【第36話】文化祭の朝
「文化祭が終わっても、ギター続ける?」
何気ない私の質問に、速水さんは表情を緩める。
「うん、続けたいなって思うよ。元に戻っても、そうじゃなくても。だって外崎さんの部屋にあるCD聴いてるうちに、好きだなって思う曲いっぱいできたから。一個ずつコピーしてみたい。そう簡単にはいかなくても、弾けるようになったときの喜びを、私はもう知っちゃったわけだしね」
速水さんが小さくはにかむ。それを見て私は、自分の顔なのに悪くないと思った。
今まで私は、学校では意識して笑わないようにしていた。だって可愛くない私が笑っても、気持ち悪いだけだから。
でも、それは私の勝手な思い込みで、本当はもっと自由に笑ってよかったのかもしれない。私の笑顔は思っていたよりも気持ち悪くないと、速水さんが証明してくれている。
「そうだね。言ってくれれば、楽譜コピーして渡すよ。まあ私の部屋にあるバンドスコア限定だけど」
「うん、助かる。じゃあ必要になったときにお願いするね」
「うん、任せといて」
私たちはもう一度小さく笑いあって、前向きな感情を交換した。こうやって何の気兼ねもなく笑えることは、以前の私だったら考えられないことだ。それだけで、この事態も速水さんが言うように悪いことばかりではないと思える。
信号は私たちが差しかかる瞬間には全部青で、私たちは立ち止まらずに帰れていた。まるで私たちの未来を照らすかのように。
「じゃあ、私、家こっちだから」
「うん、知ってる」
私たちは速水さんの家へとつながる交差点に差しかかる。ここを左に曲がって少し歩けば、速水さんの家だ。もうかなり慣れてきている速水さんの家。
「じゃあね、速水さん。また明日」
「うん、外崎さん、明日頑張ろうね」
私は思いっきり頷いて、速水さんのもとを離れる。速水さんは手を振ってくれていたから、私も少しの間手を振り返しながら歩いた。
しばらく歩いて、ふと振り返る。すると、街灯に照らされた速水さんはまだ手を振っていて、思わず笑みがこぼれた。
私も再び手を振り返す。離れていても、私たちの距離は隣にいるかのように近かった。
私が速水さんの家に戻っても、遥さんはしばらくは帰ってこなかった。改めて速水さんの部屋でギターの練習をしたり、勉強してみたりしていても、なかなか玄関が開く気配はない。
だけれど、私は言うほど焦らなかった。昨日も遥さんは、日付が変わる頃になってようやく帰ってきた。かつてない大型案件が、今まさに山場を迎えているらしい。だから、今日もそれくらいの帰宅になることは、私には十分に予想できた。
炊かれていたご飯を、温めたレトルトカレーと一緒に食べる。栄養価があるとはあまり言えない食事でも美味しくはあったので、私は手を止めずに食べ進められる。たった一人の食事にも、私は慣れつつあった。
そのラインが送られてきたのは、さすがに私もまだ帰ってこないのかなとやきもきし始めた、夜の一〇時すぎだった。スマートフォンが鳴らした通知音に、私は勉強を中断してすぐに飛びつく。
待ち受け画面に表示された遥さんからのラインは簡潔で、わざわざトーク画面を開かなくてもいいくらいだった。
〝ごめん。今日会社に泊まることになった〟
その文面を見て、私は手を口に当ててしまう。遥さんが会社に泊まるというのは、少なくとも私が速水さんになってからは、前例がなかった。こうなる前は、こういったケースもあったのだろうか。
遥さんは今日も私が起きた頃に出かけていたから、あまりの長時間労働に私は心配せずにはいられない。返信をしようと、トーク画面を開くと、立て続けに遥さんからのラインが再び送られてきた。
〝帰れなくて本当にごめんね。でも、今日が忙しさのピークだから。さすがに明日には帰れると思うから〟
本当は今すぐ帰ってきてほしい。不安な気持ちを遥さんと一緒にいることで、少しでも和らげたい。
でも、そんなわがままは私には言えなかった。これは遥さんのキャリアがかかった重大な仕事なのだ。そこに元々は無関係だった私が口を挟んではいけない。
〝うん、分かった〟〝でも無理はしないでね。身体にだけは気をつけて、明日ちゃんと帰ってきてね〟というラインを立て続けに送る。
文化祭を終えて、無事にまた遥さんと顔を合わせること。それが今の私には一番の優先事項になっていた。
〝うん、分かってる。ちゃんと仮眠もとりつつ頑張るよ。由海も明日頑張ってね。良い演奏ができるように、私も願ってるから〟
〝ありがとう。私も練習の成果を出せるように頑張るよ。帰ってきたらたくさん文化祭の話、聞かせてあげるね〟
〝うん、楽しみにしてる。じゃあ、由海。ちょっと早いけどおやすみ。明日に向けて今日はゆっくり休んでね〟
〝うん、おやすみ。お母さんも本当に無理だけはしないでね〟
遥さんは私のそのラインに既読をつけただけで、返信を送ってはこなかった。それでも、もうやり取りは終わったから、私は怪訝には思わない。
きっと遥さんは、仕事に戻っていったのだろう。だとしたら、私も遥さんと文化祭が終わった後にまた顔を合わせられるよう、願うしかない。
私はスマートフォンから目を離して、勉強に戻った。複雑な三角関数も速水さんに教わった今では、私は多少なりとも解けるようになっていた。
それでも、集中力は一時間と持たず、私は机を立つ。ギターを練習するにはもう時間帯が遅すぎるから、部屋を出て浴室に向かう。メイクを落として、シャワーを浴びて、歯を磨く。
