【第33話】見てほしい場所
水曜、木曜と私たちが最後の追いこみをかけるかのように練習に没頭していると、時間は瞬く間に過ぎていき、あっという間に金曜日になった。
文化祭前日ともあって、授業中もクラス全体がどこかソワソワしていたし、放課後を迎えたときの解放感はいつもの比ではなかった。まだ前日なのに、学校中が一気に文化祭モードに切り替わった気さえ私にはする。
どのクラスも慌ただしく前日の準備をしていて、それはクイズラリーで比較的準備の少ない私たちのクラスも例外ではなかった。手分けして学校中に自分たちで考えたクイズを貼り、教室に紙で作った造花などを飾り付ける。
多くのクラスメイトが放課後も残ってくれたから、準備は思っていたよりも早く終わった。発表がある部活や実行委員等の生徒は学校に残って、それ以外の生徒はここで解散だ。
私は速水さんや高木さんたちと一緒に、廊下を歩く。あちらこちらも手作りの装飾で飾り付けられた学校は、私の目にはまるっきり違って見えて、いつも通っている場所が、今だけは非日常的な空間に姿を変えていた。
速水さんの家に戻った私は、すぐにギターケースを持って、今日も駅前のカラオケルームに向かった。家の位置的に、私の方がずいぶんと早く辿り着く。
そのまま少し待っていると、想定していた通りの時間に速水さんもやってきた。制服のままの姿に、私と同様すぐに家から出てきたことが窺えた。
私たちは今日も二時間パックで受付をして、空いている部屋に通される。部屋に入ると、私たちはやはりカラオケを歌うことなく、さっそくギターの練習を始めた。
カウントを刻んでから一緒に弾き始める。まだ百パーセントとはいかないが、練習の甲斐あって速水さんと息が合う回数も、大分増えてきた。速水さんはもうほとんどミスなくギターを弾けていたし、顔を上げられる時間も着実に増えている。ギターを始めて一ヶ月ほどとは、言わなければ誰も思わないだろう。私も演奏していて、もう窮屈さはさほど感じない。
私たちは完全に上手くいった場合の話だけれど、人前で披露しても恥ずかしくないくらいの演奏ができるようになっていた。
私たちが揃って簡単なアウトロを弾き終えた瞬間に、スマートフォンのアラームが鳴った。もうすぐ二時間パックが終わる合図だ。私たちの懐具合から言って、延長は現実的ではない。
「じゃあ、今日はこの辺で終わりにしよっか」と提案すると、当然のように速水さんも頷いた。
私たちはギターケースを持って、支払いを済ませてから外に出る。六時を過ぎた空はすでにかなり暗くなっており、頬にあたる涼しい空気に、季節の移り変わりを私は改めて感じていた。
「じゃあね、速水さん。今日もありがとう。また明日ね」
そう言って私は、速水さんのもとを去ろうとする。まだ遥さんは帰ってきていないけれど、なるべく早く速水さんの家に戻りたかった。
だけれど、速水さんは「ちょっと待って」と、私を呼び止める。練習中とはまた違った雰囲気に、私も振り返らざるを得ない。
「どうしたの?」
「外崎さんって、まだ時間ある? お母さんはまだ帰ってこないよね?」
「まあ、それはそうだけど」
「だったら、ちょっとついてきてくれないかな。外崎さんに見てほしい場所があるんだ」
速水さんは何気ないように言っていても、その声には真剣さが混ざっていたから、私は一瞬だけ考えて頷いた。制服のまま夜道を歩くのは少し怖くもあったけれど、でも速水さんと二人ならきっと大丈夫だろう。どのみち遥さんが帰ってくるまでには戻れそうだ。
頷いた私を見て、速水さんが「じゃあ、行こっか」と駅の方へ向かって歩いていく。私もその後についていった。
駅を突っ切って、南口に出る。百貨店の前にはもうイルミネーションが飾り付けられていて、青と白の光がささやかに輝いていた。
私たちは駅から離れるようにして歩いた。大通りから外れた道でもちゃんと街灯はついていたし、人通りもあったので私はそこまで大きな不安を感じずにいられた。
少し話しながら歩いていくと、目の前には運動公園が見えた。陸上のトラックや体育館、屋内プールに柔道場といった施設が明かりに照らされて、また自ら明かりを放っている。
ここは私たちにとって一番近い運動公園で、運動をあまりしない私でも何度か訪れたことがある。でも、最近はとんと来ていないから、こんな感じだったんだと少し懐かしい。
公園内の道に街灯はそれほど設置されていなかったから、私は歩きながら心細く感じたけれど、それでも速水さんはずんずんと歩を進めていく。
速水さんがどこに行こうとしているのか。歩くたびに私はその行き先が、少しずつ分かっていくような気がした。
「着いたよ」
そう言って速水さんが立ち止まったのは、柵に覆われたテニスコートの前だった。四方に立っている照明が人工芝の黄緑色のコートを照らしていて、その中では小学生だろうか、子供が大人の立ち会いのもとテニスを楽しんでいる。どの子も微笑んでいて、夜なのに爽やかな空気が漂っていた。
「速水さん、ここって……」
「何? 見て分かるでしょ。テニスコートだよ。今は子供向けのテニス教室をやってるみたいだね」
