【第20話】昇降口の掲示板
「そうそう。ところでさ」
遥さんが、ふと思いついたように話題を変える。その口調が天気の話をするみたいだったから、私も「何?」と深く考えず相槌を打つ。でも、遥さんが口にしたのは、気軽な話題ではなかった。
「由海って来週の日曜の夜、空いてるよね?」
そう訊かれただけで、私は遥さんが何を言いたいのかを、それとなく察してしまう。たぶん私が積極的に聞きたい類のものではない。
それでも私は、「うん、空いてる」と答える。そう答えざるを得なかった。
「よかった。その日、志水さんから一緒に食事をしないかって、誘われてたから。行くって答えていいね?」
また? 早くない? 頭には瞬時に疑問が浮かんだけれど、私はそれを押しこめて、首を縦に振った。遥さんと志水さんの間に口を挟むなんて、ただでさえよそ者の私がしていいわけがない。
でも、心の中では踏ん切りがついていないのも、また事実だ。速水さんは志水さんのことを、「得意じゃない」と言っていた。それは程度の差こそあれ、私も感じている。
だから、私は遥さんから目を逸らしてしまう。何かを期待しているような遥さんの目は、直視できなかった。
「……由海、もしかして志水さんに会うの、気が進まなかったりする? 行きたくないんだったら、家にいてもいいんだよ?」
これではまるで、私が行きたくないと駄々をこねているみたいだ。そう思われるのは速水さんのためにも、本望ではない。
「いや、別にそんなことないけど」と答える。でも、その声にはどこか壁があって、本心を反映していないのが、自分でも分かってしまう。
遥さんは私を慮るような目を向けている。笑ってばかりいるバラエティ番組の音声が白々しい。
「ねぇ、由海。もしかして志水さんのこと、信用してない? 大丈夫だよ。志水さんは前のお父さんとは違うんだから。怖がったり心配したりする必要なんて、少しもないんだよ」
遥さんの言い方は、私にとっては引っかかるどころではすまなかった。
前のお父さん。その言葉を、私は初めて聴いた。
そりゃ速水家にもかつては父親がいたんだろうけれど、少なくとも私は速水さんの口から、そんなことはまったく聞いていない。気軽に話したくないことなんだろうか。私はよからぬ想像を働かせてしまう。
他の人の家の事情を詮索するのはお門違いだと分かっていても、私は考えることをなかなかやめられなかった。
「……そうだね」と辛うじて返事を捻りだす。それ以上何を言っても、何の効果も生まないと思った。
遥さんも「うん。じゃあ、よろしくね」と言ったきり続く言葉はなくて、この話題は終わりを迎える。
二人ともすぐには次の話題を見つけられなくて、ダイニングテーブルには一瞬沈黙が降りた。気まずくて、私には耐えられないほどだ。
遥さんも同じように思ったのか、思い出したかのようにネトフリの海外ドラマの話をし始める。私も適当に相槌を打って会話を続けたけれど、それでも私の気分は重く、晴れないままでいた。
昨日一日中降り続いていた雨はいつの間にか上がり、水曜日の朝、私は窓から差しこんでくる日差しで目が覚める。今日もまた元に戻ることができていなかったことに、焦燥感と失望を覚えるも、今日も速水さんとして過ごすことを私はすぐに受け入れた。
私はベッドから起き上がり、一つ大きく伸びをする。机の上には、昨日放置していた楽曲制作ノートが置かれていた。
曲ができたはいいものの、私はまだ歌詞を書けていなかった。毎日ノートに向かってはいるものの、歌詞はそんな都合よく、それこそ魔法みたいに生まれてきてはいない。
速水さんは急かすこともなく、大らかに待ってくれてはいるが、それでも私は早くしなければと焦ってしまう。
新曲のTAB譜は専用のアプリケーションソフトで作って、昨日速水さんに渡した。さっそく速水さんは家でも練習してくれていることだろう。
そう思うと、私は一日でも早く歌詞を書いて渡さなければと、使命感を覚える。今にもインスピレーションが湧いてほしいと、強く思う。
楽曲制作ノートを机の引き出しにしまい、私は一階に下りた。遥さんはちょうど出かけるところで、「今日も遅くなる」と、お決まりのセリフを言う。
今は忙しい時期なのか、遥さんは先週休日を取っていない。遥さんは笑って「大丈夫大丈夫」と言っていたが、それでも私はつい心配してしまう。「いってらっしゃい」と見送ると、自分の親じゃないのに、心細い感じがした。
