【第23話】何かあった?
スープに魚料理、肉料理とコース料理は一定の間隔を置いて、次々と運ばれてくる。どの料理も当然のように美味しくて、私は少なくとも舌だけは満足できていた。
白ワインから赤ワインに切り替えて、遥さんたちのお酒も進んでいる。会話も滞りなく弾み、傍から見れば私たちの間に不安要素は一かけらもない。
でも、私は料理を食べるたびに、心臓の鼓動が大きくなっていくのを感じていた。このままコース料理を食べて、和やかに話をして、それで終わりというわけにはいかないだろう。その瞬間が刻一刻と近づいてきていることに、私は恐れにも似たような感覚を抱く。
今の状況も別に心地よくはないけれど、これ以上胸を締めつけられずに志水さんと別れたいと、私は失礼ながら思ってしまっていた。
「遥さん、実は今日は大事な話があるんです」
志水さんがそう切り出したのは、デザートにみかんのシャーベットを食べて、コース料理が終わりを告げた頃だった。「はい、なんでしょう」と答えている遥さんは、あくまで自然体を装っている。
でも、私はとうとうこの瞬間が来たかと、息を呑まずにはいられなかった。まるで自分のことのように緊張してしまう。
「遥さんは、僕といて楽しいですか?」
志水さんは、中学生みたいな話の切り出し方をしていた。いい大人が訊くようなことだとは私には思えなかったけれど、それでも人はいくつになっても、こういう場面ではこんな話の始め方しかできないのかもしれない。
遥さんは穏やかな表情を保っていて、まるでこう訊かれることを想定していたかのようだ。
「ええ、楽しいですよ。志水さんは話題も豊富で、知性とユーモアがあって、話していると心が落ち着きます。普段あまり食べられない、こういう料理をご馳走してくれるのも嬉しいです」
「そうですか。僕も遥さんと話していると楽しいです。遥さんはセンスがいいだけじゃなく、人を思いやる心に満ちていて、心が軽くなります。時間が許せば、もっと会って話したいくらいです」
付き合いたてのカップルみたいに言葉を交わす二人の間に、私は割りこめない。私はそこまで空気を読めない人間じゃない。今は静かに、存在感を消しておくべきだろう。
たとえ、二人がそれを望んでいなかったとしても。
「遥さん、僕の飾らない本心を言ってもいいですか?」
これ以上の回り道は得策ではないと思ったのだろう。志水さんは直線距離で訊いてきた。
遥さんはただ「はい」とだけ答えている。私も固唾を呑んで見守る。けたたましく動いている心臓を直に感じながら。
「僕は遥さんのことが好きです。よかったら僕と一緒になりませんか?」
志水さんが口にした言葉は、私の想像から少しも外れていなかった。個室に通されたときから、いや今日会ったときから容易に予想できたことだ。
でも、私は時間が止まったかのような感覚を抱いてしまう。私の頭は、志水さんが言った言葉をすぐには理解しようとはしなかった。どこか遠い世界の出来事のようにさえ、思えた。目の前で繰り広げられている光景だというのに。
「ありがとうございます。そう言っていただけて、私もとても嬉しいです」
遥さんはかすかに顔を赤らめて、ひとまずワンクッションを置いていた。おそらく続くであろう言葉を、私は敏感に察する。どう転んでも、私にとっては良い事態にはならなさそうだ。
いや、そもそも今の私にとって、良い事態とは何なのだろう。考えれば考えるほど頭がこんがらがってきそうで、私にはよく分からなかった。
「遥さん、僕たちにはお互いが必要なんですよ。仕事でも、それ以外のところでも。僕は遥さんとお互いに支え合って、これからの人生を歩んでいきたいと思っています。だから、お願いです。僕と一緒になってください」
私と同じく、遥さんが次に言うであろう言葉を察したのだろう。志水さんは前のめりになるように、言葉を重ねていた。
