【第22話】街角のフレンチ
速水さんが書いた歌詞を歌にする過程は、案の定苦戦の連続だった。速水さんは最大限私の作った曲をイメージして、歌詞を書いてくれたんだろうけれど、それでもそう簡単には曲に載らない。
メロディの候補をどうにか思いついて口ずさんでみては、途中でつかえて止まってしまう。その度に電子辞書などを参考にしながら、別の言葉や表現を探す。そんな地道な作業を、私は何度も繰り返していた。
速水さんの家に戻ってきてからは、ご飯を食べるとき以外ずっと、私は歌詞と曲の間で悪戦苦闘していて、ちょうどいい落としどころを見つけるのは、今までに経験がないほど困難だった。
それでも、私は土曜日の午前中もまるまる使い、なんとか歌詞に歌を載せる作業を終わらせていた。元の歌詞をなるべくそのまま使いたいと思っていたのに、完成した曲は半分以上の箇所が変更になっていて、原形を留めていると言えるかどうかすら怪しい。
それでも、速水さんが歌詞に込めたであろう思いは最大限汲んで、残したつもりだ。きっと責められはしないだろう。そんな希望的観測をして、私はギターを背負って家を出る。
九月ももう下旬だというのに、今日は夏日になるくらい気温が上がっていて、照り付ける太陽の眩しさに、私は目を細めていた。
駅前のカラオケボックスの前で、速水さんと落ち合う。曲ができたことは家を出発する直前にラインで伝えていたから、速水さんはカラオケボックスに入るといきなり「で、どんな曲になったの!?」と、つんのめるように訊いてきた。歌詞を大幅に変更してしまったことも伝えていたが、それは大して気にしていない様子だ。
でも、私には申し訳ない気持ちがあったから、「う、うん、今から聴いてもらうね」という声が、若干煮え切らないものになってしまう。
私はスマートフォンでボイスメモのアプリを開くと、出かける前に録音しておいた自分の歌を再生した。ギターを弾きながらでも、私の歌の下手さは悪い意味で際立っていて、今すぐ再生を中止したい思いに、私は駆られる。速水さんの歌詞に、大きく手を入れてしまったことも同様だ。
でも、私はその気持ちを、手を膝の上でぐっと握ることで抑え込んだ。
私の拙い歌を聴いている速水さんは真顔で、胸のうちを読み取ることは、私には難しい。せっかく苦労して書いた歌詞を何か所も変えられて怒っていないことを祈るばかりだ。
四分間の長い時間が流れて、ボイスメモは再生を終える。
それでも、私は速水さんの目を見ることはできなかった。蛇に睨まれた蛙みたいに、なかなか動けずにいた。
「ご、ごめん……。お聴き苦しいものを聴かせてしまって……。それに歌詞もなるべく変えないって言ったのに、めっちゃ変えちゃった……。気分悪くしたよね……?」
速水さんに責められたくなくて、私は不要な先手を打ってしまう。自分から否定することで、速水さんから批判されるダメージを軽減したかった。
目を伏せてしまっているから、速水さんの表情は分からない。だけれど、雰囲気だけならそこまで険しい感じもしなかった。
「なんで自分から貶すようなこと言うの? あたしはめっちゃいい曲だと思ったんだけど」
救いさえ含んだ言葉に、私は思わず顔を上げてしまう。速水さんの目は弓のように細められていて、批判しようという気はまったくないように私には見えた。
「本当に……? 歌詞変えられて怒ってないよね……?」
「いや、歌詞変えていいって言ったの、あたしだから。全然怒ってないよ。だってこれが外崎さんの考えるベストな形なんでしょ? 本当に歌にしてくれて、感謝してるくらいだよ」
速水さんがかけた言葉が、私にはまだ信じ切れなくて、つい本当かどうかを尋ねたくなってしまう。でも、それを言ったら、しつこいと咎められてしまいそうだ。
だから、私は尋ねたい思いをぐっと飲みこんで、「う、うん」と受け入れた。歯に物が詰まったような言い方だったけれど、速水さんは私の心情を覗きこんでいるかのように、頬を緩めてくれている。
だから、私も自分のした選択は正しかったのだと思えた。
「よし、じゃあ練習しよっか。外崎さん、変更した歌詞、ノートに書いてきてるよね?」
私は頷いて、楽曲制作ノートを取り出す。速水さんも文化祭でやる曲のTAB譜を机の上に広げて、私たちはギターの練習を始めた。
とはいえ、まずは曲を何も見なくても弾けるようにならなければならない。
まだまだコードの移行に苦労している速水さんに、私は丁寧なアドバイスを送る。
文化祭に向けて私たちは、たとえ小さくても一歩ずつ前に進むことができていた。
地下鉄を降りて、出口に向かう。私が遥さんと一緒に改札をくぐると、真正面に志水さんが立っていた。クリーニングに出したり、アイロンをかけたばかりなのか、黒のスーツがピシッと整っていて、何も知らないで見れば端正に見えるだろう。
でも、その服装を見て何も感じないほど私はバカじゃなかったから、思わず身が引き締まる。
志水さんは私たちを見るなりニコッと微笑む。何てことない食事の機会だと強調する様子は、私には反対の意味を持って届いていた。
駅を出て私たちは、志水さんについていく。志水さんは大通りを外れて、住宅街に入っていく。
スマートフォンを見ずに進む足取りは滑らかだったけれど、スーツにワンピースといった私たちの格好は、住宅街の雰囲気からは少し浮いている気がしないでもない。でも、ここは都内でも屈指の高級住宅街だったから、フォーマルな装いをしている私たちを、珍しい目で見るような人はいなかった。
遥さんと志水さんは歩いている間も、これから行くレストランの話や仕事の話をしていたから、私は二人の間になかなか割って入れない。その辺にいる子供にすぎない私は、この街ではなんだか場違いにさえ感じられてしまった。
