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【第30話】大きな案件



 その次の日は、私たちはカラオケルームでギターの練習をした。速水さんは昨日よりも着実に上達していて、私は目を瞠る。


 きっとそれは速水さんが重ねている自主練習だけじゃなくて、遥さんと志水さんの話に一つの答えが出たことも大きいのだろう。自分の意思がはっきりしたことで、速水さんは昨日までよりもずっと穏やかな態度で私に接してくれていたし、カラオケルームの雰囲気も心が洗われるかのように爽やかだ。


 私たちは前向きな気持ちで練習に取り組む。二人で声を合わせて歌うのも、少しずつ様になってきていた。


 カラオケルームできっちり二時間練習した私たちは、それぞれの家に戻る。


 速水さんの家には、やっぱりまだ誰も帰ってきていなかった。ほぼ毎日のことだけれど、私は誰もいない家に「ただいま」と言うことに、まだ完全に慣れてはいなかった。ドアをくぐって電気をつける度に、心に小さな穴が開く感覚がする。


 遥さんを責める気は全くないけれど、でも私は両親ともが早くに家に帰ってきてくれる日々がどれだけありがたかったのかを、身に染みて感じていた。


 気は進まなくても勉強机に向かい、たまに息抜きでギターを弾きながら、夜を過ごす。それでも、一人でいることにどこか悶々とした感覚を抱いていると、遥さんが帰ってきた。既に時刻は、夜の一〇時を回っている。


 私は一階に下りて遥さんを迎えた。遥さんは微笑みながらも、その笑顔はどこか冴えない。毎日こんな夜遅くまで仕事をして疲れているのだろう。そうとしか私は思いたくなかった。


「由海、ちょっといい?」


 帰ってくるやいなや、部屋着に着替えるよりも先に、遥さんは私に声をかけていた。ただならぬ気配を感じて、私は内心身構えながらも、素直に頷く。


 私たちはダイニングテーブルに向かい合って座った。改めて遥さんを目の当たりにすると、少しずつ感じていた慣れみたいなものはどこかに吹き飛び、私は改めて緊張してしまう。


「お母さん、どうしたの?」


「うん。こういうことは適当に言うんじゃなくて、ちゃんと面と向かって言わないと思って」


 そう前置きした遥さんに、私は事の重大さを察してしまう。嫌な予感が芽生える。


 私が心の中で訝しんでいると、遥さんはおもむろに頭を下げてきた。想像もしなかった行動に、私は驚いて軽く立ち上がりそうにさえなってしまう。


「由海、ごめん!」


「えっ、ちょっとお母さん。本当にどうしたの?」


 私が改めて尋ねると遥さんは顔を上げた。申し訳ない表情は紛れもなく現実で、嘘でも何でもなかった。


「由海の文化祭での出番、私見に行けなくなった」


 遥さんが告げた現実は、強かに私の頭をぶった。その言葉を聞いてちゃんとショックを受けられるくらいには、私は既に長い時間を遥さんと一緒に過ごしていた。


「なんで……? 仕事調整して、時間作って見に行くって言ってたじゃん……」


「うん。当然私もそのつもりだったよ。実際、昨日まではギリギリではあったけど、行ける予定だった。でも、今日突然大きな案件が入っちゃって。それを仕上げるためには、もう一日も休んでいられなくなったんだ」


「本当にごめん」遥さんは再び、私に頭を下げている。「そんなことしないで」と、私は言いそうになってしまう。


 当然、私だって遥さんの事情は理解したい。大人にはどうしても断れないこともあると、私はとっくに知っているつもりだ。


 だけれど、私は素直に「分かった」とは言えなかった。


 遥さんが来なくて悲しむのは、私だけじゃない。速水さんもだ。むしろ速水さんの方が、感じる悲しみはずっとずっと大きいだろう。


「その仕事、どうしても断れないの? いや、わがまま言ってることは分かってるんだけど、それでも」


「ごめん。私が独立して以来、一番の大きな案件でね。この案件が成功するかどうかで、これからの事務所の未来が決まってしまう、そういう仕事なの。私ももっと別の時期にできないか交渉したんだけど、先方もなかなか譲ってくれなくて。どうしても断り切れなかった。本当にごめんね。由海の一度しかない文化祭の出番よりも、私自身のキャリアを優先させちゃって。でも、この案件が終われば、今の忙しさも少しは落ち着くと思うから。そうすれば、由海と今よりも一緒にいられる。だから、そういうことで許してくれないかな……」


