【第18話】おかしなうさぎ
昼食を食べ終えた後も、私たちは部屋に戻って勉強を続けていた。今度は、数学を速水さんに教えてもらう。つまずいていた三角関数も、速水さんが丁寧に教えてくれたから、私は少しずつ解き方が分かるようになっていた。
一時間ほど勉強をしたら、次はギターの練習だ。
だけれど、私たちは私の部屋で練習はしなかった。ギターは反対に私が教えて、速水さんが教わるという構図だ。だから、声によってその構図がお父さんたちに漏れ伝わってはならない。私は万が一もないようにしたかった。
お父さんたちには歌の練習もするからと理由をつけて、私たちは家を出る。向かうは駅前にあるカラオケ店だ。少し距離はあるけれど、私たちの高校の生徒がよく利用する駅とは反対の方向にあるから、誰かに見つかる恐れも少ないだろう。
私は高木さんに指摘されてから、ますます慎重になっていた。
カラオケ店には、一五分ほど歩いて辿り着いた。受付を済ませて、私たちは奥の方の部屋へと通される。
ソファに腰かけると、私たちはすぐにギターを取り出した。受付は二時間パックで行っている。だから、わずかな時間も無駄にはできなかった。
私たちは教則本に掲載されている譜例をもとに、練習を進めた。速水さんは簡単な単音弾きの譜面なら、もうすっかり弾けるようになっていて、その上達スピードに私は舌を巻く。
でも、コードを抑える譜面はまだまだぎこちなく、私はその度に簡単なアドバイスをした。上達するには地道な反復練習を繰り返すしかないけれど、速水さんは拙いながらも着実に成長を見せている。
このペースなら簡単な曲ぐらいなら、文化祭までにはなんとか歌って弾けそうだと、私は希望的観測を抱いた。
スマートフォンのアラームが鳴る。練習時間として定めていた、九〇分が過ぎた合図だ。
「では、今日の練習はひとまずここまでにしましょう」と私が言うと、速水さんも頷いて、私たちはギターをしまう。二時間パックが終わるまでは、まだあと三〇分ほどある。ここからは自由時間だ。
もともと速水さん(といっても私だけれど)がどんな風に歌うのか、文化祭前に私は知る必要がある。だから、私はタブレット端末を手に取って、速水さんに渡した。
「じゃあ、速水さん。一曲お願いします」
あらかじめこうなることが決まっていたからだろう。速水さんは慌てたり、狼狽えたりしなかった。歯切れのいい返事をして、タブレット端末を受け取っている。
「何歌おうっかなー」と考えている様子の速水さんに、私は「得意な曲でいいよ」と伝える。「じゃあ、これかな」と速水さんが曲を選んでタブレット端末を置く。
テレビ画面に表示されたのは、aespaの「Next Level」だ。韓国の人気ガールズグループの代表曲。それくらいは私でも、高木さんたちに話を合わせるためにK―POPを聴いていくなかで、知っていた。
電子楽器のイントロが流れる。ヒップホップ調の曲は、速水さんと入れ替わる前の私だったら絶対に聴いていなかったような曲だ。
速水さんは、韓国語と英語が混ざった歌を歌いだす。画面にはハングル文字が映って、私にはその発音が合っているかどうかまでは分からない。
だけれど、速水さんは澱みなく歌いこなしていて、何度もこの曲を聴いて歌ってきたことが私には分かった。曲調に合わせてだろう、クールな歌い方は私がかつてしたことがないもので、私ではないと見間違えてさえしまいそうなほどだ。
決して簡単とは言えない歌を、速水さんはスラスラと歌っていて、持ち前の音感の良さを感じる。だから、ギターの上達も早いのだと、私は納得した。私がどうにか後天的に身につけたものを、速水さんは最初から持っていると知って、改めて羨ましくなったりもした。