「いや、それは分かるけど。速水さんが来たいとこってここだったの?」
「そうだよ。意外だった?」
私は「ううん」と、首を横に振った。だけれど、その次に続く言葉が思い浮かばない。
速水さんがここに来た理由は、何となく分かる気がした。たぶん昔プレーしていた思い出の場所とか。
それがうっすらと察せられたからこそ、私は自分からは訊き出せなかった。今は速水さんが自分から言うのを待つべきだと感じた。
少しして速水さんが口を開く。その声には情感がこもっていた。
「ここはね、私がテニスを始めた場所なんだ」
昔を懐かしむかのように言う速水さんに、私は「そうなんだ」と相槌を打つ。今は必要以上の言葉は邪魔になるだけだ。
「四歳の頃だったかなぁ。お父さんに連れられて来てね。最初はラケットにボールを当てるのも一苦労だったんだけど、お父さんとラリーしているうちに、どんどんとはまっていっちゃってね。そのときの楽しい気持ちがあって、今に至るって感じかなぁ」
速水さんはしみじみと語っていたけれど、「お父さん」という単語が出てきて、私は内心身構えてしまう。速水さんにとっては、思い出したくもない存在のはずだ。だから、私の「……速水さんのお父さんってテニスやってたの?」という相槌も、おそるおそるになってしまう。
でも、速水さんには気を悪くしている様子はなかった。
「まあ趣味でね。外崎さんも何となく知ってると思うけど、私のお父さんは結構ろくでもない父親でね。お酒を呑んで汚い言葉を吐くわ、仕事のストレスで私たちに当たるわ、本当最低な部類の父親だったんだ。でも、テニスをしてるときだけは機嫌よくてね。私も楽しくテニスができたし、ここにいる時間は数少ない、私の家族がうまくいってるって言える時間だったんだ」
速水さんの口から語られた身の上話を、私は完全に受け止めきれなかった。何かを言ってしまったら、速水さんのプライベートな部分により深く入りこんでしまいそうで、少し恐ろしくもあった。
無言でいるのも気まずくて、ただ「そうなんだ」とありふれた相槌を打つ。
テニスコートではもう七時近いというのに、まだ子供たちの元気な声が聞こえていた。
「うん、そう。あんな父親だったけど、まだテニスを嫌いになってないってことは、まだ心のどこかでお父さんと繋がってたいのかなぁ。私の中から、お父さんとの思い出を消したくないのかなぁ」
呟くように言った速水さんに、私は明確な答えを示せない。返す言葉も見つけられなくて、私は黙ってしまう。
照明の明かりは、私たちまでは届いていない。
「でも、こんなことになってテニスから離れてるってことは、神様とかがもうテニスやめたらって言ってんのかなぁ。もうお父さんのことは忘れて、新しい一歩を踏み出すときだって言ってんのかなぁ」
「そんなことないよ」
考えるよりも先に言葉が出ていた。私がどうこう言える問題じゃないのは分かっている。速水さんが前の父親から辛い思いを味わっていたのもおそらく事実なのだろう。そんな記憶は、きれいさっぱり忘れてしまった方がいいようにも思える。
でも、私は速水さんに良かった思い出まで失ってほしくなかった。
テニスコートに向いていた速水さんの目が私に向く。その表情が不思議そうにも、そう言ってほしかったと思っているようにも、私には見えた。
「確かに私もちょっとしか聞いてないけど、速水さんのお父さんが良い父親じゃなかったのは知ってる。きっと速水さんには私に言いたくないようなことや、忘れたいこともたくさんあるんだと思う。でも、本当に私が言えた義理じゃないけど、お父さんのとのことを全部は否定しないでほしい。たとえ都合がよくても、良い思い出は抱えていてほしいなって思う」
「外崎さん……」
「だからさ、元に戻ったらまたテニスしてよ。引退したのに色々言ってくる先輩とか大変なこともあるだろうけど、速水さんがやりたいことをやるのが一番だって、私は思うから」
「本当に? それがテニスや、ましてやギターですらなくても?」
「ま、まあそれは素直にはいとは言えないけど、でも速水さんがしたいんなら何だっていいと思う。私も陰ながら応援してるから」
そう言った私に、速水さんは軽く吹き出してさえいた。今までの文脈から外れたリアクションに、私は心配になって「えっ、私何かおかしなこと言った?」と、少し慌ててしまう。
でも、速水さんはまるで気にしていなかった。目元からはもう憂いといった感情は読み取れない。
「いや、冗談で言ったつもりだったのに、外崎さんが思ったよりも真に受けてたからおかしくて。あたしはこれからもテニスしたいなって思ってるから。元に戻ったら、また部活に戻りたいなって思ってるから。まあ一ヶ月以上もブランクがあるから、勘を取り戻すのはちょっと大変そうだけどね」
速水さんがはにかむ。迷いなんて少しもないかのような表情に、私も微笑んで返した。いつになるかは分からないけれど、お互い元に戻られる日を私は待ち遠しく思う。
自分が自分でいられることが一番だと、私は身に染みて感じていた。
(続く)