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【第31話】深夜の帰宅



 決意を新たにした私たちは、来る日も来る日も学校が終わるとギターの練習に励んでいた。


 速水さんは本番さながらに、立ちながらギターを弾いて歌うこと自体はできるようになっていて、あとはクオリティを上げるだけという段階だ。私としてもギターについてアドバイスすることはもうさほどなく、今は私たちが歌と演奏を合わせる練習がメインになっている。


 でも、まだまだ完全に合わせられてはいない。ボイストレーニングはしているとはいえ、本を読んでの独学だから、歌についてはあまり多くを望めない。だからこそ私は、ギターだけはしっかりとミスなく合わせたかった。


 それに本番では、できる限り前を向いて歌いたい。速水さんはまだまだ手元に視線を落とす時間が長い。


 だけれど、それらの問題も練習を重ねるごとに少しずつ解消されていっていて、私たちなりにベストな状態で本番を迎えられることを、私は信じて疑わなかった。


 元に戻ることはできずとも、一緒にギターの練習をしていると時間はあっという間に過ぎていき、気がつけば文化祭の開催を週末に控える頃になっていた。放課後にも準備は着々と進められ、学校中が徐々に文化祭ムードになりつつある。


 でも、その日は朝から降っていた雨のせいで、簡単な準備しかできなかった。もともと私たちのクラスが企画しているクイズラリーは、前日に学校中にクイズを貼ったり、会場となる教室を軽く飾り付けたりするだけで、比較的準備は少ない。


 だから、私たちは授業が終わるとすぐに学校を後にできていた。私の家に行ってギターの練習をして、さらに速水さんに勉強を教えてもらう(速水さんと本音で話をしたおかげで、私はまた勉強を教えてもらえるようになっていたのだ)。


 文化祭が終わるとその翌週には中間テストがあるから、その意味でも私には好ましい。速水さんの教え方は丁寧だったから、今まで解けなかった問題も私は少しずつ解けるようになっていた。


 夕食の時間になる前に、私は自分の家を後にし、速水さんの家に戻る。冷凍食品のチャーハンで夕食を済ますと、私は速水さんの部屋へと向かった。ギターの練習も勉強も、どちらもまだまだしなければならなかったからだ。


 幸い、速水さんの家は一軒家だから、周囲への音漏れを比較的気にせずに練習できる。一時間ほどギターの練習をしてから、私は勉強机に向かった。中間テストの試験範囲を復習する。


 疲れもあってか集中力はなかなか続かず、時折スマートフォンに手を伸ばしたりもしたけれど、それでも私は何とか机に座り続けた。このままでも、たとえ元に戻ったとしても、どちらでも勉強はしなければならなかった。


 だけれど、時間が進むにつれて私はソワソワしだし、スマートフォンを触る間隔も短くなってしまう。遥さんがまだ帰ってこないのだ。


 もちろん今までだって、帰ってくるのは遅かった。でも、どれだけ遅くなっても一〇時ぐらいには帰ってきていた。


 だけれど、今日は一一時になっても帰ってきていない。速水さんになってから類を見ない事態に、私は焦らずにはいられない。「いつ頃帰ってくるか」と尋ねたラインに既読すらつかないことも、私の不安に拍車をかける。


 遥さんがよからぬ事態に巻きこまれていないことを、私は祈るしかなかった。


 そのまま私が不安に苛まれている中、遥さんから「もうすぐ帰る」というラインがやってきたのは、一一時半を過ぎた頃だった。階段を下りてリビングに向かっていく。


 玄関から「ただいまー」という声がしたのは、あと少しで日付が変わるときだった。私はいてもたってもいられず、玄関に向かう。遥さんは顔は微笑んでいたけれど、出かけるときにあった肌のハリが、今では少し失われているように私には見えてしまう。


「由海、ご飯食べた?」


 私が「おかえり」と言った後に、遥さんはそう口にしていて、私はおずおずと頷いた。遥さんはそんな私を見て、再び表情を緩める。


 だけれど、それがどことなく頑張って微笑んでいるように、私には感じられてしまう。手に持つコンビニエンスストアの袋が、平たく膨らんでいることも、私が心配を感じる要因になった。


