣さんも、私に心配するような目を向けている。
これ以上嘘の笑顔を続けても、かえって私の心は苦しくなるばかりだ。幸い三人のことは速水さんだったときの付き合いで少しは分かっているから、私は演技をやめても受け入れてくれるだろうと思えた。
「ま、まあね。確かにほんのちょっとだけど、緊張してるかも」
「いや、ちょっとどころじゃないでしょ。外崎さん、自分で気づいてないかもしれないけど、表情硬かったよ。大丈夫?」
「ま、まあ、大丈夫だとは思いたいよね」
「それ、思えてないってことじゃん。大丈夫だって。外崎さんは、今日のためにめっちゃ練習してきたんでしょ。実際に見た訳じゃないけど、それは私たちも分かってるから。練習通りにやればいいんだよ」
気軽に言ってくれるなあと、私はそう口にした宇都宮さんに思う。
当たり前の話だけれど、練習と本番は違う。練習でできたことが本番でできる保証は、一つもない。女バスに入っている宇都宮さんなら分かりそうなのに。
それでも私はそういった思いを呑み込んで、「まあね」と曖昧に笑う。その表情は鏡を見るまでもなく、ぎこちなかった。
「外崎さんさ、もしかしてお客さんのこと、敵みたいに思ってる?」
そう言ってきたのは高木さんだった。思いもよらない言葉に、私は疑問形の声を返してしまう。でも、言われてみれば、そう思っている節もある気がする。少なくとも観客の前に上がるからには、ミスは許されないだろう。
「それ、私は違うと思うよ。外崎さんがしようとしてるのは、相手があるスポーツやゲームじゃないでしょ? そこに敵とか相手とか、勝ちとか負けとか本来存在しないんだよ。今日来てくれるお客さんは、まあ全員が全員じゃないかもしれないけど、外崎さんたちがどんな歌を歌うのか楽しみにしてる人たちだと思うし、そうじゃなくても、外崎さんたちのことを粗探ししてやろうみたいに見る人は、一人もいないんじゃないかな。文化祭ってそういう場所じゃないし」
高木さんの見解に、私は一理あるなと思った。確かに今日うまくいかなくても、私の何かがジャッジされるわけじゃない。もしそうなっても、私のことなんて多くの人がきっと、数日経てば忘れてしまうだろう。
もともと私はぼっちだったのだから、これ以上落ちようもない気もする。それはそれでキツいけれど。
「だからさ、外崎さんに敵はいないんだよ。あまり関心を抱いていない人を除けば、全員味方。だから、そんなに怖がらなくてもいいと思うよ。少なくとも私たち三人は、絶対に外崎さんたちの味方だから」
高木さんの言葉を補強するかのように、宇都宮さんと稲垣さんも頷いていたから、私を励ますために思ってもいないことを言っているわけではなさそうだった。
たぶんほとんどの人が私に関心がないだろうし、たった三人だけというのはまだ心細くもあったけれど、それでも素直に「ありがと」と答えられる。期待をかけられていることはプレッシャーもあったけれど、確かに嬉しくもあった。
微笑まし気な表情を見せる三人。多くの人たちが行き交う中で、私たちは中庭のベンチに腰かけて、明るい時間を過ごせていた。
(続く)