 遥さんの語尾は消え入るようだった。心から申し訳ないと思っているのだろう。


 だけれど、それはかえって納得するよう迫ってくるみたいで、私はあまりいい気はしなかった。


 もちろん、私だってこんなところで駄々をこねたって、現実が覆る可能性は低いことは分かっている。文句を言わずに受け入れるのが、一番賢い選択肢なのだろう。


 だけれど、私はどうしても「分かった」とか「そういうことならしょうがないね」といった類の言葉を口にできない。


 せっかくの約束を反故にされて「はい、そうですか」と受け入れられるほど、私はまだ大人じゃなかった。


「そんなの分かんないよ。許したい自分もいるし、許したくない自分もいる。そもそも許す許さないの問題なのかどうかも、分かんないよ」


 迷いに迷っている心が、率直に言葉になった。こんなの何かを言ったことにさえなってなくて、子供じみた態度だなと感じる。


 それでも私は、この場において何かを決めつけることはできなかった。ただ苦い現実を吞み込もうと、必死だった。


 遥さんも私に何も言葉をかけてこない。目尻が下がった表情が、私の心に薪をくべる。


「何なの? お母さんはあたしと、あまり一緒にいたくないの? あたしよりも仕事の方が大事なの?」


「そんなことないよ。私は由海のことを大事に思ってる。それこそ自分のこと以上に。そんなの言うまでもないことだよ」


「じゃあ、そんなに忙しくする必要ないじゃん。そんなに次々と仕事受けなくてもいいじゃん。今のお母さんは言ってることとやってることが、全然違ってるよ」


 わがままを言っている自覚はあった。遥さんを困らせてしまっていることも、はっきりと感じる。


 もしかしたら今の速水家の暮らしは、思いのほかギリギリのところで成り立っているのかもしれない。少しでも仕事を減らしてしまったら、今のような生活はできなくなってしまうのかもしれない。


 でも、そんな理屈も今の私に歯止めをかけるには足りなかった。


 私が速水さんとして、遥さんの娘として過ごした時間は、決して短くも軽くもない。


「今まではお母さんの仕事の邪魔になると思って言わなかったけど、今だけははっきり言いたいよ。私はもっとお母さんと一緒にいたい。夜遅くに疲れて帰ってきて、そのまま少ししか話せないですぐに寝ちゃって。で、また朝早くに仕事に行って。そんな生活、私はこれからも続けたいとは思えない。もっと一緒にいる時間がほしいよ」


 もしかしたら私の言葉は、遥さんには唐突に感じられたのかもしれない。表情に、かすかに驚きの色が混ざっている。


 それでも、私は遥さんから目を逸らさなかった。速水さんになってから毎日感じていた感情を、ごまかす必要はないと思った。


 それにこう感じているのは、私だけではない。速水さんも遥さんとあまり一緒にいられないことを、「寂しい」と言っていた。だから、これは速水さんのためでもあるのだ。


「そうだね。私も由海となかなか一緒にいられなくて、本当に申し訳ないと思ってる。だから、この案件が終わったら、しばらくは仕事の量を今よりも抑えるようにするから。由海と一緒にいられる時間を作れるように努力するから。それじゃダメかな」


「……約束してくれる?」


「うん、約束する。今度は絶対に守るから。もしまた私が約束を破ったら、そのときは何を言っても、何をしてくれてもいいよ。原因は全部私にあって、由海は何一つ悪くないんだから」


 そう言う遥さんは、私が罵ったり口汚い言葉を浴びせることさえも、覚悟しているようだった。そんなこと私にできるはずがないのに。


 遥さんの目にはかすかに怯えさえ覗いていて、娘にする表情としてはまったくふさわしくない。


 だから、私は少しだけでも表情を緩めることを心がけた。


「うん、じゃあ約束ね。お母さんと一緒にいられる時間が増える日を、あたしは待ってるから」


「ありがとう。私もなるべく早くそうできるよう頑張るから、もうちょっと待っててね」


 私は頷いた。それは遥さんが文化祭を見に来ないことを認めることに等しかったけれど、それももう受け入れなければならないだろう。速水さんに話すときのことを考えると気が重くなったけれど、それでも限られた選択肢の中で、これが最善なのだと自分に言い聞かせる。


 ほっとしたかのように息を吐く遥さんを見て、私は自分が間違った言動を取っていないと思えた。元に戻ったときに、速水さんを取り巻く状況が少しでも良くなる方に、働きかけることができたのかもしれないと思えた。





「そっか……。お母さんは文化祭に来てくれないんだ……」


 翌日の昼休み。私が昨日、遥さんと話したことを伝えると、さすがの速水さんも落胆した表情を見せていた。痛切なその表情に、見ている私でさえ胸を締めつけられそうだ。


 伝えないという選択肢は私にはなかったけれど、それでも予想以上の落ちこみように、速水さんが遥さんに見に来てほしかったと強く思っていたことが窺える。


 遥さんだけのせいにするのも違ったから、私は悶々とした思いを抱えすしかなかった。


「ごめん……。私も説得しようとしたんだけど、どうしても断れない仕事みたいで。終わったら少しは余裕ができるらしいけど、でも文化祭の日までは忙しいって言われちゃった」


「外崎さんが謝ることじゃないよ。お母さんが忙しいのはいつものことだし。そりゃ来てほしかったけど、でもこうなっちゃったからには、受け入れるしかないよね」


 速水さんは無理やり自分を納得させようとしているようで、私は目を逸らしたくなってしまう。「そんな無理しなくていいよ」と言ったところで、遥さんが来ない現実は変わらない。


 かける言葉を見つけられず、私たちは黙ってしまう。屋上へ向かう階段の踊り場には、誰かがやってくる気配は今日もなかった。


「で、でもさ。外崎さんのお父さんとお母さんは来るって言ってるし、萌衣たちも見に来る予定なんでしょ? だったら、立ち止まってるわけにはいかないよね。本番まであと一週間ちょいしかないし、今日も帰ったらまた練習しなきゃ」


 落ちこんでいる自分を励ますように、速水さんが口にする。言っていることは一〇〇パーセント正しかったから、私も頷いた。


 それで遥さんが来られなくなったショックが軽減されるわけではないけれど、私たちがすべきことは文化祭で少しでも良い演奏ができるよう、練習に励むことしかなかった。



(続く)

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