 遥さんは着替えるよりも先に、ダイニングテーブルにコンビニエンスストアの弁当を広げて食べていた。店で温めてもらったばかりなのだろう。かすかにいい匂いがソファに座っている私にも漂ってくる。


 きっとこうなる前の速水さんは、遥さんと他愛もない話をしていたのだろう。


 だけれど、私は何も言えずにスマートフォンに視線を落としてしまう。


 遥さんとは雑談だってできないわけじゃない。それでも、私は表情は明るくても身体から疲れているオーラが出ている遥さんに、どうしても気を遣ってしまう。


「どうしたの、由海。今日、静かじゃん。何かあった?」


「ううん、別に何でもないよ」


 若干不思議そうに訊いてくる遥さんに、私はそう答えるので精いっぱいだった。実際、今日は(元に戻れなかったことも含めて)これといったことがない日だったから、その返事は何も間違っていない。


 だけれど、私はせっかく遥さんが振ってくれた話題を広げられなかったことに、申し訳なさを感じてしまう。遥さんがそれ以上訊いてこなかったことも、気を遣われたと解釈してしまう。誰も何も悪いことをしていないのに。


「由海さ、寝る前にお母さんに何かしてほしいことある?」


 弁当を食べながら速水さんは訊いてきて、私は「ううん、ないよ」と首を横に振るしかなかった。この弁当を食べ終わったらもう寝てしまいたいと言っているのと、ほとんど同じように感じられた。


「そう。じゃあ、私もう寝ていい? 明日も朝から打ち合わせが入ってるから」


「うん、別にいいけど、シャワーとかは浴びなくていいの?」


「それは明日起きて仕事行く前に浴びるよ。正直今日は疲れたし、今は少しでも早く寝ちゃいたいって思いが強いから」


 遥さんは本当に正直に語っていて、私は反対する余地がなかった。声もどうにか取り繕っているようで、言葉以上に疲れていることを私は察する。


 でも、シャワーを浴びる元気すらないのはよっぽどだろう。遥さんはここ最近毎日、コンビニ弁当で夕食を済ませている。


 だから、私は頷きながらも強く心配してしまう。でも、その心配は「うん、分かった」以上の言葉に表れることはなかった。「大丈夫?」と訊いても、遥さんが笑いながら「大丈夫大丈夫」と返すのは目に見えていて、意味のないやり取りに遥さんの元気を使いたくないと思う。


 遥さんは弁当を食べ終わると、「じゃあ、おやすみ」と言って自分の寝室に向かっていく。一人取り残された私は、テレビも見られずに再びスマートフォンに視線を落とすしかない。


 高木さんたちとラインのやり取りをしていても、私の気は少しも休まらなかった。





 翌朝、私が目を覚ましてリビングに下りる頃には、すでに遥さんは仕事に行く準備をあらかた整えていた。メイクもばっちりしていて、顔に昨日の疲れを引きずっている様子は見られない。もう四〇代も半ばに差しかかっているというのに、すごい体力だ。


「今日も帰り遅くなるから、何か適当に食べといてね」という言葉を今日も聞かされたことには多少げんなりとしたものの、それでも私は「うん、今日も頑張ってね」と遥さんを見送った。笑顔で応えてくれる遥さんに、また一日が始まった感覚がする。


 だけれど、私は家に一人残されると、今更ながらにやるせない思いを抱いた。


 学校を今までと大体同じように過ごして、私は放課後を迎える。私としてはすぐにでも帰りたかったのだが、多くのクラスメイトが残って文化祭の準備をしている状況では、そうもいかない。付き合いの悪い奴だと思われることは、私にも(もしかしたら元に戻った後の速水さんにも)良いことは一つもないので、私は残って準備を手伝った。


