【第3話】ラインの交換
「ねぇ、ごまかさずに正直に答えて。あんたは誰なの?」
「私」の口から「あんた」という言葉が出てきたことに、私は戸惑いを覚える。背筋が伸びていて、「私」ってこんなに大きかったかと思う。
私と「私」は昼休みになって、屋上へと向かう階段の踊り場にいた。多分に漏れず私たちの学校も屋上は閉鎖されているから、ここへはめったに人が来ない。私だって初めて来たぐらいだ。
照明がついていないから昼間なのにどこか薄暗く、私は秘密めいた感覚を抱いた。
「わ、私は速水由海だと思う……」
そう言うしかなかった私の言葉も、「私」は「だからごまかさないでって言ったじゃん」と簡単に看破した。「ねぇ、今ここにはあたしたちの他に誰もいないんだよ。どんな突拍子もないことでも、あたしは聞くからさ」と「私」は言っていて、どうやら今起こっている事態に心当たりがあるらしい。
だから、私は少し迷ったけれど、正直に話すことにした。
「……こ、こんなこと言っても信じてもらえないと思うけど、私は外崎千早希だと思ってる。少なくとも頭ではそう」
「私」はかすかに驚いたような表情を見せたけれど、すぐに一つ息を吐いていた。何かが腑に落ちたかのような、そんなリアクションだった。
「やっぱりね。あたしは速水由海だよ。この身体で言っても説得力はないけど」
「私」は思いのほか淡々と口にしていた。それはもしかしたら私を動揺させないためだったのかもしれないし、「あんただって分かってんでしょ」と言外に言いたかったのかもしれない。
それでも、私は「えっ、えっ」とうろたえずにはいられない。その可能性だって考慮していなかったわけじゃないけれど、いざ面と向かって言われると、とても現実だとは思えなかった。
「何、うろたえてんの。あんただってあたしに会ったときから、薄々気づいてたでしょ」
「いや、それはそうだけど……。でも、これっていわゆる……」
「まあ一言で言うなら入れ替わりだね。あんたとあたし、理由は分からないけど、それぞれの人格が入れ替わってる」
不可解な現象に名前がついて、私は腑に落ちる。なんてことはまったくなく、ただ混乱は増すばかりだった。なんで? どうして? 理由は? 原理は?
分からないことだらけのなかで唯一分かっていることは、元に戻られる方法が分からないことだけだ。先行きはまったく見えず、これで不安になるなという方が無理な話だろう。
「ちなみにさ、あたしは今朝起きたらあんたの身体になってたんだけど、あんたはどう? いつからあたしの身体になったの?」
「いや、私も朝起きたらなんだけど……。ていうか速水さん、でいいんだよね? どうしてそんな冷静でいられるの……?」
「別にあたしだって冷静じゃないよ。頭の中は今も混乱しきりだし。ただ泣いても喚いても、どうにもなりそうにないから。それで元に戻るんだったら、私はいくらでもそうしてるけど」
速水さんの言うことはもっともなように、私には思われた。確かにいくらうろたえても、それこそ発狂したところで、私たちが元に戻るとは思えない。
こうなってしまったからには、一度それを受け入れるしかないのだ。たとえそれがどんなに困難でも、何一つ分からない今、私に取れる選択肢は他にはない。
「さてと、じゃあこれからどうしよっか。どうやったらあたしたち元に戻れるかな?」
そんなこと訊かれても、私に答えられるわけがない。言わば今の私たちは、唐突に複雑怪奇な暗号を出された状況だ。何かとっかかりとなるヒントがなければ、解読に手をつけることすらままならないだろう。
「と、とりあえずもう一度寝て起きてみればいいんじゃないかな……? 起きたら入れ替わってたってことは、もう一度寝て起きてみたら元に戻る可能性だってあるわけだし……」
「まあ、現状ではそうするしかないよね。手がかりが睡眠しかない状況じゃ、他の可能性は考えにくいもんね」
