表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/42

【第2話】これは夢?



 えっ、どういうこと? つまり今の私は速水さんで、ここはたぶん速水さんの部屋だってこと?


 いや、いやいやいや。そんなのありえない。だってここは現実なはずだ。フィクションめいたことが起こるはずがない。


 となると、考えられる可能性は一つしかない。これは夢だ。私は速水さんになった夢を見ているんだ。


 でも、夢にしてはいやにリアルだなと思う。肌に触れる空気はどこかじめっとしているし、どこかからアロマだろうか? いい香りも香ってくる。何より今の私には、二本の足でしっかりと立っている実感がある。五感全てが稼働しているこれが夢?


 私は何も信じられなくなって、頬に手を伸ばしていた。そして自分の(いや今は速水さんのと言った方が正しいのかもしれない)頬をつねってみる。こんなことで夢じゃないかどうかを確かめるなんて、バカみたいだ。


 でも、ちょっと力を加えてみただけで、私は確かな痛みを感じた。私の頭はよりこんがらがっていく。今自分に何が起こっているのか、まったく分からなかった。


「由海―、起きたー?」


 聞いたことのない女性の声が聞こえてきて、私は一瞬竦み上がってしまう。私が今速水さんの姿でいる以上、声の主はたぶん速水さんのお母さんか姉妹だろう。


 どうしたらいいのか、私は迷いに迷う。


 でも、こういうとき速水さんならどうするだろうか。そう考えたら、取れる行動は一つしかないように思えた。


「うん、今起きたとこー」


 私は速水さんが家で、普段どのように過ごしているのかを知らない。だから、できるだけ最大公約数的な返事をした。口から出た声は速水さんそのもので、私に現実をより突きつける。


 私の反応は間違っていなかったらしい。ドアの向こうから「お母さん、もう行くからねー。今日も遅くなると思うからご飯適当に食べといてー」と返事がして、声の主が速水さんのお母さんであることが分かる。


「うん、分かったー」と私もそれらしい反応を返す。すると、ドアの向こうからかすかに足音がして、速水さんのお母さんが離れていくのを感じた。


「いってきまーす」「いってらっしゃーい」顔を合わせないまま、そんなお決まりのやり取りをして、私は部屋に一人残される。家の中は物音一つしていない。


 どうしようと私は考えを巡らす。


 すると、枕元に置かれていたスマートフォンが通知音を鳴らした。おそるおそる画面を覗き込むと、「めい」と登録された人物から(おそらくは速水さんとよく一緒にいる高木萌衣(たかぎめい)さんだろう)ラインが来ていた。


〝今、家出たとこ。あと一〇分くらいでそっち着く〟そんな簡単なメッセージだ。


 そうだ。今日はまだ火曜日なのだ。だとしたら、私は学校に行かなければならない。行ってる場合かとも思ったけれど、このままここにいても何か進展があるとは思えなかった。


 その前にまずは高木さんにラインを返そうと思って、私は通知をスワイプした。パスコードを入力するよう求められたらどうしようとも思ったけれど、幸い速水さんのスマートフォンは指紋認証だったから、人差し指で触れるとすぐに開く。速水さんのラインの登録者数は三〇〇人を超えていて、ざっと私の一〇倍以上だった。


 その中から私は一番上の「めい」を選んで、〝分かった。今起きたばかりだからちょっと待ってて〟と返信をする。高木さんも特に不審には思わなかったらしく、〝了解〟と犬のキャラクターのスタンプを送ってくる。


 私は地図アプリを開いて、学校までの経路を確認した。現在地は私が知らない場所を示していて、ここが私の家でないことが改めて察せられた。


 私は一つ息を吐いてから、思い切って部屋の外に出た。


 廊下の奥に見える階段だけで、私ははっとしてしまう。私はマンションに住んでいるけれど、速水さんは一軒家に住んでいることが、ドアを開けて一目見ただけで分かった。


 誰か、それこそ速水さんの父親とか兄弟姉妹がいたらどうしようか。私は慎重に階段を下りて、リビングへと向かっていく。幸い家には他に誰かいる気配はなかった。


 リビングとダイニングが一体となった家は、広い窓から差し込む日の光が開放感を醸し出していて、私の家とは何から何まで異なっていた。何の説明もなく他人の家にいるのは、今さらながらかなり変な感じがする。


 リビングを見回してみると、ダイニングテーブルに朝食が置かれているのが見えた。焼き鮭に、カット野菜にドレッシングをかけただけの簡単なサラダ。空のお茶碗の横のお椀には、インスタントの味噌汁が入れられている。簡単でオーソドックスな朝食。


