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【第32話】廊下での遭遇



「ところでさ、由海。文化祭終わったら、女テニ戻るんだよね?」


 百瀬先輩は私に対する配慮などないかのように、私が一番危惧していたことを、何一つ変わらない調子で言ってきた。胸を抉ってくる質問に、私は「それはまだ……」とすら答えられない。いつ私と速水さんが元に戻れるかは、分からないのだ。もしこの先も私が速水さんのままなら、部活に行くことはとてもできないだろう。


 私は切羽詰まっていたけれど、足は思うようには動いてくれなかった。


「まあ別に今すぐにってわけじゃないよ。だって、今は文化祭の準備で部活は休みだし、来週もテスト前で部活休みだしね。ていうか、文化祭の後にすぐテストがあるなんて、予定どうなってんのって感じだよね。せめて逆にしてくれれば、思いっきり文化祭を楽しめるっていうのに」


 愚痴っぽく言っている百瀬先輩に、私は「そうですね」と曖昧に同感するので精いっぱいだった。言っていることには分かる部分もあるものの、それでも次に百瀬先輩の口から出るだろう言葉を予測して、私は恐れおののいてしまう。


 委縮した態度は、たぶん少しも速水さんらしくなかった。


「でさ、テストが終わったら改めて、由海部活来るよね?」


 百瀬先輩は私が恐れていたことを、一言一句違わず声にしていた。先輩という立場の圧力で上から押しつぶすかのような言葉に、私は素直に首を縦に振れない。


 もしここで約束をしても、元に戻れなかったときのことを考えると、どれだけ詰られるかは分からない。だから、私は悪い結果になると知っていても、視線をわずかに下げてしまう。百瀬先輩の誘導しようとする目を、今の私は見られなかった。


 百瀬先輩も言葉を重ねず、私は漂う重たい空気を肌で感じてしまう。


 八方塞がりの状況の中で、私たちの部屋から速水さんが出てくるのが見えた。私の目は縋るように速水さんに向いてしまって、百瀬先輩も釣られて振り返っている。


 そんな私たちの視線も気にしていないかのように、速水さんはぐんぐんと近づいてきて、私たちの側に着くと足を止めた。


「あの、もしかして速水さんのお知り合いですか?」


 速水さんは律儀に私であることを踏まえて、姿勢を低くして百瀬先輩に話しかけていた。


 でも、半ば唐突に現れた速水さんにも、百瀬先輩はさほど驚いていない。今の速水さんは私の姿で、つまり小柄だから驚くに値しないと思っているのだろうか。


「何、あんた。由海の友達? あっ、もしかして由海と一緒に文化祭に出る女子ってあんた?」


「はい。速水さんと一緒に文化祭に出る外崎といいます」


「ふーん、そうなんだ。で、私たちに何の用? 今話してるとこなんだけど」


「いえ、速水さんがトイレに行ったきりなかなか戻ってこないので、どうしたのかなと思って」


「別に。偶然会ったから話してただけだよ。ねぇ?」


 百瀬先輩が私の方を見てくる。私はおずおずと頷いた。これもまったく速水さんらしくない仕草だ。


「そうですか。ならよかったです。何かあったのかと思って、気が気じゃなかったので。じゃあ、私たちはギターの練習があるので、これで失礼させていただきます」


「さ、速水さん」と、速水さんが私に呼びかけてくる。かすかな逃げ道に縋るように、私は小さく頷いた。「じゃあ、百瀬先輩。あたしギターの練習があるので」そう断って、私たちは自分たちの部屋に戻ろうとする。