速水さんがクールな表情をしたまま、曲を歌い終わる。その姿が自分とは思えないほど格好良くて、私は意識せずとも拍手を送っていた。
速水さんも照れる様子は見せずに、堂々と胸を張って「ありがと」と応えている。その物怖じしない姿勢は、言わずもがなステージ向きだ。
「じゃあ、次は外崎さんの番ね」
私はタブレット端末を渡される。
でも、いざ自分が歌うとなると、私は曲選びに迷った。私は誰かとカラオケに来るのもまた初めてだったから、こういうときにどんな曲を歌えばいいのか、いまいちよく分からない。
自分の好きな曲を歌えばいいのか、それとも速水さんも知っているような曲を歌えばいいのか。何百通りもある選択肢から、私はすぐに答えを見つけることはできない。
ふと速水さんを垣間見る。速水さんの表情は静かに凪いでいて、私がどんな曲を選んでも受け入れてくれそうだった。それなら。
私は曲を選び終える。テレビ画面に表示されたのは、BLACKPINKの「AS IF IT’S YOUR LAST」だ。韓国語は私は歌えないから、運よく収録されていた日本語バージョンを選んだ。
そのタイトルが画面に映し出された瞬間、速水さんは驚いたような表情を見せる。
「えっ、外崎さんってBLACKPINK、聴いたり歌ったりするの?」
「最近、聴き始めてね。いいなって思ったんだ」
イントロ中にそんなやりとりをしてから、私は歌いだす。
軽快なリズムに乗って歌われるのは、好きな人への想いがうまく伝わらない女性の心情だ。砂糖菓子を噛んでいるかのような歌詞に、私は歌いながら小恥ずかしい感覚を抱く。
BLACKPINKは本来もっとクールな曲が多く、この曲は私のような初心者でも聴きやすいし、歌いやすい。
とはいえ、私がよく好んで聴く曲の歌詞の世界観からは大きく離れてしまっているから、歌っていてもどこか違和感は抜けきらない。
でも、好きな曲ではあるし、歌っていて楽しく感じる部分があるのもまた事実だ。だから、私は明るい表情を崩さずに歌い続けた。速水さんも笑顔で、私の歌を聴いてくれている。速水さんの声帯から出る歌声は、滑らかで伸びもあったから、歌っているうちに私も気分が乗ってくる。
英語の歌詞も今まで歌ってこなかったわけじゃなかったから、発音の問題を別にすれば、どうにか乗り切ることができた。
照れくささを感じながらもなんとか歌いきった私を、速水さんは暖かな拍手で迎えてくれた。決して板についているとは言えない私の歌を無条件で肯定してくれたことに、私は嬉しいやら気恥ずかしいやら、一言では言い表せない感情を抱く。
でも、まったく悪い気はしなかった。今は速水さんが喜んでくれるなら、他には何もいらないと思った。
「外崎さん、BLACKPINK上手いじゃん。今まで歌ったことあった?」
「ううん、初めて歌った。こういう場じゃないと、歌う機会ないし」
「そうとは思えないくらい上手かったよ。やっぱ曲を作ってるから、音感があるのかな」
「さすがは外崎さん」とでも言いたげな速水さんの表情に、私も穏やかな表情をした。
より音感があるのは速水さんの方だけれど、それでも褒められたことは素直に嬉しい。たとえそれが速水さんの喉から出た声であっても、私は否定も謙遜もせずに、受け入れることができた。
「じゃあ、次は順番的にあたしが歌う番だね」
速水さんがタブレット端末を手に取る。悩む様子も見せずに、すいすいと曲を選んでいく。
マイクを持って立ち上がった速水さん。テレビ画面に表示された曲のタイトルに、今度は私が驚いてしまう。
速水さんが選んだのは、ピロウズの「Funny Bunny」だった。速水さんの嗜好からは想像もできない選曲に、私は尋ねずにはいられない。
「えっ、速水さん、ピロウズ歌うの?」
