【第24話】他人だよ
「ねぇ、外崎さん。もしかして昨日、何かあった?」
速水さんが訊いてきたのは、昼休みになって、屋上へと向かう階段の踊り場で私たち二人が顔を合わせたときだった。私も完全に今まで通り振る舞えている感触はなかったから、速水さんに不思議がられるのも当然だろう。
だけれど、速水さんに度を超した心配をかけたくなくて、私は返事を渋ってしまう。ずっと言わないでおくことはできなくても、伝える瞬間を先延ばしにしたいと感じてしまう。
「べ、別になんでもないよ。昨日スマホの見過ぎで、なかなか眠れなかったから、ちょっと調子悪いだけ」
「そう? あたしにはちょっとどころじゃない気がしたんだけど。スマホの見過ぎっていうのも、たぶん本当の理由じゃないよね? ねぇ、外崎さん。あたしたちの今の関係で、嘘つく理由ある? お願いだから、正直に言ってよ」
私が口にしたエクスキューズは、何の意味も持たなかった。速水さんの目は切実で、言葉以上に私の心に強く訴えかけてくる。
きっと私が何を言っても、速水さんは分かっていたような顔をして、受け入れてくれるのだろう。むしろ正直に話すことが、速水さんに対しての礼儀な気もする。
私は心を固めた。速水さんの目を見て、声が籠もらないように心がける。
「じゃ、じゃあ言うね。実は昨日、志水さんとの食事でのことだったんだけど……」
私は自分の頭をも整理するように、順を追って一つ一つ話し始めた。
志水さんが選んだのはレストランの個室だったこと。その中で、志水さんが遥さんにプロポーズをしたこと。そして、返事に当たって私の意思を確認されて、答えをまだ保留にしていること。いまだ逸っている自分の心を落ち着かせるように、丁寧に確実に話した。
でも、速水さんに伝えても、私の頭はまだこんがらがったままだった。一晩経っても昨日受けた衝撃を、私はまだ完全に受け入れられていなかった。
「なるほどね。そんなことがあったんだ」
話の腰を折ることなく、全てを聞き入れてから、速水さんは落ち着いたような声で言っていた。どこか冷めたようなリアクションが、私にはひどく意外に思える。
確かに昨日志水さんと食事をすることは、速水さんには事前に伝えてあった。でも、身内の一大事だから、もっと驚いたり慌てたりしてもいい気がする。
「えっ、それだけ……? 速水さん、なんか冷静じゃない……?」
「いや、そりゃ驚いてはいるよ。うん、全然驚いてる。でも、お母さんと志水さんは正直、いつそうなってもおかしくないように見えてたから、とうとうこのときが来ちゃったかって感じ」
速水さんが口にした言葉は、まるで他人事のような響きを帯びていた。自分が衝撃を受けていることを確認しているようにも、私には聞こえる。
もしかしたら驚きのあまり、速水さんの防衛反応が働いているのかもしれなかったけれど、私はあまりそうは思えなかった。
「で、確認だけど、外崎さんはその場で返事をしなかったんだよね?」
私は小さく頷く。私が勝手に判断を下していいとは、少しも思えなかった。
速水さんだって、たいそう頭を悩ませるに違いない。
でも、速水さんは深く悩んだり考えたりはしなかった。自明のことかのように、あっけらかんと口にする。
「いいよ。オーケーしちゃって。あたしの返事はイエスだって、今日お母さんが帰ってきたときにでも伝えといて」
あっさりと言ってのけた速水さんに、私は思わず目を瞬かせてしまう。そんな簡単に結論を出していいことだとは思えない。今はラインぐらいしか手段がないけれど、それでももっと遥さんと話し合ってから、決めるべきではないのか。
「えっ、いいの?」
「いいのいいの。他ならぬあたしが言ってるんだよ。あたしがオーケーでお母さんもオーケー。だとしたら、もう一緒にいることを邪魔するものは何もないでしょ」
「いや、でも速水さん、志水さんのことあまり得意じゃないって言ってたじゃん……」
「それは単純に、まだ数回しか会ってないからだよ。これから一緒に暮らして時間を共にしてけば、そんな感情すぐになくなってくよ」