 段ボールでできた飾り付けにスプレーで色を塗ったり、クイズを貼る場所を改めて話し合ったり。


 今日は晴れていて、外で作業ができて、その中には速水さんもいた。速水さんはもうすっかりクラスの輪に溶け込んでおり、最初からそうだったかのように違和感がない。


 さすがは速水さんだと思いつつ、元に戻ったときのことを考えると、この状態を維持できるかどうか、私は少しだけ不安になってもしまっていた。


 文化祭の準備を一時間ほどして、私は帰路につく。速水さんの家に帰ると、すぐさまギターケースを背負ってもう一度外に出た。


 今日の練習場所は、駅前のカラオケルームだ。入り口で速水さんと落ち合い、いつものように二時間パックを申し込んで、空いている部屋に通される。


 外からかすかに他の部屋のカラオケの音が聞こえてくる中、私たちは部屋に入るとすぐにギターを取り出して、練習を始めた。文化祭の出番まであと五日に迫ったこの段階では、一緒にギターを弾いて、歌と演奏を合わせる練習がメインだ。


 かけ声を決めて、ひたすらに合わせて歌う私たち。速水さんはもうほとんどミスなくギターを弾けるようになっていて、弾きながら歌うことにもかなり慣れてきている。練習を重ねているおかげで、私たちの息も徐々に合ってきていた。


 ギターの練習を始めて一時間以上が経った頃、私は速水さんに断って部屋の外に出ていた。トイレに行くためだ。


 私たちの部屋は受付の近くにあって、店の奥にあるトイレからはわりと遠い。少し面倒くさいなと思いつつも私はトイレに行って、さっさと用を済まし、トイレを後にする。


 そして、部屋に戻ろうと廊下の角を曲がった瞬間、私は足を止めた。私を見て、その相手も一瞬だけど立ち止まっている。


 廊下で私が出くわした人間。それは百瀬先輩だった。速水さんの姿をしている私にテニス部に戻るよう迫ってきた、私にとって苦手と言える先輩だ。


 百瀬先輩は私を見るなり、一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐになんてことのない表情に戻って、私に近づいてくる。


 カラオケ店の廊下は人が簡単にすれ違えるぐらいの幅はあったけれど、百瀬先輩は私の前で立ち止まっていた。


「由海じゃん。何、由海もカラオケしに来たの?」


 百瀬先輩は私よりも少しだけ背が高くて、そのわずかな違いが私には大きな威圧感を持って感じられてしまう。


 目を背けたらなんと言われるか分からないので、私はどうにか踏ん張って、顔を上げ続けた。


「い、いえ。文化祭に向けての練習です。家だと音が漏れて、隣の家に迷惑をかけてしまうので」


「まあ、それはそっか。ギターの練習をするなら、防音がしっかりしたカラオケルームでやるのは理にかなってるよね」


 言葉では納得していても、百瀬先輩の口調はどこか皮肉めいていて、(速水さんの姿をした)私が文化祭に出演することを、未だに快く思ってないようだった。


 あの日から百瀬先輩とは私は一度も会っていない。でも、ラインでは何回か「女テニ戻りなよ」というメッセージを受けていて、その度に私はどうにかお茶を濁すことでやり過ごしている(このことは速水さんには言っていない。余計な心配をかけたくないから)。


 でも、こうして直接会ってしまったら、そう簡単には逃げられないように思えてくる。黙っているのも気まずくて、私は多少無理やりにでも言葉を捻りだす。


「あ、あの、百瀬先輩はカラオケですか?」


「そうだよ。もしかして、受験生なのにって思ってる? あのね、受験生だからこそ息抜きは必要なんだよ。由海も来年になれば分かるから」


「そうですか」としか言えなくて、会話を繋げられない自分をきまり悪く思う。言葉に困っていたら、百瀬先輩に付け入る隙を与えるだけなのに。


 でも、私は言うべき言葉を見つけられなかった。百瀬先輩との間に話題は一つしかなかったが、それを自分からは言いたくはないと思ってしまう。


「ところでさ、由海。文化祭終わったら、女テニ戻るんだよね?」



(続く)

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