「まあ、外崎さんの部屋にあったCDは聴いてるからね。あたしもこの曲いいなって思ったから」
「えっ、大丈夫? 私に気を遣ってない?」
「全然。私この曲好きだし。シンプルに歌いたいなって思ったから。そうだ。外崎さんも一緒に歌わない? 外崎さんだってこの曲、何回も歌ってきてるでしょ?」
イントロが流れる中、私は思いを巡らす。確かに私は、この曲を何度も歌ってきた。ギターを弾きながら家でこっそり歌った回数は、たぶん十回や百回じゃ足りない。
でも、速水さんの前で歌うのは訳が違う。好きな曲を歌って、下手だと思われたときに受けるダメージは計り知れない。
私は目の前のマイクを握られなかった。不要なブレーキが働いてしまっていた。
速水さんはそんな私を急かすこともなく、「まあいいや。一番と二番はあたしが歌うから、よかったらサビで一緒に歌ってくれたら嬉しいな」と言ってから。歌いだす。
速水さんは先ほどのクールな歌声とは打って変わって、落ち着いた歌声で噛みしめるかのように歌い始めていて、その声は記憶していた私の声に、より近いものだった。
自分の歌を他の人の耳を通して聴いていることに、改めて不思議な感覚はしたけれど、速水さんの歌は単純に音程も合っていたし、私にはない透明感があったから、私は心地よさを感じた。速水さんが私の好きな「Funny Bunny」を歌っていることに、羨ましささえも抱いてしまう。
胸の中で湧いてくるうずうずとした感覚は、たぶん抑えこむ必要はないだろう。
速水さんがサビに向かう二番のBメロを歌っている最中、私はマイクを手に持って立ち上がった。歌いながら速水さんが小さく微笑んだのが見える。
メロディーがサビに入ろうとする中、私は確かに息を吸いこんだ。
歌うタイミングは何の合図を交わさずとも、自然に揃った。
私と速水さんの歌声が合わさって、ハーモニーを奏でる。とまではいかなかったけれど、それでも私は、純粋な気持ちよさを感じていた。他の人と声を合わせて歌う喜びを、初めて知る。
実際にライブに行ったことはないけれど、ライブDVDでこのサビを観客が合唱しているところは、私も見たことがある。その人たちも、こんな気持ちよさを感じていたんだろうか。
優しく勇気づける歌詞も相まって、私の胸は満たされていく。
サビが終わって、微笑み合う私たち。文化祭に向けて、少しだけれど前向きなビジョンも、私は描けていた。
最後のサビに向かうCメロは、速水さんに譲ってもらって私が歌った。大げさにならないように、それでも感情を込めて歌う。
歌っている間、私は誰の顔も思い浮かべることはなかった。それでも、胸にこみあげてくるものがあって、歌いながら私は泣きそうにさえなってしまう。
実際泣いても、速水さんは私に白い目を向けることはないだろう。
それでも、私は意識的に涙をこらえた。私の顔なら露知らず、速水さんの顔で表立って泣くことはためらわれた。
私の歌に速水さんが合流する形で、私たちは最後のサビを一緒になって歌う。何百回と聴いてきた歌詞のワンフレーズワンフレーズが、私の心に深く突き刺さる。まるで今の私たちのことを歌っているかのようだ。
速水さんも晴れやかな表情を浮かべていて、私は人知れず感動してしまう。
もしかしたら私は、ずっと誰かと歌いたかったのかもしれない。お互いに好きな歌を、何の気兼ねもなく歌いたかったのかもしれない。
サビの最後のフレーズにも自然と力がこもる。
歌い終わったとき、私はまったく爽やかな気分だった。かつてないほど清々しく、他の人とカラオケに行くのも悪くないと思える。こんな気持ちになれたのも、速水さんと一緒にいるからだ。
私たちは目を合わせて、どちらからともなく笑いあった。
カラオケのアウトロが部屋を越えて、どこまでも響いていくようだった。
(続く)