【第35話】帰り道
音の波が体育館を揺らしている。誰もがリズムに乗っているようで、館内には大きな一体感が生まれている。ステージで演奏している男子生徒たちも、気分が乗っているのかますます楽しそうに熱のこもった演奏をしている。
座って見られる観客席のさらに前の立見席に私はいて、壇上の彼らが演奏する曲を楽しんでいた。彼らは人気ロックバンドの曲をコピーしていて、元の曲の知名度に多くの観客が湧き立っている。
彼らは持ち時間を最大限盛り上げるためにアッパーなロックチューンばかりを選曲していて、それは功を奏していた。私としても好きなバンドベスト10に入るバンドの曲だったから、全曲を知っていて、彼らはなかなかに演奏もうまかったから、文句なしに音楽に乗ることができた。
本当のバンドのライブに行っているみたいに手を振り上げたくなるし、実際前の方のノリのいい男子生徒は何人かそうしている。開幕式の冷めていた空気はもう見られない。
そして、今私の横では速水さんが、愉快そうに表情を綻ばせている。私の部屋にあったベストアルバムやオリジナルアルバムを聴いたらしい。曲が始まるたびに「これ○○だよね」と私にこっそり訊く声は弾んでいて、私も速水さんが楽しんでいるのは喜ばしかった。
今は私の姿でいるから、ステージを見上げるために常につま先立ちしているのは、少し申し訳なかったけれど。
ステージ上のコピーバンドは、MCをせずに、ずっと曲を演奏し続けるスタイルだった。持ち時間は限られているし、数曲しかやらないのだから、手も腕も何とか持ってくれるという判断だろう。
たとえ少しチューニングが狂っていたとしても、自分たちが演奏したい曲を一曲でも多く演奏して観客を盛り上げようとする姿勢を私は支持したい。高校生のコピーバンドに、聴き入るような上手い演奏なんて誰も求めていない。
だから、精いっぱい会場を盛り上げて良い思い出を作ろうという彼らの選択は、何も間違っていなかった。
一つの曲が終わって、そのままドラムが流れるようにバズドラムとハイハットを刻む。ボーカルがそれぞれのメンバーを紹介すると、紹介されたメンバーは簡単なフレーズを弾いて応える。
本当のバンドのライブを見ているような流れに、私は魅了されて、他の観客と同じようにバズドラムに合わせて手拍子をしてしまう。隣では速水さんが精いっぱい腕を上げて、同じように手を叩いていた。
「皆さん、盛り上がってますかー!!」
ボーカルの生徒が、客席に向かって呼びかける。開幕式で実行委員長が同じ呼びかけをしたときはスベっていたのに、今は多くの観客が歓声で応えている。
壇上の彼らはすっかり観客の心を掴んでいた。
「次で最後の曲です!! 俺たちの出番は終わっちゃいますけど、これからも西高祭、最後まで盛り上げていきましょう!!!」
「いくぞーーー!!!!!」そうボーカルの生徒が声を張り上げると、ドラムの生徒が改めてカウントを発し、最後の曲が始まった。コピー元のバンドを知らない人でさえ、この曲は知っているというくらいの有名曲のスタートに、体育館がさらに湧き立つ。観客席に向かって拳を振り上げて煽っているボーカルの生徒に、私も乗っかりたいくらいだ。
速水さんもきっとこの曲が好きなのだろう。私に訊くまでもなく腕を振り上げている。
今までの私だったら、まるでできない行動だったけれど、観客の目は全員ステージに向いていて、私たちは立ち見席のなかでも後ろの方にいたから、誰かに見られている心配もあまりなかった。宇都宮さんと稲垣さんは受付の当番をしているし、高木さんは部活の友人とクラス展示を回っている。
だから、私もサビになると、腕を振り上げて音楽に乗ることができた。速水さんの姿からすれば、きっと大それた行動ではないだろう。
それに身体で音楽を楽しんでいることを表現するのは、純粋に気持ちがいい。文化祭を満喫していることは、以前の私からは考えられなかったけれど、それでも悪くない気分だ。
明日には私たちもあのステージに、たった二人で立っている。
