【第26話】メロウな時間
そのまま速水さんとは一言も喋ることなく、私たちは放課後を迎えてしまう。
ギターの練習だけは一緒にすることになっていたので、私は速水さんの家に戻るとすぐ、ギターケースを背負って外に出る。一応、勉強道具も一緒に持っていった。
インターフォンを押すと、ちゃんと速水さんが出てきて、私を迎えてくれる。でも、発した言葉は「入って」のみで、やはり私を許していないことが窺えてしまう。
言葉少なに答えた私は、取り繕ったように微笑むことすらできていなかった。
ギターの練習は今まで通り、速水さんが弾いてみて、私がアドバイスをする形で行われた。
速水さんは日に日に上達していて、もうTAB譜を見ながらなら、最後までつかえることなく弾けるようになっている。私からのアドバイスも反比例するように減っていて、もう来週には歌いながらの練習に入れそうだと感じる。
でも、どれだけ私が褒めても、速水さんの態度は釣れないままだった。褒められてもうれしくないどころか、私と一緒にいたくないことをどうにか我慢しているようにさえ、私には感じられてしまう。つんけんとしている速水さんの前では、褒め言葉を口にするのも一苦労だというのに。
でも、それを口にすることは私には憚られた。速水さんのせいだと責任を負わせる真似は、私にはとてもできなかった。
翌日の金曜日も、ほとんど変わらない様子で過ぎていった。
相変わらず速水さんは私に興味を示そうともせず、私も開いてしまった速水さんとの距離を詰められなかった。二人でするギターの練習も楽しかったはずなのに、今はいたたまれない時間に姿を変えてしまっている。練習が終わって私の家から出たとき、解放されたと感じたくらいだ。
とはいえ、遥さんに志水さんと一緒になってほしいと言うこともできず、私はどっちつかずのまま、ただ時間を空費してしまう。このままでは文化祭に支障が出ることは明らかだろう。
何とかしなければとは思うけれど、遥さんへの回答を保留にしたまま、速水さんとの関係を修復する妙案は私には思いつかなかった。消極的に、ずるずると事態が悪化する方を選んでしまっていた。
そして、迎えた土曜日。私は少し遅めに起床して、朝食を食べると、かなり慣れてきたメイクをした。
とはいえ、すぐに外に出ていこうというわけではない。遥さんが仕事に出かけていった家で、ギターを練習したり、勉強をしたりして、そのときがやってくるのを待つ。
インターフォンが鳴らされたのは、一一時になる頃だった。
玄関に行ってドアを開けると、そこには高木さん、宇都宮さん、稲垣さんの三人が揃っていた。三人とも何一つ気負っていない、自然な格好をしている。
「来たよー」と口々に言う三人に、私は小さく微笑む。速水さんとのことは気がかりだったけれど、三人の前ではそつなく振る舞えるくらい、私が速水さんでいる期間は長かった。
話が出たのは一昨日のことだった。宇都宮さんが最近見たアニメが面白かったから、私たちにも見てほしいと言ってきたのだ。
私は漫画やアニメにはとんと疎いから、タイトルを訊いてもいまいちピンとは来なかったけれど、話はなかなかに盛り上がり、今度四人で一緒に見ようということになった。話の流れでなんとなく速水さんの家で見ることが決まり(速水さんの家が一番広いかららしい)、そしてその今度が今だというわけだ。
家に上がるやいなや、三人はソファに座ってくつろいでいる。
その肩ひじ張らない様子が、私にはおかしく、それと同時にわずかな緊張感も抱かせる。高木さんたちと一緒にいる時間の長さを考えると、ボロを出さないでいられるか私はドキドキしていた。
「ねぇ、由海。今日は外崎さん、呼んでないの?」
何か飲むものをと、麦茶を準備していたところに話しかけられて、私は身体をびくつかせてしまいそうになる。
ここ二日の私たちの様子から察してほしいとも思ったけれど、高木さんは確認の意味で訊いているのだろう。だから、私もなるべく自然な反応を装って答える。
「うん。声はかけてみたんだけど、何か用事があるみたいで来れないんだって」
「用事ってどんな用事?」
「さあ。そこまでは訊けなかったから、分かんないかな」
私の言っていることに、根拠は一つもなかった。疑われて「ちょっと今連絡してみてよ」と言われても不思議じゃない。
でも、高木さんたちは雲をつかむような私の説明にも納得してくれたのか、それ以上訊いてはこなかった。
それが高木さんたちの間での、本来の私のポジションを暗示しているようで、私は少し切なくなってしまう。あまり必要とされていないのは、それはそれで悲しかった。
「よし、準備できた。じゃあ、始めていいね?」
私が人数分の麦茶をテーブルに置いてから間もなくして、宇都宮さんが言う。既にテレビ画面には、配信サービスのトップ画面が表示されている。
私たちが頷くと、宇都宮さんは持参したタブレット端末を操作した。すると呼応するように、テレビ画面も動き出す。たったそれだけのことなのに、私たちはかすかに色めき立ってしまう。少なくとも私にとっては、初めて見る光景だ。
速水さんであることさえ忘れて、素で驚いてしまう。私たちの視線は一斉に画面に向いていて、そんな私でも高木さんたちに詮索されることはなかった。