私の提案に速水さんも同意を示してくれた。というより、そうするしかなかったのだろう。
かすかな希望が私たちに芽生える。寝て起きたら元に戻っているはず。そう思わなければ、少なくとも私はやっていられなかった。
ほんの少しでも道筋が見えてきて、私の頭はいくらか冷静さを取り戻す。すると、当たり前の事実が脳裏をよぎった。
「……えっ、ていうことは少なくとも私は、今日一日は速水さんとして過ごさなきゃならないってこと……?」
「まあ、そうなっちゃうね。必然的に」
速水さんは事もなげに言っていたけれど、私は落ち着いて構えることはできなかった。
速水さんはまだいいだろう。見かけでは私の身体なのだから、他の人に話しかけられることは考えられにくい。黙ってさえいれば、やり過ごすこと自体はできそうだ。
でも、私は違う。私は今、他の人から見たら速水さんなのだ。教室に戻ったら高木さんたちに話しかけられるだろう。そのときに私がボロを出さずに対応できるとは、あまり思えなかった。
「そんな。私、速水さんでいられる自信まったくないよ」
「それはあたしもそうだよ。外崎さんと話す機会って今まであまりなかったからね。よく考えなくても、あたしたちはお互いについて、ほとんど何も知らないわけだし」
「だからさ、ひとまず今日一日を無事に乗り越えられるように、ちょっと情報交換しようよ」そう持ちかけてきた速水さんに、私も頷いた。お互いを演じるための材料は、少しでも多く持っていた方がいい。
私たちはお互い、自分について簡単に紹介した。誕生日や血液型、家族構成といった基本情報から、ついついやってしまう癖や今はまっているものなどパーソナルな情報まで、時間の許す限り、お互いの特徴について確認し合う。
冷静さを欠いているとは思えないほど、速水さんは雄弁で、私は頭に入れるのに少し苦労する。
反対に、私はそこまで自分のことについて話せなかった。恥ずかしさもあったし、私の特徴や中にあるものが速水さんと比べて格段に少なくて、気後れもしてしまう。私には何もないとまでは言わないけれど、一七年の人生に似合わない薄っぺらさに、少し嫌気も差してしまった。
気づけば私たちは昼休み中ずっと一緒にいて、同時に授業開始五分前を知らせる予鈴を聞いていた。
でも、私には気が重い。速水さんを演じるのは、普段の私からすれば、かなり無理をしなければならないことだ。
それでも、もう教室に戻らなければならない。私は踊り場から離れようとする。でも、速水さんはまだ留まって、私に声をかけてきた。
「ねぇ、外崎さん。今スマホ持ってる?」
「うん、持ってるけど」
「じゃあさ、ライン交換しとこうよ。何かあったときのためにさ」
私たちのクラスは結束力が薄く、クラス全体のグループラインは存在していなかった。だから、私たちはお互いのラインを知らない。
ここまで軽い調子でラインを訊いてくる速水さんに、やはり私はクラスの中心にいるだけのコミュニケーション能力を感じて、少し面食らってしまう。私が一度も発したことがない言葉が自分の口から出ているのが、どこか奇妙にも感じられた。
とはいえ、「しないの?」とでも言いたげな表情をしている速水さんを見ると、断る選択肢は姿を消していく。恥ずかしさもあったけれど、最終的に交換しておいて損はないだろうという思いが、私の首を縦に振らせた。
私たちはQRコードを表示して、ラインを交換する。速水さんのスマートフォンの画面、その一番上に私の名前が表示されると、私はどこかこそばゆい思いを抱いた。
「じゃあ、教室に戻ろっか」と言われて、私たちは踊り場を後にする。
二人で教室に入ると、その組み合わせの珍しさから、高木さんたちにどうしたのか訊かれたけれど、私は曖昧にはぐらかした。
チャイムが鳴って先生が入ってきて、生徒たちは自分の席についていく。私はちらりと横目で速水さんの様子を窺った。速水さんは普段の私のように背筋を丸めていたけれど、私の身体からは明らかに、私のものではないオーラが漂っていた。