冷凍食品とコンビニサラダの朝食を済ませ、かなり慣れてきたメイクをして、学校に行く支度をする。インターフォンを聴いてから外に出ると、玄関にはやっぱり高木さんが立っていた。
なんてことない挨拶を交わして、ドラマやコスメの話をしながら学校に向かう。今さら怪しまれることがないくらいには、私は速水さんとして高木さんと話を合わせられるようになっていた。
宇都宮さんや稲垣さんとも合流して、始業時間の一五分ほど前に、私たちは学校に辿り着く。
昇降口を通ると、正面の掲示板を一人で見ている速水さんがいた。私たちは気になって、速水さんのもとへ吸い寄せられるように向かっていく。
「外崎さん、おはよう」と言うと、速水さんも「うん、みんなおはよう」と、自然な挨拶を返してくれていた。
「何、見てるの?」
「来月の文化祭の詳細が決まったから、それ見てた」
私たちの目は一斉に掲示板に向く。確かにそこには文化祭、特にステージの詳細が書かれていた。ダンス、漫才、バンド演奏。
そして、私はその中に、私と速水さんの名前を見つける。文化祭二日目の二番目の出番だ。本当に申し込みが受理されたのだと、私は今さらながらに知る。
でも、私たちの名前に気づいたとき、高木さんたちは色めきだった声をあげていて、自分で決めたことなのに、私は少し恥ずかしくなってしまう。
「この『そとはや』って、由海と外崎さんのことじゃん! えっ、由海文化祭出んの!?」
高木さんが心から驚いたかのように言う。そんなに驚く? というリアクションに、私は「まあね」としか返す言葉がない。
「ちょっと待って。色々理解追いついてないんだけど。えっと、まず外崎さんはもともとギターやってたの?」
「うん。小学生の頃からやってたよ」
「何それ、初耳なんだけど。えっ、二人いつの間に仲良くなってたの? どっちから文化祭出ようって誘ったの?」
「それはあたしから声かけたんだ。たまたま外崎さんがYouTubeに上げてる曲を聴いてね。いいなって思って話しかけたんだ。もともとギターにはちょっと興味あったしね」
「えっ、由海前ギター教わってるって言ってたよね。それってもしかして外崎さんから?」
「うん、そうだよ。私は初心者だからね。弾ける人に教わるのは当然のことでしょ」
次々に疑問を浴びせかけてきた高木さんたちに、私たちは協力して答えた。もともとどう答えようかは、事前にシミュレーションしてたから、大きなボロを出すこともなく、私たちは説明できる。
速水さんも落ち着いた表情をしていて、しきりに訊いてくる高木さんたちにも、混乱はしていないようだった。
「なるほどね。由海が部活を休んでまで、ギターに取り組んでた理由はこれかぁ」
「ごめん、萌衣。ちょっと驚かせたくて。本当はもっと早いうちに言っといた方がよかったんだろうけど」
「いや、謝る必要ないよ。出るって知ってからは、私も楽しみになってきたし。ねぇねぇ、由海たちはステージでどんな曲やるの?」
「まあ、それは当日のお楽しみってことで。でも、あたしたちがんばって良い演奏するから。よかったら聴きに来てよ」
「うん、絶対行く。その時間帯はちょうど、私たちも暇してるだろうしね」
そう言った高木さんに、宇都宮さんと稲垣さんも頷いて同意を示している。これで観客が三人確保できた。
恥ずかしさやプレッシャーもあったけれど、それでも私は素直に「うん、ありがと」と言える。
「外崎さんもがんばってね」と言った宇都宮さんに、速水さんも首を縦に振っている。その引き締まった表情に、私の背筋も伸びる思いがした。
放課後を迎えて、私は高木さんたちと少し話してから、すぐに教室を出た。今日は部活がないから一緒に帰ろと言われたが、少しでも早く帰ってギターの練習をしたいと答えたら、高木さんたちもすんなりと受け入れてくれた。
たくさんの生徒で混雑している昇降口を素早くくぐり抜け、帰路につき始める。高木さんたちに言った通り、私は一刻も早く私の家に行って、速水さんとギターを弾きたくて仕方なかった。
「ちょっと、由海。何素通りしてんの」
突然身に降りかかった声に驚いて、私は振り返る。