「いや、でも……」
私は素直に頷けない。速水さんが無理やり自分を納得させようとしているように感じられていた。
一度抱いた苦手意識は、なかなか払拭できないだろう。いや、一緒に暮らしていくうちに、ますます増大することだって十分に考えられる。
志水さんのプロポーズを受け入れることが速水さんのためになるとは、やっぱり私には思えない。
それなのに速水さんは私の名前を呼んで、顔をぐいっと近づけてくる。有無を言わせぬ迫力があって、私は自分の顔なのにたじろいでしまいそうになった。
「これはあたしの家のことなの。あたしとお母さんと志水さんの問題なの。外崎さんは自分が、そういう他人のナイーブな問題にずけずけと踏みこんでいいと思ってるの?」
私はしどろもどろな返事さえできなかった。確かにその通りだ。速水家の出来事に、私が介入できる余地はない。
それでも、にわかには納得できなかった。私だって、もう三週間以上速水さんとして、遥さんと過ごしてきている。遥さんの仕事が忙しくて、家を空けている時間が多かったとしても、だ。
「で、でも……」
「でも、何なの? 私は今は他人じゃないって言いたいの? はっきり言うけど、外崎さんは他人だよ。あたしの家族は現時点では、あたしとお母さんだけ。外崎さんは全然違うよ。たとえ、今はあたしの身体でいるとしても」
ぐうの音も出ないとはこのことかと感じる。私は速水さんに、完全に説き伏せられていた。
「大丈夫だって。元に戻ったとき、あたしはうまくやるから。もちろん外崎さんが黙ったままなのは問題だったけど、こうして教えてくれたことで、あたしもいくらでも対応の仕方があるわけだしね」
速水さんは志水さんと遥さんが一緒になることを、既に受け入れているようだった。自分の意志はまるっきり無視して。
でも、私はそれを寂しいと思う。速水さんには、自分の感情を押し殺さないでほしいと思う。
だけれど、私はそれを言葉にできない。何を言っても、次の瞬間には速水さんに説得されてしまいそうな気がした。
私が口にする言葉を見つけられず、速水さんもまた話すことをやめると、しばらくして授業開始五分前を告げる予鈴が鳴る。
「じゃあ、あたし先教室戻ってるから。外崎さんも遅れないように戻りなよ」と言って、速水さんが踊り場から去っていく。私はそれを逃げたとは、まったく思わなかった。
逃げているのは私の方だ。結論が出る瞬間を私は恐れている。自分のことを意気地なしだと思い、速水さんの身体になっても変えられない性分を、恨めしく思う。
私は階段を下り始めた。どうしようもなくても、やはり授業は受けなければならなかった。
速水さんの意思に反して、私は遥さんに「プロポーズをオーケーしていい」とは、速水さんが許可してくれた日の夜も、また次の日も言い出せずにいた。
確かに私が、この話に首を突っこむのは間違っているかもしれない。でも、短くない時間を速水さんとして過ごしている以上、私は自分のことを部外者だとは思いたくなかった。
それに、志水さんのプロポーズを受け入れることが、本当に速水さんにとっての幸せになるかも分からない。
だから、遥さんや速水さんと一緒にいるたびにプレッシャーを感じて、息が詰まる思いがしながらも、私は辛うじて最後の一線を越えずにいた。宙ぶらりんな状況に、どうにか耐え続けていた。
私が何かを踏み出すこともなく、またお互いが元に戻ることもなく、私たちは水曜日を迎えていた。
いち早く速水さんの家に戻った私は、そわそわしながらそのときを今か今かと待ち続ける。そして、そのときは予想していたよりも早くやってきた。
インターフォンの音が聞こえて玄関に向かうと、そこにはギターケースを背負った速水さんが立っていた。想定していたよりも早い到着に、私の家に戻るやいなやすぐに支度を調えて出てきたことが分かる。
速水さんが自分の家に戻るのは、私にメイクを教えに来たとき以来だ。速水さんは目に映るものすべてを懐かしそうに眺めていて、私は入れ替わっている時間の長さを思い知る。