授業中も高木さんたちは先生の目を盗んで、四人のグループラインでどうして私と速水さんが一緒にいたのかを訊いてきた。そう簡単には逃げきれないと、私は悟る。
授業もそっちのけで考え続けて、私に勉強を教えていたというありがちな理由をでっちあげた。「そんな関係だったっけ?」と少しつっこまれもしたけれど、「頼みこまれてどうしても断れなかった」と返信する。
最終的には高木さんたちも納得してくれたようで、私は周囲の速水さんに対する信頼度の高さを思い知った。何考えてるか分かんない奴と思われている私とは大違いだ。
放課後。テニス部の練習を私は「ちょっと頭痛い」という理由で避けていた。私にテニスの経験は体育の授業ぐらいしかない。だから、速水さんのようには動けないと判断しての結果だ。まあ一日だけならと、昼休みに速水さんの了承も得ている。
今日は休むと同じテニス部でもある高木さんに伝えると、高木さんは「保健室行かなくていいの?」と心配してくれたけれど、私は「家に帰って休みたい」と押し通した。仮病を使ったのは初めてだったけれど、顔をしかめる演技も功を奏したようで、私は授業が終わるとまっすぐ家に帰ることができていた。
たとえそれが少しも慣れていない速水さんの家だったとしても、学校にいて怪しまれるよりはずっとマシだった。
地図アプリを見ながら、私は速水さんの家に辿り着く。鍵を開けて入った家はやはりまだ人の気配はなく、実際以上に広く感じられた。
速水さんから教えてもらった通りの部屋着に着替えると、私は途端に手持ち無沙汰になってしまう。ここは私にとっては他人の家なのだ。無理に何があるか探ったりすることは気が引ける。
同じ理由で速水さんのスマートフォンを詳しく見ることも私にはできなかった。聴いている音楽や、読んでいる本や漫画。インストールしているアプリに、お気に入りのYouTubeチャンネル。それらを確かめることは、私には速水さんの奥まった部分を勝手に覗くようで、できなかった。速水さんだって私に知られたくないこともあるだろう。私だって同様だ。
だから、私に取れる選択肢といったら、二階の速水さんの部屋に行って、今日出された課題を終わらせることぐらいだった。
問題集を開いて、指定されたページに取り組んでみる。でも、勉強は全然捗らなかった。私はもともと勉強があまり得意ではない。速水さんならこの問題もスラスラと解けるんだろうなと思うと、今さら劣等感に苛まれる。
一日勉強をしなくたって何とかなるだろうと、私は自分に言い聞かせて課題に取り組むのをやめた。時刻はまだ午後の六時を回ったところで、九月の空はまだまだ明るかった。
速水さんのプライベートにはなるべくタッチしたくない。となると、私にできることはただテレビを見ることぐらいしかなかった。
適当なバラエティ番組にチャンネルを合わせる。だけれど、私は普段ほとんどバラエティ番組を見ないから、演出された明るく陽気なノリには少しも乗れなかった。ただ、画面を眺めながらじっと時間が過ぎるのを待つだけ。
そんな中でも速水さんのお母さん(速水さんが言うところには下の名前は遥というらしい)はなかなか帰ってはこなかった。仕事が遅くなるというのは、どうやら本当のことらしいと私は悟る。まあ実の娘に嘘をつく必要もないと思うけれど。
バラエティ番組は終わって、テレビではドラマが始まった。話の雰囲気から佳境に入っていることは察せられたけれど、私はこのドラマを見ていないから何のことかはやはり分からなかった。
私がただ漫然とドラマを見ている間も、遥さんはなかなか戻ってこなかった。今朝「ご飯は適当に食べといて」と言われているけれど、私に他人の家の冷蔵庫を漁るなんて真似ができるはずもなく、未だに空腹のままでいる。
コンビニエンスストアで買ってもよかったけれど、速水さんの家でゴミを出すことさえ、私は気が引けていた。
「ただいまー」
(続く)