すると、昇降口から校門に向かう間に、一人の女子生徒が立っていた。短く切り揃えられた髪がきりりとした印象を与え、私(つまりは速水さん)ほどに背が高い。スクールバッグに取り付けられた校章の色から、その女子生徒が一学年上の三年生であることは分かったけれど、それ以上は何一つ分からない。
でも、詳細は分からなくても先輩に話しかけられて、知らんぷりをするわけにはいかないだろう。
私は先輩の元へと引き返し、とりあえず「す、すいません」と謝る。それでもなお、その先輩は口を尖らせていた。
「由海、聞いたよ。最近部活出てないんだって?」
棘を刺すような口調に、私は言葉少なに謝ることしかできない。それと同時に部活の話を持ちだしたということは、この見知らぬ先輩は、おそらく夏に引退した元テニス部員だということも私は察した。
速水さんから部活、部員のことはほとんど聞かされていなかったから、私は対応に困ってしまい、内心狼狽えてしまう。それはきっと、普段の速水さんの態度からはかけ離れていた。
「何? 謝るってことは、そうだって認めるってことだよね?」
「そ、それはすいません……」
「すいませんしか言えないの? もっと他に言うべきことがあるんじゃない?」
「言うべきこと」と言われても、私は本当は速水さんじゃないから、まったく想像もつかない。目の前の相手の名前すら知らない私が、何を言えるだろう。
その先輩はねめつけるような視線を、私に向けている。
「私、引退するとき言ったよね? 部長とかではないけど、女テニは由海で持ってるって。一番上手い由海がいるから、それを目標にしてみんながんばってんだよ? なのに、具合も悪くないのに勝手に休んで。それが女テニにどんな影響を与えるか分かってんの?」
「……そ、それは、はい……」
「いや、分かってないね。由海が来なくなって女テニ、元気なくなってんだよ? みんな練習に身が入らず、もぬけの殻みたいだって。どうにかなりませんかって、私一年から相談されたんだけど。一年が引退した三年を頼るなんてよっぽどのことだよ。そう思わない?」
「……そ、それは確かにそうですね……」
「そうでしょ。だったらさ、明日から部活に戻ってくれるよね? みんな由海のこと待ってんだからさ」
ここで何も考えず「はい、分かりました」と言えれば、どれだけよかっただろう。
でも、私ははっきりとした返事もできずに、ただ目を伏せることしかできなかった。
もし明日も私が速水さんのままなら、間違いなく私は部活には行かないだろう。だから、その先輩と約束をしてはいけない。
なんで守らなかったと後で責められるよりは、今文句を受けた方がマシだと思った。
「何? そんなに部活行きたくないの? そんなにギターがやりたいの?」
頷きたい。でも、私は頷けなかった。認めてしまって、その先輩から口うるさく責められるのが怖かった。
でも、黙っていることは認めるにも等しいことで、その先輩を振り切って帰ることもできない私は、逃げ場を失ってがんじがらめになっていた。
「言っとくけど、私は由海がギターを弾いて文化祭に出ること、認めてないからね。だって、それって今どうしてもやんないといけないことじゃないじゃん。今、由海がすべきことはテニスをやることだよ。部活に戻って、みんなを安心させることだよ」
それを言ったら、部活だって強制ではないから、どうしてもやらなければならないことではないだろう。優先順位がどうしてつけられようか。
でも、私はやっぱり何も言えなかった。誰もが応援してくれると盲目的に信じてたわけじゃないけれど、文化祭出演を認めない人の存在は、私に少なからずショックを与えていた。
「そんなすぐ考えは変わんないか。でも、私は言うことは言ったからね。その上でどんな選択をするかは、由海次第だから。ちゃんと考えて決めなよ」
最後にほんの少しだけ脅しの色が含まれた言葉を投げかけられて、私はようやくその先輩から解放される。「……はい」とだけ短く言ってから、足早に立ち去りたい気持ちを抑えて、それでも振り返ることはせず、私は校門を出た。
今しがたしたやり取りを忘れたくて、私は急いで速水さんの家に向かったけれど、その先輩の顔や言葉は、簡単に私から離れていかなかった。あんな怖い先輩が同じ部活にいたなんて。
私はこうなる前の、速水さんの心中を察する。色々と上手くいかないことや思い通りにならないことを抱えて、それでも笑っていたことを、私は今になって思い知らされていた。
(続く)