そして、テーブルの下に置いていた手を、私たちに見えるところまで持ち上げた。その手に握られているものに、私は目を瞬かせてしまう。
志水さんが手にしていたのは、白金色の四角いケースだった。
蓋が開けられる。中に入っていたのは銀色に輝く指輪だった。それが何を意味しているのか、私には一瞬で分かってしまう。
「お願いします」と、志水さんは改めて言ってから、頭を下げている。
人がプロポーズする瞬間を、私は初めて目の当たりにしていた。でも、こういう状況は望んでいなかったと、二人には本当に申し訳ないけれど、私は思ってしまう。
ここに居合わせるべきなのは、絶対に私じゃない。
「志水さん、顔を上げてください」
遥さんの声は落ち着き払っているように、私には聴こえた。こうなることがずっと前から分かっていたみたいに。
顔を上げた志水さんは、表情に緊張の色を隠せていない。その瞳の奥にはっきりとした不安が覗いているのも見て取れて、私は視線のやり場に困ってしまう。
「志水さんのお気持ちはよく分かりました。私も志水さんといるときは変に飾らず、自然体でいられます。本来だったら、ここで頷いて指輪を受け取るべきなんでしょう」
ひとまず理解を示した遥さんは、大人の対応をしたと言ってよかった。
それでも、明確な返事をしなかったことに、私は悪い予感を抱いてしまう。
そして、それが現実のものとなるのには、少しの時間もかからなかった。
「でも」と言葉を繋いだ遥さんが、私に顔を向けている。その大きな目に、私は背筋がぞくっとさえした。
「これだけは私の一存では決められません。私は一人ではないですから。由海がどう思うのか。志水さんと一緒にいたいと望むのか。そうでなければ、私はこの指輪を受け取れません」
遥さんがそう言って、志水さんの目も私に向く。二人分の視線に、私はじわじわと追い詰められている心地がした。
自分の意志で決められないのかと、遥さんを責めたい気持ちも私には湧き上がる。
でも、それは絶対にしてはいけないことだ。口にしてしまったら、私がここにいる意味がない。
遥さんはたった一人の娘としての、私の気持ちを尊重しようとしてくれているのだ。だとしたら、私はそれに応える義務がある。
二人の視線が音を立てて刺さりそうななか、私は勇気を出して口を開いた。
「あ、あたしは正直、すぐには結論は出せません。もちろん志水さんのことは、信頼してないわけじゃないです。私たちを気遣って、尊重してくれるだろうことも分かっています。で、でも私はすぐに『はい』とは言えないです。少し考える時間をいただいてもいいですか……?」
失礼な奴だと責められるのも覚悟のうちだ。返事を保留にした曖昧な態度に、失望されても仕方がない。
だけれど、それでも私はこの場ですぐに首を縦に振ることは、どうしてもできなかった。私は速水さんじゃない。遥さんの一人娘じゃない。そんな私が、速水さんのいないところで勝手に決めていいとは、少しも思えなかった。
私のはっきりしない態度にも、二人は顔を歪めていない。「気持ちは分かる」とでも言うような様子が、私により深く突き刺さる。
「うん、いいよ。確かにこんな急に言われても、すぐに『はい、お願いします』とは言えないよね。いいよ。由海ちゃんの気が済むまで、じっくり考えたらいい。それでどんな答えになったとしても、僕はちゃんとそれを受け入れるから」
「そうよ、由海。私たちに気なんて一切遣わなくていいからね。由海の思うようにしていいから。この話は由海がどう思うかが、とても重要なんだからね」
二人にそう言われると、私に責任がのしかかっているような気がした。私の意志で二人の、速水さんの人生が大きく変わってしまう。それに耐えられるだけの気概は、私にはなかった。
ただ、「は、はい……」と答えるだけに留める。まったく速水さんらしい態度ではなかったけれど、速水さんならこんなときどんな表情をしているか、私には分かるはずもない。改めて元に戻れていないのが口惜しい。