 でも、私が一歩を踏み出した瞬間、「待ちなよ」という百瀬先輩の声が、私たちを強く引き留めた。私はやっぱりそれを振り切れない。言われるがままに動きを止めてしまう。


「なんで戻ろうとすんの? 私、まだ由海と話してるんだけど」


 百瀬先輩の声は険しかった。私がギターの練習をすることが気に食わないのを隠そうともしていない。私はその場に留まったまま、視線を床に落としてしまう。


 まるで空気を読んでいるかのように、廊下には私たち三人の他には誰も来なかった。


「話してるって、何の話をですか?」


 速水さんが訊く。私は一刻も早く百瀬先輩から解放されたいのに、そううまくはいかないみたいだ。


「別に。あんたには関係ない話だよ」


「えー、いいじゃないですか。教えてくれたって。聞かれて困るような話だったんですか?」


 冷たくあしらおうとした百瀬先輩に、速水さんは食い下がっていた。どうやら話し合うつもりらしい。二人の視線が交わっているのを、見なくても感じる。間に挟まれた私は、おろおろしている感情を表に出さないようにするしかできなかった。


 百瀬先輩が一つ息を吐く。「しょうがないな」と言うかのように。


「部活の話だよ。由海、ここ一ヶ月くらい部活来てないからね。文化祭とテストが終わったら、また部活に来れるかどうか訊いてたの。ね? あんたには関係ない話でしょ」


 軽く吐き捨てるかのように、百瀬先輩が言う。速水さんの干渉をまるっきり拒むような言い方に、私は背筋がぞくっとするような思いがした。


 でも、取り付く島もない状態の百瀬先輩にも、速水さんは退いてはいない。しっかりとした口調で答える。


「いえ、関係あります。だって、私たちは一緒に文化祭のステージに出るくらいの仲なんですから。速水さんの問題は、ほとんど私の問題みたいなもんです」


「そう。じゃあ、文化祭が終わったら由海と会うのやめてくれる? ステージに出るっていう目的が達成できたら、もう一緒にいる理由もないでしょ。さっさと由海を解放してさ、また部活に来させてよ」


 百瀬先輩の言葉には容赦がなかった。私が部活に来ていないことに苛立っているのが伝わってきて、私はますます委縮してしまう。この場から逃げ去ってしまいたいと強く思う。できもしないのに。


「それはちょっとどうですかね。だって、速水さんは私と一緒にいたいからいるわけですし。それは速水さんの気持ちを訊いてみないと分からないですね」


 二人の視線が再び私に向く。私はやっぱり答えられない。この場ではっきりとした態度を示すことは、どうしても気が引けた。顔すら上げられずに、ただ怯えているだけの置物になる。どう考えても、速水さんの外見にふさわしくない。


「それに解放するってどういうことですか? 私には速水さんを縛りつけてるつもりはないんですけど。ギターを教えてほしい、文化祭のステージに出たいって言ってきたのも、速水さんの方からですしね」