でも、そんなことを考える暇もないくらいに、私はステージ上で演奏される大好きな曲に、身も心も預けていた。演奏は盛り上がったまま終わり、まだ余韻を味わっているような立見席の中で、私は速水さんの方を向く。
速水さんはこれ以上ないほどの清々しい笑顔をしていて、私の顔も自然と綻んだ。
文化祭一日目のプログラムは四時に幕を閉じた。結局私と速水さんは最後までいて、ステージ発表を見たり、クラスや部活の展示を回ったりと文化祭を存分に味わった。明日は日曜日でさらに人出も増えるだろうし、私たちのステージ発表の順番は二番目だから、緊張で何を見てもいまいち楽しめないだろう。
もちろん早く帰って、ギターに触りたいという気持ちもあったものの、速水さんや高木さんたちに付き合って回った文化祭は、正直楽しく感じられるときも少なくなかった。どのクラスも日頃の些事や、再来週に控えている中間テストのことも今だけは忘れて、精一杯楽しもうとしている姿に胸打たれる瞬間も何度かあった。
今まで文化祭というものを毛嫌いしていた私だけれど、文化祭を楽しみにしている生徒の気持ちも何となく分かる気がする。当然今年の文化祭が良い思い出になるか悪い思い出になるかは、明日のステージ発表次第だけれど、少なくとも私は今は、去年もう少しまともに文化祭に関わっておけばよかったなと、軽く後悔さえしていた。
文化祭一日目が終わって、それなりに後片付けや明日への準備はあったものの、私たちは幸い明日ステージ発表があるからと免除されて、すぐにそれぞれの家に戻れた。
一秒でも早くギターに触りたかった私は、当然のことながらすぐにギターケースを持って速水さんの家を出る。駅前のカラオケ店の前で速水さんを待つ時間さえ、今までにないほど長く感じられた。
しばらくして速水さんがやってきて、私たちはカラオケ店に入る。なまじ出番が早いから、明日は練習する時間はあまり取れず、実質的に今日が本番前最後の二人での練習だ。
それに起因する緊張感は確かに室内に漂っていて、私は必要以上に喉が渇いてしまう。さすがの速水さんもプレッシャーを感じているようで、表情は穏やかだったものの、完全に落ち着いているとは私には思えなかった。
それでも、私たちは練習の甲斐あってか、もうほとんどミスせずに演奏できる。歌もしっかりと合っているし、速水さんも顔を上げて、前を向ける時間が多くなっている。練習通りやれば何も問題ない。
きっと明日も今日と同じように、何十人もの人がステージ発表を見に来るのだろう。そのことに怖じ気づく気持ちはあったが、速水さんが隣にいれば大丈夫だと、私は練習を重ねる中で思えるようになっていた。
私たちは時間の許す限り一緒に歌う回数を重ねて、あっという間に二時間パックの終了時間を迎えていた。最後は今までにないくらい歌もギターもがっちりと噛み合って、私たちは手ごたえを感じたままカラオケ店を後にできる。
既に空は完全に日が落ちて、夜の雰囲気をかなり濃くしている。肌に触れる空気も、もうすっかり秋だ。
私たちは帰る方向が途中までは同じということもあって、一緒に駅前通りを歩いていく。店やテナントの明かりで煌めく中を抜け出して、街道に出たとき、速水さんがふと口を開いた。
「明日、いよいよ本番だね」
わざわざ確認するまでもないことを言ったのは、速水さんも少なからず緊張しているからか。私はただ「そうだね」と答える。それ以外にどんな言葉を返したらいいか分からなかった。
「どう、外崎さん。緊張してる?」
速水さんはからかうように言ってきたけれど、その声はどこか空回っていて、私の中で予測が確信に変わる。いつも堂々としていて、それは私になってからも変わらなかった速水さんの、意外な一面を見た思いだ。
「別に。全然してないよ。って言いたいとこなんだけど、そりゃまあちょっとはね。だって私にとっては、初めて多くの人の前で歌うわけだし。ていうかこんなこと言わせないでよ。改めて言ったら、余計緊張してきちゃったじゃん」
「ごめんごめん」そう速水さんはあっけらかんと言っていたけれど、私は仮面の下の速水さんの本心をわずかにでも垣間見てしまう。