尻込みするような態度を示した私にも、二人は穏やかな表情を向けてくれている。それが輪をかけて辛くて、私が感じる思いは、バツが悪いなんて言葉ではとうてい足りなかった。
志水さんとの食事が終わって、速水さんの家に戻ってきても、私はなかなか寝つけずにいた。頭の中では、先ほど受けた衝撃が、ぐるぐると忙しなく巡っている。すぐに消化することなんて、とてもできるはずがなかった。
もちろん、この話を速水さんに黙っておくわけにはいかないだろう。いずれは必ず話さなければならない。
でも、そのときのことを思うと、私はますます気が重くなっていた。私にこんな心労をかけている志水さんと遥さんのことが少しだけ恨めしく思えたりもしたけれど、それは詮無きことだった。
目を瞑っては、眠れず目を開けて。少し眠れたと思ったら、またすぐ目を覚まして。
長い長い夜を経て、私はようやく朝を迎えていた。結局全部合わせても、三時間ほどしか眠れなかった気がする。これでは授業に影響が出てしまうこと必至だ。速水さんだけじゃなくクラスメイトにも気がかりに思われるかもしれない。
何とか踏ん張らなければと思いながら、私はベッドから起き上がってリビングに向かった。今日は祝日が明けた火曜日だった。
私がリビングに着いたとき、遥さんは朝食を食べ終えて、仕事に行く支度をしていた。まだ朝の七時を過ぎた頃だというのに。その表情には昨日の疲れは微塵も見られず、それどころか昨日の食事は何事もなく終わったと言っているようで、私は感服するどころか、少し恐れさえ抱いてしまう。
志水さんとのことは話題に出すこともなく、「今日も遅くなるから、晩ご飯好きに食べといてね」と定型句を発する遥さん。私も頷いて、颯爽と家を出ていく遥さんを見送った。
一人ぼっちの家は、慣れてきたはずなのに、かすかな露悪的な空気を私は感じてしまう。昨日までの私とは決定的に異なっていることを、私は痛感していた。
遥さんが作ってくれた(とはいってもレンジでチンしただけだけど)朝食を食べて、震えそうになる手を何とか抑えながらメイクを施して、私は今日も高木さんと顔を合わせる。
万が一にも昨日のことを悟らせないためにも、私は努めて平然とした様子を装った。幸い速水さんになっている時間と比例するように、高木さんとも話が合うようになってきている。だから、入れ替わっている違和感に加え、志水さんとのことでぐらぐらに揺れている私でも、なんとか内心は覆い隠すことができた。
高木さんも「どうしたの?」と調子を尋ねてはきていない。もしかしたら私の異変に感づいているかもしれなかったけれど、それでも深く訊いてこなかったことは、私にはありがたかった。
宇都宮さんや稲垣さんとも合流して、学校に到着した私たちは教室に入るやいなや、先に登校していた速水さんと顔を合わせる。
「おはよう」と挨拶を交わしながら、私は不自然に速水さんから目を逸らすことはしない。文化祭への出演が知れ渡って以降、(私の姿をした)速水さんは私たちのグループとも身近に接するようになっている。
だから、私は顔を引きつらせたくなる思いを抑えて、何事もなかったかのように四人の中に溶け込んだ。口数もなるべく減らさないように心がける。
たとえ速水さんに感づかれていても、虚勢を張る以外の選択肢は今の私にはなかった。
授業にはやはり身が入らなかった。睡魔がしきりに襲ってきて、うつらうつらしてしまう。三時間目の世界史の時間には先生に注意されたりもした。
本来、速水さんはもっと授業態度がいい。私だって、その速水さんのイメージを崩さないよう、今まで努力してきたつもりだ。
でも、私の姿はクラスメイトが抱いている速水さん像からは大きく外れていて、私は肩身が狭くなる思いがした。これでは異変を感じられても、仕方がないだろう。
「ねぇ、外崎さん。もしかして昨日、何かあった?」
(続く)