私たちの日常は、じわじわとその姿を変えつつあった。
私たちは速水さんの家に入って、さっそくギターの練習を始める。速水さんはさすがに呑み込みが早くて、私が作った曲をTAB譜を見ながらなら、以前ほどつかえることなく弾けるようになっていた。
もちろんまだまだコードの移行がうまくいかない部分はあるものの、それでもその上達スピードはギターを始めてまだ二週間ほどしか経っていないとは思えない。シンプルで簡単なコードだけを使って作った曲なのに、もう少し複雑にしてもよかったかもしれないとさえ思えるくらいだ。
この調子なら来週の今頃には、TAB譜を見なくてもつかえずに弾けるようになって、少しずつ歌いながら弾く練習も始められるかもしれない。
速水さんも手ごたえを得ているようで、意気揚々といった表情をしている。前向きな態度に、まだプロポーズの結論を遥さんに伝えられていないことに、私の中で切々と申し訳なさが募った。
遥さんが帰ってきたのは、六時になる前のことだった。ギターの練習も終えて、勉強に取りかかっていた私たちは不意に鳴ったインターフォンの音に一階に下りていく。いつもは夜の九時や一〇時を過ぎてようやく帰ってくることが多い遥さんにとっては、かなり早い帰宅だ。
玄関を上がった遥さんは両手にレジ袋を持っている。その袋の中身がピザの箱であることは、私には一目見ただけで分かった。
「ただいま、由海」
「うん。おかえり、お母さん。今日は早いね」
「約束は守んないといけないからね。急ピッチで仕事を終わらせてきたんだ」
そう言うと、遥さんの視線は速水さんに向いた。速水さんは私になってから、初めて遥さんに会っている。
内心では言葉にできないほどの思いを感じているのだろうが、表情は穏やかで、しっかりと私を演じてくれていた。
「あなたが外崎千早希ちゃんね。いつも由海と仲良くしてくれてありがとう」
遥さんの表情は透き通っていて、私が速水さんの立場だったら、思わず泣いてしまいそうなほどだった。
それでも、速水さんは微笑んだままでいる。その表情はもう、私の目には不自然には見えなかった。
「はい。遥さん、はじめまして。今日はよろしくお願いします」
「うん、よろしく。じゃあ、こんなところで立ち話も何だから、中でご飯食べながら話しましょうか」
「ちょっと、お母さん。もうご飯にするつもり? 早くない?」
「だって、ここ最近は少しずつ日も短くなってきてるし、千早希ちゃんには暗くなる前に帰ってもらわないと困るでしょ。お父さんやお母さんも心配するだろうし」
「それは確かにそうですね」
「でしょ? そう思ってすぐに食べられるピザを買ってきたんだから。二人とももうご飯食べられるよね?」
私たちは頷いた。遥さんの言うことは妥当だろう。友達がやってきたからといって、手料理を振る舞わなければいけない決まりはどこにもない。
こういう合理的な思考ができるのが遥さんだと、私は既に身に染みて分かっていた。言わずもがな速水さんも。
私たちがテーブルに着くと、遥さんはさっそくピザを広げる。マルゲリータと照り焼きチキンとコーンマヨネーズだ。目にしただけでカロリーが高そうな出で立ちに、私はかすかな苦笑とそれ以上の美味しそうという思いを抱く。
私たちは「いただきます」をしてから、ピザに手を伸ばし始めた。私は最初にマルゲリータピザをいただく。トマトソースにコクがあった。
食事をしながらの会話は、どうして一緒に文化祭に出ることになったのかという、私の家でもしたお決まりの話題から始まった。
当然想定できた話題だから、私たちも説明するのに大きな苦労はいらない。以前から速水さんが私が曲を作っていることを知っていたという作り上げた設定を、私たちはお互いの口から話す。
遥さんは何の疑問もなく信じていて、私たちはボロを出してはいないらしい。遥さんに本当のことを言えないのは申し訳なかったけれど、でも今はそう言うより他になかった。
(続く)