こんなこと訊くなんて、自分でも意地が悪いと思う。それでも速水さんも同じように訊いているから、おあいこだろう。
私は深刻にならないように、なるべく自然な口調を装った。
「そういう速水さんはどうなの?」
「どうって?」
「緊張してるかどうかって話」
私がお返しとばかりに発した疑問に、速水さんは小さく笑ってみせた。
「そりゃまあ、緊張しないって言ったら嘘になるね。あたしも初めて人前でギター弾きながら歌うわけだし、この一ヶ月間は何度も練習したけど、それでもうまくできるかって不安に思う気持ちはあるよ」
「へぇ、なんか意外。速水さんってテニスの大会にも出てるし、人前に出るの慣れてると思ってた」
「別にそんなことないよ。あたしだってただの高校生なわけだし。多くの人の前に出るってなったら、そりゃ緊張はするでしょ」
速水さんは事もなげに言っていて、それに私はむしろ安心さえした。速水さんも私と同じ高校に通っている同い年の女子にすぎないという当たり前の事実が、心を落ち着けるのにいくらか役立つ。
「でも」と速水さんが言葉を繋ぐ。まだ何か言いたそうな気配に、私はもう一度耳を傾けた。
「明日、あたし楽しみでもあるんだ」
「楽しみ?」
「そう。外崎さんが作ってくれた良い曲と二人で書いた良い歌詞を、初めて人に伝えられるんだよ。あたしが全部作ったわけじゃないんだけど、それでもあたしは明日やる曲に自信を持ってるから。それを人前で披露できるのは、嬉しいよ」
「嬉しい、ね」
「何、その言い方。外崎さんは違うの? 明日ちょっとでも楽しみだなって思わない?」
心底不思議そうにしている速水さんに、私は虚勢を張ってはいないと気づく。そして、私はそう思える速水さんが羨ましい。私は自分たちの曲が、演奏がどう受け入れられるか不安で仕方ないのに。拍手ももらえず、しんとした体育館の雰囲気を想像するだけで、身の毛がよだつようだ。
でも、それは考えても仕方ないことだろう。私は「そうだね」と、首を縦に振った。楽しみだと自分に言い聞かせることで、本当に楽しみに感じられるかもしれないと思った。
「そうでしょ。それにさ、私こんな状況になってちょっと感謝してる部分もあるんだ」
その言葉が意外だったから、私は半ば無意識のうちに「感謝?」と訊き返してしまう。私は速水さんになってから、速水さんらしく振る舞うことに苦労しきりなのに。
「そう。だってさ、こんな状況になってなかったら、私はギターやってなかったと思うから。ギターを弾くのは楽しくて、こんな楽しいことを今まで知らなかったんだって思ってるから。それにこんな機会でもなきゃ、たぶん外崎さんとはこんなに仲良くなれなかったと思うしね。そりゃ今も毎日苦労してるし、できることなら早く元に戻ってほしいとは思うけど、でも今回の事態が全部が全部悪いことばかりだとは、あたしは思ってないよ。まあ、あくまでもあたしはって話だけど」
速水さんの声には実感がこもっていて、私を励ますでも勇気づけるでもなく、ただ本心を言っていた。しみじみとさえしていた言葉は、私に入れ替わってからの時間を振り返る余地を作る。
確かに速水さんになってからは、志水さんや百瀬先輩のこともあり苦労の方が多かったけれど、それでも私にとっても速水さんとギターの練習をしている時間は、一人でいては感じられない心地よさがあった。ぐんぐん上達していく速水さんを見ているのは、それだけで楽しかった。その感情に嘘はないと、私は言い切れる。
そして、その時間が明日でいったん終わってしまうことに、私は口惜しい思いを抱いていた。
「ねぇ、速水さん」
「何?」
速水さんの双眸が私に向いている。見慣れたはずの瞳に、別の人間の色が混ざっている。
でも、私はそれをことさら不快だとは感じなかった。もちろん、こんな事態起きないに越したことはないけれど、それでも入れ替わった対象が、他の誰でもなく速水さんでよかったと、私は心から思えていた。
「文化祭が終わっても、ギター続ける?」
(続く)