 少し迷った末に、私はそれらを食べることにした。人の家のものを勝手に食べていいのかとも思ったが、このままにしておいたら、帰ってきた速水さんのお母さんに怪しまれてしまうだろう。


 それに私は(といっても身体は速水さんだけれど)空腹も感じていた。速水さんとして振る舞うしかない。そんな理由をつけて、私はお茶碗を手に炊飯器へと向かった。


 ご飯は美味しかった。でも、何もかもが出来合いみたいな味がした。きっと焼き鮭も、レンジでチンするだけでできあがる類の物だろうと、私は感じてしまう。


 シンクに食器を持っていって、私はすぐに着替えを始めた。もう間もなく高木さんがやってきてしまう。


 消去法で二階の速水さんの部屋に戻っていき、クローゼットを開ける。するとそこには多くの衣服に紛れて、私たちの学校の制服が入っていた。引き出しから取り出したブラジャーは、私のよりもサイズが二つ三つ大きくて、私は改めて面食らう。


 着替えている途中にチャイムが鳴らされて、玄関の方から「由海、まだー?」と高木さんの声がする。私は「今行くー」と応えて、急いで着替えを済ませた。


 速水さんはマメなのか、前日のうちに明日の準備を済ませていて、私はスクールバッグを持って足早に階段を下る。


 メイクはしなかった。高木さんを待たせていることもあったし、そもそも私はメイクをほとんどしたことがなかった。自分がしても意味ないって諦めていたから。


「ごめん、高木さん。待った?」


 ドアを開けるといた高木さんに、私はそう口にする。


 でも、高木さんはキョトンとした顔をしていた。その表情に私は自分の過ちに気づく。速水さんは高木さんを、「高木さん」とは呼ばない。


「いや別にそこまで待ってないけど。でも、由海どうしたの? 何、高木さんって。よそよそしいじゃん」


「ごめんごめん。萌衣だよね。ちょっと寝ぼけてた」


 高木さんの下の名前を口にすると、私はしてはいけないことをしているような気になった。クラスの隅でうずくまっているような私が、速水さんとともに中心にいる高木さんを、呼び捨てにしていいのか。場違いな感覚を私は抱く。


 でも、高木さんは「まあ、そういうことならいいけど」と、特に咎めず流してくれた。どうやら速水さんであることを疑ってはいないようだ。人格が別の人間の身体に入ったと、思い当たる方がおかしいだろう。


 えっ、じゃあ速水さんの人格は今どこに?


「じゃあ行こっか」私たちは学校へと歩き出す。


 スマートフォンの地図アプリで道順は確認している。でも、完璧に頭に入っているかというと、それは違う。だから、私は迷わないように高木さんの半歩後ろを歩くしかない。


 当然、高木さんにも「どうしたの?」と軽く不審がられたけれど、私は「うーん、そういうゲーム?」と言ってごまかした。正直無理があると思ったけれど、高木さんはこれも流してくれた。もしかしたらもとから速水さんは、こういったふざけた態度をよく取っていたのかもしれない。


「ねぇ、違ってたら悪いんだけどさ」


 高木さんが呟いた言葉に、私の胸はドキリと跳ねる。今隣にいるのは速水さんではないと気づいたとか? いや、まさか。


「な、何?」


「由海さ、今日メイクしてないでしょ。珍しいね」


 私に関わる問題じゃなかったことに、ひとまず胸をなでおろす。これなら十分に言い訳が立つと思った。


「まあ、ちょっと寝すぎちゃってね。時間がなかったんだ。嫌?」


「ううん、全然嫌じゃないよ。すっぴんでも由海が綺麗なのは変わらないし」


 私は小さく微笑んだ。速水さんならそうすると思ったからだ。でも、いざ速水さんのふりをして、口調も真似てみてもやっぱり変な感覚は拭えない。ボロを出さないように、私の言葉数は自然と少なくなった。


 それはたぶん、普段の速水さんの姿からはかけ離れていた。


 私たちは通学路の途中で、さらに二人のクラスメイトと合流した。宇都宮(うつのみや)さんと稲垣(いながき)さんだ。私だってクラス全員の名前くらいは把握している。よく速水さんと一緒にいる人たちだからなおさらだ。


 当然、私たちは話しながら歩くことになる。三人が話していたコスメや韓国のガールズグループの話題に、私はまったくついていけない。分かったような分かっていないような、曖昧な返事しかできない。