 尻込みする私をよそに、速水さんは毅然とした口調で言っていた。百瀬先輩にも少しも怯えていなくて、私が若干焦ってしまうほどだ。


 百瀬先輩に「由海、そうなの?」と訊かれ、私は小さく頷く。認めたら厄介なことになるという気持ちを、速水さんの責任にしたくないという思いが上回った。


「もしかして、先輩は速水さんのことを、自分の思い通りになる人形だと思ってるんですか?」


 速水さんが発した言葉に、空気が一瞬だけひりつく。百瀬先輩が返した「え?」という声には、明らかに剣呑な響きが含まれていて恐ろしい。


 もっと平和的に解決してほしいと、私は思わずにはいられなかった。


「先輩、当たり前ですけど、速水さんは人形じゃないですよ。ましてや先輩のものでもないです。速水さんはちゃんと自分の意志を持った、一人の人間なんですよ」


「そんなこと分かってるよ。私は由海が戻るのが、部のためになるから言ってるだけで」


「ああ、そのことなら多分大丈夫ですよ。だって、速水さんはテニスを嫌いになったわけではないと思いますから」


 百瀬先輩が思わず「は!?」と口にしている。率直に怖いなと思いながらも、私は内心で同じリアクションを示していた。


 てっきり速水さんはもうテニスに関心をなくしたと思っていた。でも、単なる私の思いこみなのかもしれない。


「そうだよね?」と訊いてくる速水さんに、私も頷いて話を合わせた。今は速水さんの言いたいようにさせるのが一番だと思った。


「何それ。じゃあ、また部活が再開されたら、とっとと女テニに戻ればいいじゃん」


「そうですね。速水さんもそう考えてるみたいですし、戻りたい気持ちはあるみたいです。ただ、とやかく言ってくる先輩が静かになってくれたらの話みたいですが」


 速水さんの言葉がとうとう一線を越えてしまったようで、私は慄いてしまう。百瀬先輩に詰められるのは私の方なのに。


 案の定、百瀬先輩は先ほどよりも怒気を含んだ声で、「はぁ!?」と反応している。烈火のごとくという言葉さえ当てはまりそうな怒りっぷりに、私はこれ以上ないほど縮こまってしまう。


「私は部のことを思って言ってるだけなんだけど! 女テニには絶対に由海が必要だから言ってるだけなんだけど! なんで大して事情を知らないあんたがそういうこと言えるの!? ちょっと思い上がってない!?」


「それは分かりますけど、でも先輩、速水さん怯えちゃってるじゃないですか。そういうとこですよ。引退したとはいえ、ここまで怖い先輩がいる部にいたいと思う人はなかなかいないですよ」


 百瀬先輩がはっと私を見る。突然の眼差しに、私はさらに怯えてしまう。「由海、そうなの?」と確認をされたら、私は速水さんと百瀬先輩、どちらの言うことを支持していいか分からない。


 それは困ると縮こまっていると、意外にも百瀬先輩は、私に加えて言葉をかけることはしてこなかった。速水さんの言葉には正当性があったから、痛いところを突かれたと感じているのかもしれない。


 これは好機だ。


 速水さんもそう思ったのか、「ほら、速水さん部屋戻ろ?」と改めて声をかけてくる。私も頷いて「すいません」と百瀬先輩に一言断ってから、足を前に動かした。縛りつけられていたように感じられていた足は、勇気を出して一歩目を踏み出すと、思いのほかスムーズに動く。


 私たちは百瀬先輩を振り返ることなく、早足で自分たちの部屋に入った。


 入るやいなや、速水さんは大きく一つ息を吐いている。私はまだ怖がっている状態が続いていたから、そんなすぐには気を抜けなかった。


「ああ、怖かった」


 速水さんはそう漏らしていて、飄々としているように見えていても、内心では同じように怯えていたのだと私は知る。きっと速水さんにとっても、百瀬先輩は苦手なタイプなのだろう。


 だけれど、それをぐっとこらえて助けてくれたことに、私はより感謝の思いを感じる。素直に「速水さん、ありがとう」という言葉が、口をついて出た。


 速水さんも小さくても微笑んでいたから、私もいくらか心を落ち着けることができていた。


「うん。でも、あれくらい当然だよ。あたしの姿をした外崎さんが百瀬先輩に絡まれてるとこ、見てられなかったから」


「本当にありがと。怖かったのに勇気を出してくれて」


「まあ、あたしの姿じゃないから言えたっていうのはあるかな。客観的に見られたっていうか。こんなことになって初めてよかったかもしれないって思えたよ。まあ、本当は明日にでも元に戻ってるのが一番なんだけど」


「それはそうだね」そう言いながら、私もようやく一息つくことができる。


 まだ百瀬先輩が同じ店にいる緊張感はあったけれど、ドアを開けてまで私たちの部屋に入ってくることはそうそうないだろうと思った。


「ねぇ、これで百瀬先輩、黙ってくれるかな。『部活に出て』って、しきりに連絡してこなくなるかな」


「さあ、それはどうだろ。でも、そうなるよう祈るしかないよね。自分が外崎さんのことを追い詰めてるって、百瀬先輩もようやく分かっただろうし」


「さてと。それじゃ、練習再開しよっか」気持ちを切り替えるかのようにそう言った速水さんに、私も頷いた。ギターを持って、視線を交わす。


 カウントを取って歌いだすと、徐々に息が合い始めたこともあって、先ほど感じた恐怖も少しずつ私の中から薄れていくようだった。



(続く)

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