そんな窮屈な気持ちを感じながら、歩くこと一〇分。私たちは目当てのレストランに辿り着く。マンションの一階にあって、こじんまりとした外観は、注意しなければ見過ごしてしまいそうだ。高級には違いないのだろうけれど、もっと洒脱な外観を想像していた私は、思いのほか庶民的な店構えに、少し呆気に取られてしまう。
でも、志水さんはそんなことお構いなしに、店内に入っていったから、私たちはそれに続くしかなかった。
店内に入ると、私たちはゆったりとしたヒーリングミュージックに包まれる。ガラス張りの外観からある程度は見えていたけれど、広すぎず狭すぎず、ちょうどいい塩梅の空間だ。客席もほとんど埋まっていて、落ち着いて会話と料理を楽しんでいる客層から、私はこのレストランの価格帯を何となく察しとる。
でも、私たちが座るのは、そのテーブル席ではなかった。
店員に案内されて、テーブル席を通り抜けた私たちが入ったのは、レストランの奥にある個室だった。
ブロック模様が目立つ壁には窓がなく、部屋の中央にはテーブルに椅子が三脚置かれている。筋が伸びるような雰囲気に、私はこの個室を選んだ志水さんの思惑を、察せずにはいられない。意図があって個室にしたことは、容易に想像できた。
席について、遥さんと志水さんは白ワインを、私はリンゴジュースをひとまず注文する。店員(ウェイターと呼んだ方がいいのか?)が去っていくと、私たちは三人だけで残された。
ヒーリングミュージックが遠くに聞こえてくる中で、私は気まずさを感じずにはいられない。テーブルの上に置かれた、メニュー表に視線を落としてしまう。
それでも、遥さんと志水さんはまるで慣れているかのように、気楽に話していた。
「遥さん、来年一月号の特集で紹介するアイテムの件なんですけど、どうですか? 制作は順調に進んでますか?」
「ええ、順調ですよ。昨日ラフ案が上がったところですから。細かな修正はありますけれど、撮影の日には余裕をもって、間に合わせることができると思います」
「そうですか。それはよかったです。遥さんがどんなアイテムを手がけたのか、読者は興味津々だと思いますから。もちろん、僕もそのうちの一人です」
「ありがとうございます。きっとご期待に添えるものになっているはずです。私的には自信作ですから。いつもそうなんですけど、今回はとりわけ」
「それはいいですね。楽しみにしてます」
「はい、期待していてください」
個室に通されたことが何を意味しているか、遥さんだって勘づいていないわけではないだろう。でも、二人の会話は穏やかで力が抜けていて、肩ひじを張っているのが私だけのように思える。二人とも、もっと緊張していいはずなのに。
外から遮断された個室の独特な空気に平常心でいられるほど、私は大人ではなかった。
五分も経たないうちに白ワインとリンゴジュースは運ばれてきて、私たちは乾杯をした。グラスを突き合わせる軽い音が、浮かんで消える。
志水さんは遥さんだけじゃなく、私にも気を遣って話題を振ってくれていた。今日のメニューで何が楽しみ? だとか、最近学校はどう? だとか。
私は緊張を表に出さないように、とってつけたような答えを返す。でも声は固くて、私が身構えているのは、誰の目にも明らかだった。
それでも、志水さんは緊張をほぐそうと、私に優しく話しかけてくれたけれど、私の心は和らぐことはない。志水さんが個室を選んだ理由を考えると、リラックスしたように笑うことは、私にはできなかった。
「そういえば、遥さんから聞いたよ。由海ちゃん、学校の文化祭のステージに出るんだって?」
前菜である寒ブリのソテーを食べながら、志水さんが訊いてくる。その話題が振られると予想はできていても、心構えまではできていなかった私は、「は、はい」と曖昧な返事をしてしまう。
それでも志水さんや遥さんは、相好を崩さなかった。
「同じクラスの外崎さんって子と出るのよね。ギターを練習する音も、毎日のように聴こえてきてるし。お母さんも楽しみだなぁ」
遥さんの声には、変に話を盛り上げようとする意図は見られなくて、純粋に本心を言っているようだった。期待されているのは嬉しかったけれど、どこかプレッシャーにも感じられてしまって、私の返事は相変わらずすっきりしない。
どのみち本番では、人前で演奏しないといけないのに。
「ねぇ、由海。よかったら今度、その外崎さん、ウチに連れてきてよ。どんな子なのか一度会ってみたいな」
「そ、そんなこと言ったって、お母さん忙しいじゃん……」
「それは何とか都合つけるよ。ちょうど次の水曜は早く帰れそうだから、その日でいい?」
私は「うん、分かった」と頷いた。頷くほかなかった。ここで断って、何か事情があるのではと思われることは、私にとっても本意ではない。
きっと速水さんも、そつなく私を演じてくれるだろう。
私たちはもう、三週間も入れ替わったままなのだ。思い返すたびに、少しへこんだり不安になったりするけれど、事実は事実だ。
「由海ちゃん。僕もその文化祭に行っていいかな? もちろん変な意味じゃなくて、ただの知り合いとしてさ」
そう言ってくる志水さんにも、私は首を縦に振るしかない。速水さんであるこの状況では、とにかく角を立てないことが一番だ。
満足げな表情をしている志水さんを見て、私は正しい返事をしたのだと自分に言い聞かせる。何十人もいる観客の中から、志水さんを見つけた時のことを考えると、胃が縮みあがりそうだったけれど、それも深く気にしなければいいだけのことだった。
(続く)