一通り寝る準備を整えてから、私は日付が変わる前にベッドに入った。明日は八時から、ステージ出演者のリハーサルがある。出番が早い私たちは、その分リハーサルの時間も早い。
だから、万全な体調で臨むなら、そろそろ寝なければならなかった。
それでも目を瞑ってみても、私はなかなか眠れない。まださほど眠くないということもあったが、明日への緊張が私になかなか眠りに落ちることを許さなかった。いくら楽しみな気持ちはあっても、それ以上にドキドキが今はまだ大きい。
どうにか目を瞑って、でも寝れなくて目を開けてスマートフォンで時刻を確認し、また目を瞑る。そんなことを何回か繰り返して、私はようやく眠たくなる。
自然に生まれてきた眠気に身を任せると、私の意識は少しずつ和らいでいった。瞼の裏には、速水さんと一緒にステージに立っている自分が映る。
視点は私たちに寄っていたから、客席の雰囲気までは分からない。でも、私たちは大きな破綻もなく、演奏ができていた。
それを夢だと、私は確かに自覚する。正夢になってくれることを、瞼の裏に映る光景の外から願った。
目を覚ましたときから、私の身体ははっきりとした異変を感じていた。敷き布団の硬さが違う。掛け布団の感触が違う。
そして、それは目を開けた瞬間に、紛れもない現実として私に襲いかかってきた。
天井が白いのだ。
私がここ最近、毎朝見ていた天井は木目が強調されていたというのに、今日は壁紙と同じようなオフホワイトだ。さらに身体の感覚も違う。横になっていても明らかに足が短くなっているのを感じられるし、胸のあたりも昨日までよりずっと軽い。これはまさか。
私は起き上がる。目に飛びこんできた光景は、私に一瞬で事態を把握させた。
本棚には小説やCDが並び、壁にはバンドのポスターが貼られている。ベッドの横のギタースタンドに懸けられているギターは、私が普段使っていたものだったし、枕元にはあのとき以来に見るぬいぐるみが横たわっていた。ここのところ毎朝感じていた、眩しい朝の日差しも今は入ってこない。
私は元に戻っていた。そして、ここは元の私の部屋だ。
事態の把握は一瞬で済んだものの、それを頭が処理できるかどうかは、また別の問題だった。
今まで何度寝て起きてみても、まったく元に戻らなかったのに、どうして今日になって急に入れ替わりが終わったのか。メカニズムがまったく分からない。
もちろん、元に戻られたことは嬉しい。だけれど、目覚めてからも相変わらず速水さんでいる、速水さんのままでステージに臨むことを想定していた私は、はっきりと戸惑ってしまう。
なんで。どうして。よりによって今日に。
軽くパニックになった頭は、ひとまずもう一度眠ってみて、事態を整理するという行動を起こさなかった。ただ、私は部屋のあちらこちらを見て、狼狽えてしまう。
入れ替わったときと同様何の前触れもなかったから、私は涼しい部屋の中で、冷や汗さえかきそうだった。
そんなときだった。私のスマートフォンが通知音を鳴らしたのは。あまりに唐突だったから、私は思わずびくついてしまう。
でも、画面を見るのにためらいはいらなかった。通知音が鳴った理由の見当はついていたし、今はこの訳の分からない状況に少しでも納得したかった。
〝戻ってるよね?〟
挨拶抜きでシンプルに本題を送ってきたのは、案の定速水さんだった。私が私に戻ったということは、その逆もまた然りだ。
私はすぐさまラインのトーク画面を開く。そして、手早く返信をした。
〝うん、戻ってる〟
〝どうして急に今日戻ったのかな。外崎さん、何か心当たりある?〟
〝ううん、全然ない〟
私たちのやり取りは打てば響くように早く、速水さんも困惑していることが伝わった。望んでいた状態に戻れたから、混乱はしていないけれど、それでも急に元に戻った理由はやっぱり分からない。
それでも、私の困惑した頭に一つの思いがよぎる。そんな場合じゃないと思ったけれど、それでも気にせずにはいられなかった。
〝ねぇ、速水さん。ギター弾ける?〟
〝ちょっと待って。今やってみる〟
そのメッセージを最後に、速水さんからのラインはいったん途絶えた。スマートフォンからギターに持ち替えたのだろう。
私も同じように、ギターを持って弾いてみる。大丈夫。ちゃんと弾けるし、歌えている。シンプルなコードの簡単な構成が幸いした。
私がかすかに安堵していると、再びスマートフォンが通知音を鳴らした。私は飛びつくようにスマートフォンを手に取る。
〝大丈夫だった。ちゃんと最後まで弾けて歌えた〟
〝そう。よかった。じゃあ、今日のステージも出れそうだね〟
〝うん、まあそうだね〟
ステージよりも、もっと他に気にすることはいくらでもある。それは私も分かっていたけれど、細かいことはステージが終わってから考えればいいとも思った。
事態が飲み込み切れていない状況で、良い演奏ができるか心配にもなったけれど、それは今は別の話だ。どうなろうと、私たちはステージに上がるしかない。
同じことを速水さんも思ったのか、〝とりあえず、リハ前に一回会う時間を作ろう。詳しいことはその時話せばいいから〟と送ってくる。私も〝うん、分かった〟と簡潔な返信をした。
早く速水さんに会って、少しでもいいから気持ちを静めたかった。
(続く)