「どうしたの?」と三人ともに訊かれて、私は「あまり寝れなかったから」という理由で押し通す。無理はあったけれど、三人とも「まあそういう日もあるよね」くらいのテンションで、深く訊いてくることはなかった。


 この会話もきっと普段は速水さんが中心になっているのだろうと思うと、私は勝手に尊敬の念を抱く。多くの人に話を合わせるには、多くの話題を知っていなければならない。それは私にとって、努力に他ならなかった。


 うまく話を合わせられない微妙な心地を引きずりながら、私たちは教室に入る。


 私はいつも登校するのが遅い。学校や教室にはなるべくいたくないから。


 だから、私よりも前に登校している速水さんが、どんな感じで教室に入っていくかを私は知らなかった。とりあえずわざとらしくならない程度の笑顔を浮かべて、「おはよー」と元気な声を装ってドアをくぐる。


 クラスメイトは特別な反応を返してはいなかったから、私の演技は大きく間違ってはいなかったらしい。


 だけれど、それでも私にとっては演技に違いなくて、まだ授業も始まっていないのに、私は早くも疲れてしまっていた。


 いつもだったら教室に入った私は一直線に自分の席に向かって、朝のホームルームが始まるチャイムを待っている。だから、私は今日も無意識に自分の席に向かいそうになってしまう。


 だけれど、すんでのところで今の私は、外から見たら速水さんなのだということを思い出して、踏みとどまった。ちっぽけな勇気を振り絞って速水さんの席に座る。隣の席なのに、普段とは景色がまったく異なって見えた。自分がクラスの中心になった感覚がした。


 高木さんたちは自分の席に荷物を置いて、また速水さんの席に集まってくる。三人からすれば、考えるまでもない普段通りの過ごし方なのだろう。


 でも、私は心の奥で勘弁してほしいと思ってしまう。三人の話に合わせて無難に笑うのは、精神的に大変だった。


 私がどうにか高木さんたちの話に乗っていると、ドアが開けられてまた生徒が入ってきた。その人物に私は驚いて、一瞬固まってしまう。


 教室に入ってきたのは、他でもない私だった。いや、正確には私の身体と言うべきか。


 その「私」も、私たちを見るなり目を丸くしている。おずおずと元の私の席に座っても、辺りをキョロキョロと見回していて忙しない。


 今、速水さんの身体には私の人格が入っている。じゃあ、私の身体は誰の人格で動いている?


 私だってまるっきり想像がつかないわけじゃない。でもそんなこと、とても信じられない。


「私」に話しかけるだけの勇気も当然私にはなくて、そのまま間もなくしてチャイムが鳴った。先生が入ってきて、高木さんたちが自分の席に戻っていく。ようやく解放されたという安堵もつかの間、私の頭には不可解な謎が横たわり続けていた。





 一時間目の数学も二時間目の現代文も、私にはまったく頭に入ってこなかった。


 いや、元々私は頭があまり良くないのだが、それでも今日ばかりは勝手が違う。開いたノートに書かれていた筆跡は私のものではなかったし、スクールバッグから取り出した教科書の裏には、「速水由海」とはっきりと書かれていた。


 もう一度眠ってみれば、元に戻っているかもしれない。そう思って寝ようともしたけれど、先生に注意されるだけで終わってしまった。


 確かに別の人間になりたいとは思ったけれど、ここまでは望んでいない。悪い夢なら早く醒めてほしい。


 どれだけ時間が経っても、落ち着くなんてできるはずもなかった。


 予想だにしない出来事は、三時間目の英語の授業で起こった。


「じゃあ、この文章を速水、読んでみろ」そう指名されて、立ち上がったのは他ならぬ「私」だった。少しも疑っていない明確な返事に、教室は一瞬静まり返ってしまう。


 そこで、上の空だった私は何が起こったのか認識した。でも、すぐに理解することはやっぱりできなかった。


「おお、どうした外崎(そとざき)。そんなにここが読みたいか?」


 先生にそう指摘された「私」は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。クラスメイトは「私」が、渾身のボケを繰り出したと思ったのだろう。教室に小さな笑いが生まれる。


 でも、私にとっては少しも笑い事じゃなかった。まさか「私」は、自分のことを速水さんだと思っている? だとしたら……。


 いや、そんなことはありえないと、私はかぶりを振った。そんな作り話みたいな現象が本当にあるわけがない。


 でも、「じゃあ、外崎。速水の代わりに読んでみろ」と先生に言われて、少しためらいながらも音読を始めた「私」の発音は、昨日までの私とは似ても似つかないほど、滑らかで流暢だった。



(続く)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