宇都宮さんが選んだのは、高校入学を機に地方から上京してきた女子高生が、ささやかなスクールライフを送るというテレビアニメだった。原作の漫画があって、それをアニメ化したものらしい。
爽やかなオープニングの後に、初めての東京でさっそく複雑な乗り換えに迷ってしまう主人公の姿に、私はおかしくなってしまう。
でも、裸足で走り出したときには自分の感情が湧き立つのを感じたし、一話目を見終えた頃には、私はすっかりその主人公に好感を持っていた。真面目すぎるところはあるけれど、それでもちゃんと自分を持っているところが清々しい。
アニメというからにはもっと宇宙人が攻めてきたり、キャラクターが何らかの能力を持っていたりするものを想像していたから、あまりの日常さには少し驚きもしたけれど、でも何一つ身構えずに見られて、このアニメを好きだと言った宇都宮さんの気持ちが、私には分かる気がした。
高木さんや稲垣さんも、和やかな表情をしていて、悪くは思っていないことが窺える。リビングにはゆったりとした空気が流れていて、日頃の勉強や部活といった忙しさから、私たちは束の間解放されていた。
「そう言えば由海、ギターの練習って進んでるの?」
アニメも三話目に差しかかり、私たちが昼食がわりに買ってあったポテトチップスや個包装のチョコレートを食べていると、ふと高木さんが訊いてきた。
目はテレビに向いていて、アニメに飽きたわけではなさそうだけれど、それでも会話のきっかけを与えられれば、私は答えるしかない。
「うん、順調だよ。コードを抑えなくていいなら、けっこう弾けるようになってきた。今はコードを抑えながら、弾いて歌えるように練習してるところかな」
「コード?」
「うん。いくつかの弦を同時に抑えるの」
「へぇ、難しそう」
「まあね。でも、コードはギターの基本だから。一つの音だけじゃ、歌いながら弾くにはどうしても弱いからね。それに単音弾きのフレーズ、リフって言うんだけど、を弾きながら歌うのはかなり難しいらしくて。コードを弾きながらの方が、簡単なんだって」
「なるほどね。そういうもんなんだ」
私たちの会話は、全員がどちらかというとテレビに意識を向けていたから、あまり弾まなかった。
でも、その散発的な会話が私にはありがたいと思える。深く込み入った話をしたら、速水さんとしては違和感の残る振る舞いをしかねない。
だから、アニメを見ながらという今の状況は、この場を乗り切るためには悪くはなかった。
「ねぇ、外崎さんってギター上手いの?」
そう尋ねてきた稲垣さんには、たぶんただ気になったからという理由しかないのだろう。
だけれど、私は返す言葉に迷ってしまう。速水さんも精いっぱい努力しているけれど、それでも今の状態ではまだ上手いとは言えない。だから、ここで頷いたらハードルを上げてしまうことになる。
とはいえ、三人から見れば今の速水さんは、本来通り私なのだ。私が小学生の頃からギターを弾いていることを、三人は知っている。下手だと言い切ってしまったら、辻褄が合わなくなってしまう。
少し考えた挙げ句、私は「まあ、それなりにね」とぼかした答えを返した。でも、それは三人の期待を煽ることに繋がっていた。
「やっぱそうか。小学生のときからやってるって言ってたもんね」
「う、うん。でも上手いって言っても、あくまで学生レベルではって話だよ。みんなが普段聴いてるプロの人たちとは、比べ物にならないんだから」
「なんで由海が謙遜してるの。別にそんな卑下しなくたっていいじゃん」そう宇都宮さんにつっこまれ、私は心の中で慌てふためいてしまう。速水さんのためにもできるだけハードルを下げておきたいという思いは、この場では逆効果になっていた。
「いや、それは……。めちゃくちゃ期待されたとしても、あたしたちがそれに応えられるかどうかは分かんないから……」
「何、弱気になってんの。由海らしくないよ。それに私たちもさ、期待はしてるけど、でも誰もプロ並みの演奏は求めてないから。由海たちらしく楽しくやってくれれば、私はそれでいいよ」
高木さんに気遣われるような言葉をかけられても、私の胸に垂れこめる雲は晴れなかった。
今のギスギスした関係のままでは、観客にいい演奏を聴かせることも、演奏している私たち自身が楽しいと感じることもできないだろう。一日でも早く関係を修復しなければと、私は内心焦ってしまう。
だけれど、そのためのとっかかりを私はまだ掴めていない。不安に思う心は、はっきりしない返事に現れる。
速水さんらしくない態度に、「どうかした?」と三人から心配されたものの、私は「ううん、大丈夫。何でもない」と、この場を収拾させることを試みた。
それはうまくいっているとは言い難かったけれど、私が発したこれ以上話を深堀りしてほしくないという雰囲気を察してくれたのか、三人とも重ねて心配はしてこなかった。
気を遣わせてしまったようで、私は申し訳ない。テレビで流れているアニメも、今だけは頭に入ってこない。
当然お菓子を食べることもできなくて、私はただじっとテレビ画面を見つめた。
まったく速水さんらしい行動ではなかったけれど、それでも取り繕ってこれ以上傷口を広げるよりは幾分マシだと、私は思いたかった。
(続く)